死を遠ざける病とハンナ・ベイカー医師の研究記録

下垣

第1話 流行り病

 西洋に位置するとある小国。そこにマクシミリアンという14歳の少年が住んでいた。彼は首都から少し離れた郊外の生まれで、母親と弟と3人で暮らしていた。父親は流行り病に冒されて3年前に他界している。


「母さん、チャーリー。行ってくる」


 マクシミリアンは亡き父に代わり、家計を支えるために働いている。毎日、工場で肉体労働をしていて、すすだらけになって帰ってくるのだ。


「すまないね。マクシミリアン。お前に苦労をかけて」


「なに言ってるんだよ母さん。父さんがいない今、俺がしっかり働かないとな。それに、工場には俺よりも年下の子だっている。俺が泣きごとを言うわけにはいかない」


 マクシミリアンは靴紐をぎゅっと結んで、家から出て仕事場へと向かった。


 この時代、未成年の子供が働きに出ることも珍しくなかった。教育、福祉、社会保障などが整備されていないこの時代では貧しい家だと子供でも稼ぎ頭として扱われた。これでも、社会情勢的には昔に比べて改善された方である。一昔前ならば、子供が親に売られるのは当然のように行われていた。労働環境も劣悪なもので、半数の子供は1年も持たずに体を壊し使い捨てられる。3年以上生きられる子供は全体の1パーセントにも満たなかった。


 そんな状況に比べたら、親元から引き離されずに、自分の意思で働けるマクシミリアンの環境は恵まれていると言えた。


 マクシミリアンの家は父親が健在ならば、裕福とは言えないまでも、子供が働きに出なければならないほどではなかった。マクシミリアンも学校で教育を受けられるほどには、いい暮らしをしていた。しかし、大黒柱の父親が亡くなってしまい、マクシミリアンは学校を辞めて働くことを余儀なくされた。


 マクシミリアンの母親は息子が働くくらいなら、自分が働くと言い出した。しかし、すぐにマクシミリアンに説得されて家事に専念することになった。


 なぜならば、女性の働き口がほとんどなくて、仮にあったとしても女性労働者は世間から白い目で見られる風潮があった。女は家を守るのが当然という意識が強い時代だったし、セクハラを受けても相手を罰せるような法律も意識もない酷い状況だ。


 職場についたマクシミリアンは作業着に着替えて現場監督の指示に従い今日も作業する。


「げほ……げほ……」


 作業中にマクシミリアンが咳をした。現場では色々な粉じんが舞っているので珍しいことではなかった。しかし、周囲の工員たちはマクシミリアンを心配そうに見ていた。


 いくらなんでも咳の頻度が多すぎる。最初は煤の影響かと思っていた監督だけど、休憩時間になってもマクシミリアンの席は治まらない。なにかの病気を疑う監督。


「一旦、休憩にする! マクシミリアン。ちょっとこっちに来てくれ」


 監督に呼ばれたマクシミリアンはすぐさま彼の元に駆け寄った。


「なんですか? 監督」


「お前今日は早退して病院に行ってこい」


「なぜですか! 俺は病気じゃありません! 働けます!」


 早退して病院に行けば、労働時間が減る。労働時間が減れば、必然的に給金が減るので家族を養えなくなるとマクシミリアンは恐れた。


「てめえは医者か? 医者でもねえのに自分が病気かどうかなんてわかんねえだろうが」


 監督が正論を言うがマクシミリアンは聞き入れたくなかった。現在、マクシミリアンがいる国では流行り病が蔓延していた。その病気にかかった者は、家族もろとも周囲から差別される恐れがあった。まだ医療が発達しないで、一般人に正しい知識が伝わっていないこの時代。人々は伝染病を何よりも恐れていたのだ。実際の流行り病はそこまで深刻な症状は出ないし、空気感染もしない。主に飛沫感染で広がっていくが、感染率もそこまで高くないし、基礎疾患がなければ重症化することも少ない。健康な若者ならば感染しても息絶えることはないのだ。


