今は武蔵野。

中田もな

「ねぇ、覚えてる――?」

 ……放課後の教室から、美しい歌声が聞こえてくる。今流行りの、恋愛ソング。もうすぐ最終下校時間になるが、一向に歌い終える気配がない。

 松本は古典のプリントを印刷するために廊下を歩いていたのだが、鈴を鳴らすようなきれいな歌声に気がつくと、足を止めて辺りを見回した。二年三組の教室から、人の気配がする。

「おーい、もうすぐ下校時間だぞー」

 ガラガラッと扉を開けると、美しい歌姫はこちらを向いた。黒いロングヘアに、黒い瞳。滑らかな容姿は、見る人を魅了する魔力がある。彼女は夏用のセーラー服を揺らしながら、松本に向かってぺこりと頭を下げた。

「やっぱり、諏訪すわだったか。きれいな歌声だが、続きはまた明日だな」

「はい、先生」

 諏訪は返事をすると、優しい笑みを浮かべる。その笑顔は夕日と重なり、実に美しかった。


 諏訪瑞穂すわみずほは、少し不思議な高校生だ。成績優秀で、容姿端麗。少々病弱な体質だが、人気の高さはずば抜けている。もちろん、異性に何回も告白された。が、いつもやんわりと断るのだそう。その理由は、誰にも分からなかった。


「今日のロングホームルームは、東京観光のことについて、皆で話し合ってもらう」

 ……松本がそう言った途端、女子たちがわあっと諏訪の下へと集まった。週に一回あるロングホームルームは、主に学校行事の計画のために設けられている。今回の議題は、学生が楽しみにしている、二泊三日の東京観光だ。ゆえに彼らの勢いは凄まじく、女子生徒たちは「瑞穂、私たちと班組んでよ!」などと言って、担任の彼が仕切る前に勝手に話を進めてしまった。

「おい、まだ何も言ってないんだが……」

「えー? だって、班決めするんでしょー?」

「……まぁ、そうだけど」

 松本が若手の教師だからか、女子生徒たちは彼に気軽な口をきいてくる。男子生徒たちもそれに負けじと、各々勝手に動き始めてしまった。

「おい、おまえ諏訪に声掛けてみろよ」

「はぁ!? 無理だっつーの!!」

 ああだこうだと騒ぐ彼らを見て、松本は頬を掻いた。爽やかなその顔には、「困ったな……」と書かれている。

「あー……。とりあえず、決まったところは報告してくれ」

 パラパラとしおりをめくりながら、彼はそれだけ言って腰を下ろした。今年度の行き先は、いわゆる「武蔵野」と呼ばれる地域。国語の授業で題材として扱われた、国木田独歩の『武蔵野』で描かれた場所だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る