ろ
長野にある高校からバスに乗り、武蔵野での現地解散。学生たちはのびのびと観光を満喫するが、教師陣は気を緩めるわけにはいかない。松本も彼らの動向に気を配り、時には冷や汗をかいていると、あっという間に夜になってしまった。
今年度の宿泊先は、名所としても有名な井の頭公園の近くにある。夜の点呼を終えて自由時間になると、学生たちは公園へと飛び出して、楽しそうに遊び始めた。
「松本先生! 見てみて、満月!」
「ああ、本当だ。きれいだね」
女子生徒が指差す先には、鮮やかな黄色を纏った、美しい満月がある。暗い夜の帳に、どっしりと鎮座する衛星。その様子はあまりにも荘厳で、今にもこちら側に落ちてきそうだった。
「武蔵野はね、月の名所としても有名なんだ。例えば、鎌倉時代の和歌に――」
「あー、そういうのはいいです」
松本の課外授業が始まると思ったのか、生徒は冷たい言葉を残して、さっさと仲間のところへ行ってしまう。後に残された松本は複雑な気持ちになったが、改めて頭上に広がる夜空を見上げた。
「本当に、きれいだな……」
どこまでも続く群青を見ていると、まるで遠い昔に帰ったような感覚になる。奈良の都で生まれ、その後あちこちを転々としている彼だが、これほどの光景を見られるとは思わなかった。
「う……」
――その直後、後ろから苦しそうな声が聞こえてきた。慌てて振り返ると、諏訪が辛そうに頭を押さえ、その場にうずくまっている。
「うそ、瑞穂!?」
「えっ、どうしたの!?」
仲間は慌てて彼女に駆け寄るが、一向に顔色が良くなる気配はない。松本も「諏訪、平気か」と声を掛け、そっと優しく肩を持った。
「先生……、私……」
「分かった。少し、休憩しよう」
一日動きっぱなしで、かなり疲れ切っていたらしい。松本は弱々しい彼女の手を取って、近くの芝生に腰を下ろさせた。
「大丈夫か?」
「……はい」
少し首を動かして、ぼうっと空を見上げる諏訪。その黒い瞳は、心なしかうるんでいるように見える。
「……先生。私、怖いんです」
「怖い……?」
涼しい夜の風が、彼女の黒い髪を揺らす。その輪郭が、何とも寂しげだった。
「夜空を見ると、悲しい気分になるんです。誰かに呼ばれているような気がして、知らない人が手を差し伸べているような気がして……」
瞬きをした彼女の目から、一筋の涙が零れ落ちる。黄色い月の輝きを乗せ、透明な雫は白い頬を濡らした。
「特に月を見ると、無性に泣きたくなるんです。心の奥がぐしゃぐしゃになって、辛くなって……」
……その美しい声は、徐々に嗚咽交じりになっていった。複雑な彼女の容姿を、松本はただ眺めることしかできない。
「こんなにきれいな満月じゃ……、私、気がおかしくなっちゃいそう……」
刹那、肩を震わせて泣き始める彼女。その上空を、一筋の雲が流れていく。
……悲しまないでくれ。松本は、諏訪を抱きしめたい衝動に駆られた。できることなら、彼女のことを慰めてやりたい。心配ないと微笑み掛けて、その黒い髪を優しく撫でてやりたい。
――でもそれは、永遠に叶わぬ夢だ。朝露のように脆く、霧のように儚い。
そう、泣きたいのは、松本も同じだった。
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