三十路のババア
@wizard-T
「古川のおばあちゃん?」
そこはまるで、教科書やテレビの中にしかなかったような所だった。
ここが東京と同じ日本だとは信じたくない位に空が高く、視界が広い。
(こんな所に生まれてたら私、どんな子に育っていただろうな……)
性別、女。年齢、三十七歳。仕事、広告代理店の経理課の係長代理。独身。彼氏いない歴五年。それが私の身の上。
大学を出て十五年余り働いて得た物と言えば、年収五百万円を得られる今のポストと、家賃十二万で最寄り駅から十分の賃貸マンション。そして肌荒れと淋しい時間。
里帰りをしようにも、私の実家は東京の築四十年のやはりマンション、今住んでいる所から直線距離にして十キロ。そんな所に里帰りをして何があると言うのか、せいぜいまだ相手は見つからないのかと迫って来る双親と、半年前に先を越された五つ下の妹と同い年の旦那に会うのがせいぜい。
悪い癖だなとは思いつつもスマホを手に取ってしまう。三十七年間東京都からほとんど一歩も出ず、高校の時の北海道への修学旅行を風邪で欠席し、人生最大の遠出が中学校の時の日光への修学旅行と言う自分がこんな名前以外まるで知らない場所に来てしまった以上仕方がないと思いたいが、どうしても見知らぬ土地への不安が先に立ってしまう。
人口二千五百人、高齢者率三十パーセント、おもな産業は林業。村役場から最寄り駅までは徒歩三十分。
二日間滞在する予定の民宿の位置ぐらいでいいのに、そんなどうでもいい事ばかり調べてしまった。グルメにも観光地にも興味はない、名前しか知らないような土地の空気を吸いにやって来たはずなのに、これでは未知の土地を体験すると言う感覚が薄れてしまう。
この三日間、上司や部下たちはどうしているのか、取引先の人たちはどうだろうか。有給休暇を使ったからとは言えこんな平日にこんな所を出歩いているなんて知ったらどう思うのだろうか。
休日の過ごし方と言えば近所の店に入り浸って甘い物かアクセサリーか新しい洋服を漁る、その三つが定番だった。
でも、最近流行の断捨離でもあるまいがこの前五年間着ない洋服を全部処分してすっきりしようと思った結果、減った洋服が三着だけだったのは正直笑った。
この際とばかり三年間でくくってみたが、それでも六着に過ぎない。無駄の少ない人だと部下の子たちは褒めてくれたが、そうやって無駄のない生活を送って来た結果、こうして結婚適齢期を逃してしまっては話にならない。
こんな所でも、東京と変わらない物が一つだけある。道路だ。東京のそれほどくたびれている様子はないものの、アスファルトが敷き詰められ白線が引かれガードレールが置かれている事については全然変わらない。やはりここも同じ国なのだと少しホッとする。
田畑や青空、緑が萌える山ではなくそんな物に安息を感じてしまう私も私だが、実際そうなのだから仕方がない。
(真っ当な結婚をしてれば……ねえ)
私の趣味嗜好と言うか性格って奴もほとほと困った物で、私が駅を出て最初に向かったのは山でも旅館でもその他の店でもなく、小学校だった。
もし私がこんな年まで独り身に甘んずることなく、最後に付き合った彼氏と籍を入れて入れば、今頃幼稚園児ぐらいの母親にはなっていたはずである。そして子どもを進ませることになるであろう小学校の内部の事情や、よその母親やその子供の素質や手間の多寡を見極めんと奔走していたに違いない。
二階建ての白い建物、教室は四つずつ。それが私がぱっと見立てた所の学校の規模。おそらくは大きくは外れてはいないだろう。
一体どれだけの数の、どんな生徒がいるのかはわからない。けれど最大限に見積もって私が育って来た学校の、二クラスあるかないかぐらいの人数しかいないであろう。余り記憶力の良くない私だって、ひと月もあればクラスの人間の顔と名前を一致できてしまっていた。私ですらそうなのだから、もっと頭の出来がいい人ならばひと月もすれば何もかも覚えてしまうだろう。そうやってお互いを把握し合うのが社会と言う物であり、集団生活の基礎と言う物である。
