第2話 失われた記憶の断片

 "防波堤のように連なるビノーウ山脈を乗り越え、悪意に満ちた、いや悪そのもののような黒雲が今まさに緑の谷に流れ込もうとしていた。数万年の時をかけて育まれた生命の宝箱のような水と森が失われようとしている。男は無力に横たわり愛する女の膝枕でそれを見ていた。

「時間だ逃げるんだ、」 

女は溢れる涙を抑えることができない、ただ必死に首を振りながら訴える。

「無理よあなたを置いてなんか行けない。」

「分かっているはずだ、」

すでに男の体は滅していた、意識があるのは女を逃がすために用意した最後の一撃を放つため必死に踏みとどまっているからに過ぎない。意識を手放してしまえば跡形もなく肉体は消滅してしまうだろう。

「一人は嫌、一緒に死なせて。」

男には女の恐怖が理解できる、女には男の悲しみが理解できる、だが二人には使命があった、彼らの敗北はこの世界の滅亡に等しい。

「行け、次のために力を蓄えるんだ、」

炭化した男の体が足元から塵となって消えていく、女は残った男の体を木の根元に横たえ素早くくちづけると姿を消した。悲鳴にも似た女の泣き声が遠ざかっていく。

 男の魂が肉体から解放されたと同時に膨大なエネルギーの塊が弾けるように迫り来る黒雲へと突っ込んでいく、そして凄まじい爆発音が谷間に響きわたり黒雲は大きく形を変える、しかし、やがてゆっくりと何事もなかったかのように再び緑の谷間を侵食しながら広がっていく。"

 ガクンとバスが大きく弾みユキは目覚める、心の潰れそうな喪失感が彼を支配していた。また彼女を一人残して死んでしまった、彼女は幼く未熟で、そして自分にその拙さを支える力がなかった。大丈夫だ、はるか昔の出来事だとユキは苦い薬を飲み込むよう心に収める。頬には女の涙が唇には乾いた女の口吻の感触が残るが女の顔も名前も思い出せない。いつもの事だが歯痒い事だとユキは嘆息する。

 周りを見回すと、いつの間にか乗客が増えていた。長旅に疲れていたのか、深い夢に意識を完全に持って行かれていたようだ。迂闊にも師匠から送られて来た情報報酬に慌てて手を出し無防備になった自分をユキは強く戒める。雨はいつの間にか上がり車窓から見えるのは濃い霧だった。深い谷に隔てられた境界線ギリギリをバスは走っている筈、ハンドル操作を誤りば永遠に落下し続ける次元の狭間と隣り合わせの場所で、何が起こっても不思議ではない。

 ユキはゆっくりと車内を見渡し新たな乗客二人を観察する、二人は同じような防水性のフード付きマントを羽織っていて後ろの男は学生服を着てるところから、おそらく高校生だろう。ユキの視線に小さく会釈を返してきた。前に座る乗客も顔は見えないが、同じマントを着ていることから同じ学校の生徒なのだろう最前列の席から身を乗り出して進行方向を食い入るように見ている。声は聞こえないが、運転手と時々言葉を交わしているように見える、顔見知りなのだろう。ユキはその様子を見て少し安堵する。

 巡ってきた聖地とかパワースポットと呼ばれる場所は決して、どれもが豊かな場所ではなかった。長い内戦で貧困に喘ぐ地域や聖地にすがりつく難民の群れは敵の恰好のターゲットになっていた。人の命の価値の低さに恐怖すら覚えた、売られた子供達は洗脳され少年兵に、やがて使い物にならなくなれば爆弾を抱えて民衆の中に放たれる。その方法を教えこんだのは異世界人だったかもしれないが今それを器用に使いこなしてるのは間違いなく人間だった。日本でそんな光景を見ることはない、だがこのバスが最前線行きだということを忘れてはいけない。



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