魔法おじさん
トール
一章
第1話
「疲れた」
帰りついて放ったこの一言が、今の全てを表している。
青春なんて遥か昔に通り過ぎて久しい晩秋。甘酸っぱい季節も熱く猛る季節も終わりを迎えて、紅葉だなんだと誤魔化して答える枯れ始めの三十五歳。
高卒が最終学歴なので一従業員として働き始めて十七年。年収は七百万そこそこ。家族を悠々と養うには足りないが、一人暮らしなら何も問題がないレベル。趣味に食事にお金を掛けられる。
彼女の一人でもいたのなら、見栄と下心にお金を使ってきたのではないかと思うのだが、生憎とイナイ歴イコール年齢だ。つまり頭は大人、下半身は
三十を越えて凝り固まってしまった性格や生活が今更変わる訳もなく、貯金は貯まっていく一方で、家庭なんてものが出来る兆しは見えず。
一人暮らしのアパートに帰り着いて出てくる言葉も、『ただいま』なんかではなく『疲れた』だ。最近は夢も見ない。
終わっている。全くもって終わっている。
しかしどこで終わってしまったのか分からない。灰色の青春時代も黒が混じる社会人時代も、そもそも始まっていた時期などないのだから。
生きるってなんだろうなあ。
ぼんやりと考えながらモソモソと着替える。食事して風呂に入り、明日の為に早く寝る。疲れていても次の仕事のためにと、帰ってからのルーティーンをこなす。
疑問を抱きつつも体が動くのは、なんだかんだと残っている冷静な部分が『働かなければ生きてはいけない』と答えを出しているからだ。
コンビニで買った食事をテーブルに放り、先に風呂に入ることにした。
ポケットから鍵やら財布やら携帯やらを取り出してから浴室へ。悲劇を繰り返さないための習慣だ。脱いだ洗濯物は洗濯機の中に放り込んで放置。週末にまとめて洗うのでそそくさとシャワーだけ浴びる。湯船に最後に浸かったのはいつだったか思い出せない。
さっぱりしたところでご飯にしよう。今日もあと一時間を切った。しかしながらこの一時間だけが希望と呼べる。唯一自由になれる時間なのだから。ああ、何をしようかな? 適当な動画を見てもいいが、一時間早く寝るのも捨てがたい。待て待て、布団の中で瞑想するのはどうだ?
コンビニで買ったお握りやサンドイッチの包装を取りながら考える。弁当を買った方が安く済むのだが、いつも食べる弁当がなかったので、好きな具のお握りとサンドイッチを適当にカゴに放りこんだ結果だ。健康感はゼロ。倒れたら休みが貰えるのだからむしろプラス。
昔は考えていたかもな健康、もしくはアンチエイジング。
しかし圧迫される生活にゆとりを持った考えなんぞ生まれる筈もなく、今日も今日とて好きな物。偏った御食事。飲むのは炭酸。
ビールを苦いと感じる子供舌は、この歳までのジュースの愛飲を可能とした。でもそのせいなのか、飲み会などには呼ばれたことがない。ああそうさ、きっとそのせいさ。みんな気遣い屋さんなのさ。
ビールに焼き鳥がおじさんの晩酌などと誰が決めたのか。コーラに焼き鳥が今風。間違いない。
包装を取り終え、ペットボトルの蓋を回す。キッチンに置いてあるコップなんか使わない。ペットボトルから直飲みするのが通の人。この習性が来客の皆無さを表している。彼女が出来た時とかは気をつけようね。
ゴクゴクと炭酸が喉を通り抜けていく。この糖分でまた頑張れる。
「……ゲフ」
まさしく一息ついて、ようやく込み上げてきた食欲のままに、買ってきた食事へ手を伸ばそうとした、その時だった。
ヴンというブラウン管テレビのスイッチを入れた時に出るような音と共に広がる幾何学的模様。直径一メートルぐらいの光る円の中に収まるそれが、ちょうどテーブルの上に浮かぶ。
アニメとかで見たことがある、魔法陣と呼ばれる物に、それは似ていた。
「おう、ファンタスティック」
とりあえず呟いてはみたものの、反応なんぞ返ってくる筈もなく。思わず周りをキョロキョロと、
しかし隠れていた某がプラカードを掲げるということもなく、事態は進んでいく。
耳だ。黒い獣耳が円から重力に逆らって生えてきた。
ゆっくりと耳が持ち上がるにつれ、その全貌が露となる。
猫だ。後ろ肢で立つ尻尾の長い、やけに人間的な表情の黒猫が、魔法陣から生えてきた。
ニヤニヤと。猫だけに。
思わず距離を取ってしまったために負けている感が凄いある。小動物のくせに。悔しい。無駄に迸っていた紫の光の奔流なんかにも原因がある。なんか毒々しかったのでビビったのだ。
光は消え去れど猫は消えず。未だ人間的な表情でこちらを見つめている。
すると猫が前肢を広げて、
「パンパカパーン! おめでとニャ! あなたフニャ?!」
演説を始めようとしたのでインターセプト。頭蓋骨に響けとばかりに掴んで吊り上げた。
「明日も早出なんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお?!」
メキョり。
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