私が通っていた中学校は普通の公立校だが、それでも二駅分電車に乗り三十分かけて登下校する生徒もいた。直線距離にしてみれば三キロ以上、会おうとしなければ会う事のない距離だ。そして普段会わない所で、何の問題があると言うのだろうか。私自身、中学校時代にプライベートでよく顔を合わせていたクラスメイトなど四人ぐらいしかいないし、それで問題なく過ごして来た。
でもこんな所で過ごしていると、通学距離とか云々以前に会う人間と言うのは限られてしまうだろう。
否応なく顔を合わせている内に、否応なく相手の事を知ってしまう。そして隠し事などできない、しても無駄だと考えるようになる。
一方で私は今日ここに来るまでの間に、一体何人と会って来たのか全く覚えていない。そして、上司や同僚には旅行とは言ったが行き先は隠している。大してその必要もないのにだ。
人込みが日常であり喧騒が平常であった人間に取って、人が少なく閑散とした田舎は非日常であり異空間だ。そんな人間がこんな所に来て一体何をしようと言うのか、自分でもわからない。そういう異空間に来て新しい何かを見つけようとしたとでも言うのか、単に都会の喧騒から逃れようとしただけなのか。
それにしては道路だのガードレールだの、道路の脇にポツンと立っている全然古びている様子のない自販機だのと言う都会の文明的な物質に安堵し、また学校と言う都会でも強く幅を利かせる施設に足を向けてしまうのが私と言う人間であった。
校舎の外観は、私の知っている小学校とさほど変わりはない。でもそこにいる児童たちは、おそらく子ども時代の私たちとは全く違うだろう。
私が小学校を卒業して二十五年、いや二十五年と言う時間以上に、地理的条件が違いすぎる。そして今は午後三時半、おそらく授業時間はとうに終わっている。
大都会ならば家でゲームだの塾だの習い事だの、もちろん宿題だの何だので自分の家を含めて建物から出て来なかったり別の建物へ向かっていたりだのあるだろう。自分だってそうだった、でもこういう所の子どもたちが放課後何をしているのか、私にはてんで想像もつかなかった。
こういう所の子どもらしくゲームや漫画、スマホなんぞに目もくれずに走り回っているのか、それとも都会の子供と同じようにそういう代物に夢中なのか。インターネットと言う異空間により住んでいる所も本当の名前も生の声も素顔さえ知らない人間同士がつながる事が全く珍しくなくなった今、そしてそういう中で生きている私にとっては後者の方がむしろ好ましい、と言うより接しやすかった。
こんな所で地元の子供と触れ合う機会があるとは思えないにせよ、だ。
「東京からですって、何でまたこんな所に?もしかして猫ですか?」
「猫って何ですか?」
小学校を眺めている内に日が落ちかかって来たので、あらかじめ予約を取ってあった民宿へと足を運んだ。民宿らしく随分と良心的な値段かつ暖かなたたずまいと人、これ一つの為に来ても良いのではないかと思いたいぐらいであり、帰ったらこの村の魅力をプレゼンテーションしてみたいぐらいである。
おっと、我ながら何とも悪い癖を発揮してしまった、今は仕事の事は忘れてゆっくり浸るべきだと言うのにだ。
「あら違うんですか……それは失礼。でもやっぱりそういう広告代理店って所のお仕事って大変なんですか?うちの人なんかこの時期になると毎日道具かついで山に行ってはの繰り返しでねえ、三人の息子のうち自分の仕事を継いでくれた三男坊を立派な山の男にしてやるって言ってねえ、六十過ぎたって言うのに全く衰えない人でね……」
木こりである家主の長男は地元の学校の職員として残り次男は都会に出て、三男が木こりの稼業を継ぐそうだと言う。
このご時世に三人の子どものうち二人が地元に残ってくれるなんて大した孝行息子たちじゃないか。しかも長男は既に嫁をもらい子供が二人いると言う、次男も然りらしい。そんな立派な子に育て上げるだけの器量とは一体何なのか。髪の毛こそかなり白いが六十三と言う年齢不相応に数の少ないおばさんの皺をやや強引に眺めながら、私が自分はこんな女性になれるかどうかと言う不安に襲われた。
