武蔵野の百年をつなぐ
種田和孝
第1話
囲碁の世界には「囲碁は百年をつなぐ」との名言がある。すなわち、幼い頃に五十歳も年長の者から囲碁のことを教わり、自身が老いた時には五十歳も年少の者に囲碁のことを教えれば、人と人、囲碁と囲碁、その百年をつなぐことになる。
考えるまでもなく、それは他の事柄にも当てはまる。武蔵野のあり方もその一つ。これまで多くの者が武蔵野の百年をつないできた。ただし、今ここでその者たちの列に加わろうとするのなら、武蔵野という地域名の使用には十分に留意しなければならない。
現在、武蔵野という地域名には主に二つの定義がある。
第一は旧武蔵国の全体、ただし山岳地帯を除く地域を指すというものである。ちなみに、旧武蔵国には北から埼玉県、東京都、神奈川県東部が含まれる。武蔵の国の野だから武蔵野。その発想は極めて自然であり、武蔵国と武蔵野という二つの地域名に解離が無い。
第二は東京都の東部と中央部、および埼玉県中央の南部にまたがる地域を指すというものである。より具体的には、第一の定義から旧東京市を抹殺し、東京都西部を除外し、埼玉県東部・中央部・北部を無視したものである。これはある人物が風物に関する自身の趣味趣向に基づいて提唱した定義であり、「抹殺」は当該提唱者が使用した表現である。
江戸後期の江戸名所図会では、埼玉県東部の旧足立郡、埼玉県中央部の旧比企郡なども武蔵野の一部として紹介されている。さらには、埼玉県北部には現在も武蔵野という地名が住所として存在し、その広がりは東京都武蔵野市全域とさして変わらない。つまり歴史上、長らく第一の定義が一般的だった。一方、第二の定義が提唱されたのは明治後期である。それ以降、二つの定義が世に混在し、それが時としてセンシティブな問題を引き起こしてきた。
ここは武蔵国なのに、なぜ眼前の林野は武蔵野ではないのか。いかにも子供たちが抱きそうな素朴な疑問。それは昔、ある人物が「自分の好みに合わない」と言ったから。そんな答は通用しない。そのため昔から、第二の定義によって武蔵野外とされた広範な地域には、当該定義と当該提唱者を忌避する向きがある。本来の定義に触れずに第二の定義を強調する行為は、個々人の原体験と郷土愛を棄損しようとする試みと受け取られることがある。
◇◇◇
低地の水田や葦原。台地の畑や林。林の植生。差し込む日差し。吹き抜ける風。武蔵野全体を覆う霧。林の中に網の目のように広がる小道。
国木田独歩が随筆「武蔵野」に記したそれらの情景は紛れもなく真実であり、第二次世界大戦後の高度経済成長期までは旧武蔵国の各地で、所によっては現在でも見られる風景である。国木田の記述は詳細かつ多岐にわたり、武蔵野のあり方を後世に伝えるという意味においてはその功績は非常に大きい。そんな作品を承けて武蔵野の百年をつなぐとしたら、そこに何を付け足すべきだろう。
国木田以降も多くの者が武蔵野の風景や変遷を記してきた。それらの先行文献に逆らって独自の見解を不用意に主張しようものなら不遜のそしりは免れない。そのため、個人の経験をもとに武蔵野の景色を雑多に述べていく。なお、以下は全てゲーム機も携帯電話も存在しなかった時代の話であり、さらには多少の誇張と脚色が含まれている。
武蔵野は低地と台地の入り組む地。それらの境はなだらかな斜面のこともあれば、小さな崖のこともある。そして、境に沿って低地側から崖を眺めていくと、時折場違いな横穴が目に留まる。奥行き数メートル、単に土を掘っただけの何の変哲もない穴。それを指して大人たちは警告する。あれはかつての防空壕。崩落の恐れがあるので近寄ってはならないと。それでも、勇敢かつ無謀、好奇心旺盛な子供たちは穴に入る。そして、何の面白みも無いことを直ちに悟り、武蔵野の林が人々を守ったことを理解し、その一度を限りに穴に入ることをやめる。
武蔵野の雑木林の中、小道をたどっていくと、不意に二、三十メートル四方の開けた場所に出くわすことがある。明らかに人の手によって切り開かれた一角。それを指して大人たちは警告する。あれはかつての火葬場。みだりに立ち入ってはならないと。公営の施設が整備されていなかった時代、武蔵野に住む人々はそのような場所で野辺の送りを行なっていた。小道を進んでそのような場所に差し掛かった際には、武蔵野の林が人々の死を受け止めてきたことを再認識し、声を潜めて足早に通り過ぎるしかない。
大人たちが発するその他の警告は全国共通のものである。いわく、蛇に注意。毒キノコに注意。破傷風に注意。一方、子供たちには独自の情報網があり、年長者から年少者へ知恵や知識が受け継がれている。例えば蛇への対処法。子供たちにとっては、マムシは絶対的な脅威であり、青大将は互いに避け合う相手であり、ヤマカガシはおもちゃである。
子供たちに共有される情報は雑多だが、その多くは動物に関するものである。蛇、蜂、蛍、蝉、蝶。とりわけ重要なのはクワガタの木。