 だが、そのことを知っている一般人は少ない。労働階級に教育が行き届いていないのも、そうした正しい情報の伝達が遅れている一因だ。


「医者に診てもらう金は俺が出してやる。だから、今日……病院に行ってこい」


「でも……」


「お前の親父さんも流行り病で死んでるんだろ? なら、息子のお前もあぶねえじゃねえか。それに、そのことを知っているのは俺より上の人間だけだ。現場の人間に父親の死因をバラされなかったら、さっさと行け」


 監督の命令に従ってマクシミリアンは、渋々早退して病院に足を運んだ。父親が流行り病で死んだことを吹聴されると、彼とその家族にとって不利益になるから仕方なかった。


 町医者と対面するマクシミリアン。町医者が「今日はどんな症状で来たの?」と尋ねた。それに対して、マクシミリアンは「職場で咳をしたら、病院に行けと監督に言われました」と正直に答える。


 町医者はマクシミリアンの体温を測り、聴診器で彼の心音を聴いた。そして、注射で彼の血液を抜き取り、「今日は安静にするように」とマクシミリアンを返した。


 マクシミリアンの血液は然るべき機関に送られた。その機関が下した結論。それは、【マクシミリアンの体は健康体そのもの】だった。診断結果を見て、1人の女性医師がニヤリと笑った。彼女の名前は、ハンナ・ベイカー。


「ちょうど……健康的な子供の被検体が欲しかったの。ヒルダと同じ年頃の……」



 後日、町医者の元に再度訪れたマクシミリアン。町医者から両親を連れてくるように言われたが、彼には父親がいないので母親だけ連れてきた。


「さて、マクシミリアン君……残念だけど、キミは例の流行り病に感染していることがわかった」


 町医者の真っ赤な嘘である。彼はベイカー医師の指示を受けて、マクシミリアン

に嘘の病名を言うように指示されていた。


「え?」


 困惑するマクシミリアン。その言葉を聞いてすぐに泣き崩れる母親。夫を流行り病で亡くし、息子まで感染したと言われたのならば無理もない。


「嘘ですよね? 先生!」


「患者を救いたくて医者になったのに、どうして守るべき患者に嘘をつかなければならない」


 マクシミリアンは唇を噛んだ。自身が病気と聞いたことのショックよりも、働けなくなったら、母親と弟をどうやって養えばいいのかの方が重大だ。


 実のところ、咳をしていたのは、ただ単に工場の煤の影響でしかない。直ちに健康被害が出るほどではなく、職場を変えればすぐに完治するレベルだ。


「だが、安心したまえ! マクシミリアン君! キミの病気はまだ初期段階で、今から適切な治療をすれば完治する」


「そうなんですか! 先生お願いします! 息子を……マクシミリアンを救ってください!」


 母親は町医者の足元にすがりついた。


「まあ、落ち着いて下さいお母さん。この病気には専門家がいます。彼女にかかれば、きっとマクシミリアン君を治してくれるでしょう。ただ、感染が拡大しないように田舎の施設に移って頂きますが」


「息子は助かるんですか!」


「ええ。ベイカー医師に任せれば……ね」


「待って下さい! 先生! 俺は働かなきゃいけないんです! そんな田舎に行ってる余裕は……」


 町医者に抗議しようとするマクシミリアンを母親が抱きしめた。


「マクシミリアン。私たちは大丈夫だから。それよりもあなたの命の方が大切なの」


「わかったよ母さん……俺、1秒でも早く病気を治して帰ってくるから」


 マクシミリアンは母親を抱きしめ返した。父親が死んで以来、泣いたことがなかったマクシミリアンの目から涙が落ちた。


 こうして、マクシミリアンは田舎の村に引っ越すことになった。この一連の流れがハンナ・ベイカーの……彼女の後ろについている大きな組織の策略だとも知らずに。

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