「お母さん、すごい器量ですね……」
「器量と言われてもねえ、私は私の出来る事をして来ただけですよ」
その不安に襲われて間抜けな質問をした私に対しおばさんは私の予想通りの答えを返して来た。
初対面のはずなのに心を見透かされた気分になって来る。
それとも世の中の母親って言う人種はみんなそうなのだろうか。
三十七にもなって娘をやっている不甲斐ない私を勇気付ける為にあえて言ったのだろうか、いや私のそんな背景まで察しているはずはあるまい、と言うかそうだとしたら恐ろしくて仕方がない。
「ここは平和でいいですよね」
「まあねえ、こんなとこでも事件ってのは起きますよ。あれは一昨年でしたかねえ、隣の隣のそのまた隣の家に飼われてるネコが三毛を産みましてねえ、それにこんなちっこいのがくっついてたんですよ、その事をなんとはなしに次男に話したらもう大騒ぎで、その年には次男が一家を引きつれて揃って帰省してくれましてねえ、そんなに珍しいもんだとは思わなくて、あの時は地元の新聞もやって来てねえ……ああちょっと待って下さいね」
三毛猫のほとんどがメスでありごくまれにしかオスが生まれない事は私も知っている、そしてそのほとんどが生殖能力を持たない事もだ。
確かにオスの三毛猫が生まれたとあればそれだけで話題にはなるが、都会で日々いろんな情報に接して来てしまうとその程度と言う感覚の方が強い。
ましてや二年前の事をそんな浮かれ上がって話す事など私にはできない。私たちにとっては三日前でも古いニュースであり、一年前なんて完全な過去だ。
そして三棟隣のマンションの、いや三部屋隣の住人が何をしているかなんて知らないし、知りたくもない。変なプライドを起こして対抗心を燃やし、誘導尋問めいた言葉をぶつけて自分のペース、と言うか都会のペースに巻き込もうとした自分が何とも恥ずかしい。おばさんが極めて嬉々とした表情で薄黄色に色褪せた新聞を持って来るその顔を見ていると、笑うしかなくなって来る。
「大変喜んでいただけたようで私も嬉しいですよ」
何とも暖かで包容力のある笑みだ。それを写真に撮っておこうとしてスマホをカバンの中から取り出そうとし、結局やめた私の行動は正しかったのだろうか。良い物であるからこそ残したいとも思う。でもこんな風に何でもかんでもファインダーに収めてしまう事が良い事なのかどうか、今の私はわからなくなっていた。
私が東京とは全く違うこの山村でぼうっとしながら赤黒い空を眺めていると、三つの声が飛んで来た。
「おう帰ったぞ」
「ただいま母さん」
「おばあちゃーん」
後になればなるほど軽さを増して行くその声がおばさんの旦那さんとその三男、そしておばさんの孫である男の子と言う事は簡単に予想が付く。
「見た所客がいるようだけど、一体いつ以来の話だ?」
「お父さんったら、ええと十ヶ月ぶりよ」
内心そんな事だろうとは思っていたから驚きもしない。よその市町村とどれだけの繋がりがあるかわからないこの一種自己完結した村において、どんな人間が宿を利用すると言うのか。
「十ヶ月前の客ってさ、確か吞んだくれて女房に追い出されたあの野郎だろ?お前もほんとにしっかりしてるよな、そんな奴から素泊まり分とは言え金を取るとはよ」
「ちゃんと話を付けてあげたぐらいだからあれでも大サービスですよ、まああなたがそういうならば返してあげてもいいんですけどね」
「やめとけ、俺だって止めなかったんだからな」
生々しく、かつえげつないお金の話なのに嫌らしさがない。何とも羨ましく、そして不思議な話だ。
三十年以上共に過ごして来た夫婦の味なのか、さもなくばこの土地がなせる業なのか。おばさんも旦那さんも、客に丸聞こえなのに全く気にしていない。
(東京に戻って今の話をしたらみんなどう思うだろう……)
一瞬頭をよぎったのは、才能と言う言葉だった。