子供たちは雑木林の中、どの木にクワガタ虫が集まるのかを知っている。夏休みともなれば、早朝暗い内から我先にと林の中を駆け付ける。そのような時刻に家から出ることを許されない子供は残念である。日が昇り切った頃になってから、クワガタ虫を求めて林の中を数時間もさまようことになる。
日中、クワガタ虫は木の幹にとまっていることもあるが、多くは洞の中や根元の腐葉土に潜んでいる。そこでまず、子供たちは目を凝らして木を見上げる。次いで、洞を覗き込んだり、拾った小枝を洞に突っ込んだりする。その際、武蔵野の雑木林に生息する野良ゴキブリをヒラタクワガタと誤認した者は悲惨である。必ずや叫び声を上げて飛びすさることになるだろう。
それでも見付けられなければ木の根元、腐葉土をほじくり返す。すると、クワガタ虫どころか、ごくごくまれにお宝に巡り合う。真円形の金属板。中心には正方形の穴。表面には寛永通宝の四文字。つまり江戸時代の硬貨。これこそが古くから人の手が適度に入り続けてきた武蔵野の林の醍醐味である。
そのような発見があると、ちょっとした騒動になる。過去には室町時代の永楽通宝を拾った者もいるとの噂も流れ、林には目もくれなかった子供たちまでが馳せ参じ、大捜索が開始される。
そこら中の腐葉土を掘り返す。途中、石器時代の鏃に良く似た石を見付けることもあるが、近所にかつて縄文集落が存在したことを思い出しながらひとしきり眺めて放り投げ、再び土を掘り返す。
掘りに掘ると、やがて土は色合いを変え、遂には赤土に突き当たる。その時、子供たちの愚かさは限界を超越する。学校で関東ローム層の何たるかを教えられていながら、純然たる赤土までも掘り返す。しかし、関東ローム層は二百万年以上の年月を掛けて降り積もったもの。そんな地層から人の存在の痕跡が見付かれば世界史に残る大発見。当然そんな奇跡が起きるはずもなく、お宝騒動は数日後には終息する。
子供たちが雑木林の中で見付けるのはお宝ばかりではない。ある時は大量の新しい骨。すわ殺人事件と子供たちは戦慄するが、大人たちは平然と言う。それは多分豚の骨。どこかの誰かが個人で豚を解体し、骨の処分が面倒になって林に投げ捨てたのだろうと。
夏が過ぎて秋になると、林の中で子供の姿を見掛けることは少なくなる。しかし皆無ではない。目的は栗。武蔵野の雑木林には野生に帰った栗の木が点在し、夏には緑の実をつけ、秋には茶色の実を落とす。その頃になると、子供たちは小石を拾い集めて栗の木を目指す。
まず、足元に散らばるイガを両足で踏みつけて割る。次いではるか頭上、未だ枝にぶら下がっているイガに向かって小石を投げつけ、落としては割る。そのようにして収穫した栗を持ち帰れば、普段は口やかましい大人たちもその時ばかりは笑顔になる。大量の栗はご飯に炊き込まれたり、口寂しさを紛らわすおやつになったりする。
ここまで、武蔵野の林の歴史、人と林のかかわり方、動植物の生態の三点に関連する事柄を書き記してきたが、ここで筆を止めることにする。蛇との対峙。山火事と野次馬。水田と小川の遊び。葦原の隠れ家。麦踏み。肥溜め。武蔵野の海の民。書き記したいことは山ほどある。しかし、字数制限のためにそれは到底かなわない。
最後に二点ほど注意を促しておく。昔は、放置された雑木林になど誰が立ち入っても問題にはならなかった。しかし、土地には権利者が存在し、現在は問題になる場合もある。また現在、ヤマカガシの分類は無毒蛇から毒蛇に変更されている。おもちゃにすべきではない。
◇◇◇
中学生の頃、あるご老人を紹介されたことがある。市史編纂にもかかわったという歴史学研究者。ご老人は色々なことを教えてくれた後、熱のこもった口調でこう言った。現在の武蔵野を調べ上げ、記録に残して後世に伝えてほしいと。あのご老人も武蔵野の百年をつないできた一人だった。そして、若い世代がその列に加わることを望んでいた。
その後、林野は切り開かれ、特に鉄道の路線に沿う地帯は住宅や大型施設や道路で埋め尽くされた。低地と台地。地形自体は残っているものの、あらゆる所に隙間なく人工の建造物。この随筆に記した景色は完全に消滅した。
現在の光景は過去を知っている者の目には皮肉に映る。低地を埋め尽くすのは住宅ばかり。過去の高度経済成長期、地盤改良が雑に行なわれた場所では、地盤がひずんでしまった例もある。将来、地盤は沈下しないだろうか。液状化現象は生じないだろうか。そんな懸念がふと脳裏をよぎる。しかし、そのような場所の実名を挙げることは出来ない。地盤改良が適切に行なわれていれば何の問題も無いのだから。
いずれにせよ、武蔵の国の各地にはまだ林野が残っている。次の五十年、百年、武蔵野のあり方はどのようにつながれていくのだろう。
武蔵野の百年をつなぐ 種田和孝 @danara163
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