辺鄙な村の孤児院運営を任されたシスター・アセリアの受難
にゃしん
1
古い街道を一台の馬車が進んでいる。
先頭には二頭の馬の姿があり、馬車の重さを物ともせずに力強く牽く。
黒を基調としながらも質素な意匠を細部に施し、両方のドアには逆十字の紋章が描かれている。
山の稜線の裏側では太陽の存在を報せるかのように暗闇はなくなり、遠く彼方の空を茜色に染めて一日の始まりを伝えようとしていた。
馬車の中で一人のシスターがまだうたた寝の最中であるにも関わらず、朝日を予見してか自然と瞼が開いた。無表情で血が通わないような冷たい目をしながらも、修道服に身を包み、首からさげるロザリオを大事に握りしめる。
完全に閉ざしていたカーテンを開くと、今しがた稜線を越えたばかりの朝日が顔を覗かせる。ランタン一つだった車内を優しい陽光が照らし、仄かな暖かさを呼び込んだ。
陽はシスターの顔を照らすまであがり、眩しさのあまり思わず手をかざして目の下に影を作った。山の麓に鹿の群れを見つけ、親子であろうか睦まじく草を食す姿に心が和んだ。
六日前に教えの師である大司教の下に人事異動を受けたシスター――アセリアは、長年働いてきた修道院を後にし、教会の責任者として初の仕事場となるフルト村へと向かっていた。
先程から景色の代わり映えの少ないこの街道に少々嫌気がさしてきたが、心の中は緊張と不安が多数を占めている。
「シスター、村が見えますよ」
出発時と変わらず背を向けたまま手綱を持つ御者が不意に声をかけてきた。
膝上に乗せたままの聖書を閉じ、少し重く息を吐くと、山の麓に広がる森のさらに手前に目的地であるフルト村が見えた。
その中に大きな建物があり、それを中心として歪な円を描いたように家々が立ち並ぶ。あの建物は恐らくは有力者の家であろうか、実にわかりやすい。
視角を大きく取れば、村全体は森に囲まれており、その森へと続く道が二箇所確認できる。一つは外部との接続のために存在するようで、目線で辿っていけばアセリア達がいる馬車への道へと通じている。そして、もう一つは完全に森の中に姿を消しているため、行く先は不明であった。
しかしながら、アセリアはまだ教会を見つけることが出来ずにいた。
候補にあがりそうなものといえば目に留まるあの大きな建物であろうが、国教を示す逆十字の印は見当たらない。ただ、周りの家々は明らかに民家として機能しているようにしか思えず、アセリアの見当は正しいと感じざるを得ない状況であった。
「曲がります、ご注意を」
御者が言うと、馬車はぐるりと右折した。
車輪を激しく回しながら車内を上下に揺らす。
今や地面は石畳ではなく手つかずの凹凸が生じる土のものへと変化した。
枝を裂く音や枯葉が車輪によって舞い上がり、窓枠に生じている隙間からは森の独特な匂いに鼻が痒い。
決して近づこうとはしない獣や鳥の囀る声が森に入るアセリアの存在に警鐘を鳴らすが如く、至る所で聞こえてくる。
入ったばかりであったが、すぐさま森を抜ける事となり、馬車は減速を始めた。
外へ出る準備をしなくては、とアセリアは足元付近においていた手荷物を準備し、聖書をその中へと入れた。
カーテンを閉じ、乱れたベールを手で整えた後、少し咳払いをして降車の準備を整えた。流れていた風景も止まった所で御者の降り立つ音がした後、閉ざされていたドアが開けられた。
「目的地のフルト村です。どうぞ、シスター・アセリア」
アセリアはゆっくりと頷き、長旅で忘れていた歩き方を再確認するかのように御者の手を借りながら一段ずつ階段を降りる。
最後まで降り切り、朝露に濡れた若草を靴で踏みしめると、青い香りが沸き立つ。
眼前には街道から眺めていた村の入り口が見え、村の名前を伝える古い標識が地面に突き刺さっている。
フルト村――話程度には聞いていたが随分と田舎な村だ。
分かる範囲で一軒の家を観察する。
屋根に塗料などはなく、伐採して加工したものを単に敷き詰めて作ったような簡素なもので外壁の一部は補修した跡だろうか杜撰なツギハギが目に映る。
家としては機能しているのだろうが、アセリアが暮らしていた都市の一般的な家とは大違いで、少々困惑をしてしまった。
なによりも人影が一つもないのが印象的で遠くに見えるあの大きな建物からアセリアの位置まで一直線に続く道には誰も姿をみせない。
一体この村のどこに教会が存在するのだろうか。
アセリアが遠目まで目を凝らしていると、奥に人影が見えた。
よたよたと決して走っているようには見えない速度で人影が近づき、やがてそれは初老の男性であることが判明した。
アセリアの前までやってくると、疲れ果てた表情で肩を上下に激しく揺らして息を切らし、待つこと数十秒で息をようやく整えると、口を開いた。
「ようこそ、シスター」
少ししゃがれた声の男性であった。
黄土色の衣服で全身を整えた格好で額から頭頂部まで頭皮を顕にし、縮れた短い巻き毛の男性は萎縮した態度でアセリアにお辞儀をした。
「あなたは?」
アセリアは気にせず無表情のまま尋ねた。
「ここで村長をやっております、オーバンという者です」
村長と名乗らなければ決して分からない程、アセリアには単に農民ではないかと思うほど、らしくない。
経験でいえば有力者というものは一際目立ちやすい格好をして、言動や振る舞いを大きく出す者が多い。しかしここの村長はその例から漏れている。
よくいえば謙虚というべきだろうが、背景が農村だと考えれば貧相というべきだろう。
「私はシスター・アセリア。みなはアセリアと呼びます」
アセリアも深々とお辞儀をかえした。
お辞儀の途中で村長の瞳を覗き込んだ。疲れて淀んだ目が印象に残る。
「話は聞いております。何でもここで神の教えを説いていただけるとか」
「ええ。それで違いありません。ところで」
言いかけた所で先程までいなかった村人たちが家の影からこちらを覗いていた。
決して快く迎えるような瞳ではなく、危険と貧しさを伴うギラついた目つきでまるでアセリアを品定めするかのように村人達はそれ以上は顔を出さずにいる。
何よりもアセリアが一番に注目したのは老人の多さである。
村長と似たりよったりな風貌でさらに貧相な単調な褪せた土色のような服装で、何かしら病を患っているように思える。
次いで女性、子供の順に確認ができ、若い男は今のところ見当たらない。
顔色は悪くはないが生気が溢れてることはなく、やや伏し目がちで無表情。
白い歯を見せる者などいない。
随分な田舎に来てしまったな、とアセリアは胸の内で複雑となった。
「ここで立ち話も何ですし、そろそろ教会に案内してもらえませんか?」
アセリアの視線の先が自分ではなく村人達に注がれている事に気づいた村長は、慌てて頷くと踵を返すと、少しふらつきながら進み始めた。
それに続こうとしたが、待たせている御者に感謝を告げると、御者は同情のような瞳で見つめ、お辞儀をした。そして、定位置である御者台に座り、馬に発車の合図を鞭で伝えた。
十分な休息にはならなかったが、馬たちは少しいななくと軽快なリズムで蹄を鳴らしながら馬車を牽き始め、ゆっくりと去っていった。
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