老後の田舎暮らしとか簡単に言うが、こういう毒を含んだ文言をさらりと後味よく言えるようでなければならないとしたら、肉体的以上に精神的ハードルが高すぎて都会の人間は参ってしまうだろう。
「親父、お客さんが聞いてるんだから」
「私、気にしてませんから……」
「気にしてないっつってるし、大丈夫だろ。お前も来年で二十六だろ、いい加減嫁を持てよな」
「親父、兄さんは二十九だったろ?そんなに焦る事ねえだろ」
「下の兄貴はそうだったけど上の兄貴は二十四だったんだよ、小学校の先生になり次第結婚するって約束してた嫁と籍入れたんだぞ、いや正確に言えば二十三か。都会で家売り歩いてる次男坊がようやく結婚した時、俺は既に小学生の孫娘を持つ爺さんになってたんだぞ。お前もそろそろいい女を見つけねえと危ないぞ本気で。俺の仕事を受け継げそうな奴を頼むよ」
「上の兄さんはってあっさり言うけどさ、上の兄さんは中学校出た時にもう親父と向こうの家で話がまとまっててさ、もう完璧に許嫁だったんじゃないか?俺は上の兄さんと十四も年が離れてるから聞いた話でしかねえけどさ、下の兄さんや俺にはそんな話全然なかったんだろ?ってか爺さんって言うんなら、親父は四十六にしてもう爺さんだったんだろ。お袋なんかギリギリとは言え四十路で婆さんになっちゃったって苦笑いしてたって話だぜ」
「ったく、妙な事に限って覚えてやがんだなお前は」
許嫁と言う言葉を聞かされてももう驚かなくなっていた。
ここは何もかもが違う。
日本と言う国の中にある、東京とは別の世界。三十七歳の独身女なんて、存在し得るはずもない世界。
存在できるとすれば、それは未亡人だけ。それもおそらくは、夫に死なれてすぐのそれだけ。
だがそれとて、ある程度の時が経てば新たな相手と婚姻するのだろう。ドライとか言うのではなく彼女本人の悲しみを癒そうとして、周りの人間が動き出し第二第三の縁談を持ち込んで来る。そこに基本的に彼女の意志はない。
子どもがいようがいなかろうが、新たな婚姻が良い意味で機械的に行われる。いやあるいは、子がいようがいまいが二夫に見えずとばかりにそのまま独身を貫かせるのかもしれない、これまた彼女の意志の及ばない力で。とにかくいずれにしても、三十七にして未婚の女と言うのは存在し得ないだろう。
「おじさーん、今度一緒に遊んでよ」
「おじさんって、お兄さんと呼んでくれよ。まだ俺は二十五才なんだぜ」
「だって父さんの弟だから叔父さんでしょ?ねえおじいちゃん」
「そうだな叔父さんだな」
男の子は、どうやら地元の学校で教師をしている長男の子どもらしい。二十四で結婚した父親を持つにしてはいささか幼く見えるその子は、おそらく長子ではないのだろう。まあ、どうでもいい事だが。
「婆ちゃん、来年姉ちゃんが行く村の外の高校ってのはどんなとこなのかなー。父ちゃんに聞いてもまだ早いって教えてくんないんだよ」
「まだ6月でしょ、ったく気が早いんだから。そういうとこはお爺さんに似ちゃったのかねえ」
「そうかあ、気長じゃないとあんな仕事やってられねえぞ」
うちの広告代理店は三十歳以上の男性向けで、子どもを相手にする事は少ない。
社会人になってから会計畑を歩み続け十五年間ディスプレイの数字を眺めて過ごして来た私が、生の小学生をこんな至近距離で目の当たりにするのはいつ以来だろうか。
「あれっ、古川のお婆ちゃん?」
そんな彼の姿をじっと眺めていた私を、その男の子はお婆ちゃんと呼んだ。
もしそんな言葉を東京でかけられたら、私は全身の血を沸騰させて吠えかかっていただろう。でもいつの間にかこの地方の空気に慣らされていた私は、眉をひそめるだけで声を荒げる事はしなかった。
「こら、この人は東京から来た泊りに来たお客さんなんだから。…まあ似てるけどね」
「でも本当に古川のお婆ちゃんにそっくりだもん」
三十七歳と言う年齢なりに肌は荒れているはずだし、でも白髪も探さなきゃない程度だし人並みに美容には気を使って来たつもりだった。
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