3話 嫌な予感

 あれから、ジーク達はビルもとい校舎の前まで、何事もなく辿り着けた。また、そこまで来ると、ガラス張りの地面は石畳へと変わっている。それは耐震や耐久面から頑強な造りにしている事もあるだろうが、一番の理由は校舎の基礎が見えるのがみっともないからであろう。それだけ、この学園は見栄えにこだわっている。

 勿論、校舎の中も同様に。校舎の入り口には、横一列に自動ドアが8枚も張られており、無駄に多くの入り口が設けられていた。そして、一階部分には広大なエントランスと休憩スペースとカフェテリアまで用意されている。今の時間では、ほとんど学生の姿を見かけないが、昼や休憩時間になると多くの学生でごった返す。

 そして、ジーク達はそれらを尻目にエレベーターホールへと向かって行く。校舎には5つものホールがあり、それぞれ教員・来客棟用、食堂・図書館・資料室棟用、1、2、3学年棟用と分けられている。しかし、2、3学年棟は現在使われてはいない。それはジーク達がこの学園の第一期生であるから。

 それはさておき、二人は一番奥のエレベーターホールに着くと、5機もある巨大なエレベーターの一つに乗り込み、10階のボタンを押す。

 そこでジークは、ふとエレベーターに付けられた時計を見た。時刻は8時45分。

 するとミレイも時間を確認していたのか、

「なにはともあれ、余裕で間に合いそうですね」

と安堵を漏らしていた。

 それにジークは頷きつつも

「ああ。あいつには余計な時間を食わされたがな」と嘆く。

 

 やがて、エレベーターが10階に到着すると、「ポーン」と子気味いい音が鳴り響きドアが開いた。目の前には白い絨毯の敷かれた廊下。そこをゆっくり突き進んでいく。

 やがて、ジーク達は突き当りの引き戸の前で立ち止まる。そこには『1-A』と書かれた表札が掛けられていた。ここがジーク達の教室であったが、このクラスには少々問題事が多い。今も何やら中が騒がしかった。

「なにが起きているのでしょうか?」

 ミレイは首を傾げ問いかけてくるが、ジークには嫌な予感がしていた。

「鬼が出るか蛇が出るか……」 

 ジークは気乗りしなかったが、引き返すこともできず開け放つしかなかった。そして、ジークは教室の最後方から奇妙な光景を目撃する。

 そこは長机がひな壇の様にずらっと並べられている広大な教室であったが、教壇に輪を作る形で大勢の女学生達がごった返し、歓声やら悲鳴やらを上げていたのだった。それは耳が痛くなる程に騒々しい。

 その輪の中心にいるのは、白のブレザーを着た男天使と黒のセーラー服に身を纏った女悪魔。

 一体はエレク=ラジエル。彼は茶髪で碧眼の男天使である。また、人型の造形で長身かつ細身。さらに、顔が整っていたがために女天使のみならず、女悪魔からも人気があるらしい。現に輪の中には女悪魔も混じっていた。

 そして、もう一体はミーシャ・アスモデウス。彼女は二本の長い角と、一本の長い尻尾を生やした人型の女悪魔だ。それと、腰まで伸びた銀の髪に透き通るような白い肌。柔和な印象を持たされる大きな瞳は綺麗な琥珀色であった。その容姿から角と尻尾がなければ、悪魔には見えない。

 それはさておき、この状況であるが。どうやら、エレクがミーシャに交際を求め詰め寄っているらしい。それを周りの連中は羨んだり、悲しんだり、野次を飛ばしたりして盛り上がっていたのだった。そして、当の詰め寄られたミーシャはこの状況を前に俯きがちに困惑している。

「ミーシャ君。どうか、僕の頼みを聞いてくれないかい? どうしても君じゃなきゃダメなんだ。ほんの少しでいいから僕に付き合ってほしい」

 エレクは熱烈に彼女を誘う。それに、周りは湧き上がる。

 その空気の所為でミーシャは気圧され、断わろうにも断わりづらい雰囲気が形成されてしまっていた。

「えっと……なんでわたし、なんですか……?」

 彼女は困った様子で問いかける。

「妙な事を言わないでくれよ。君に惚れ込んでいるからに決まっているじゃないか」

「ええっと……そ、そんなこと言われても……困ります……」

「大丈夫。君にも悪い思いはさせないからさ。ああ、そうだ! 何か好きなブランドとかはあったりするかい? 僕が何でもプレゼントしてあげるよ」

「えっと……その……」

 二人は、そんな平行線な会話を繰り返している。

 正直、ジークはこの光景に飽きれていた。当の本人には悪いが、あまりに下らなかった為。その光景を横目に自分の席である、一番後ろ端の席へと腰かけた。すると、ミレイも後を追いジークの後ろに佇んだ。授業中の従者は最後列の広い通路に佇み、主を見守るのが務めであったため。

 そして、ミレイは後ろから小声で語り掛けてきた。

「ああいう、しつこい男は苦手ですね」

「ああ、俺も関わりたくはない」

「やはり、ジーク様のようなしたたかで、恥ずかしがり屋さんな方が素敵です!」

 彼女はそう言うと、ジークの顔を覗き込みながら、微笑みかけ謎のアピールをしてくる。

 それに対し、ジークは

「俺は、おしとやかな女性の方がタイプだ」

と鬱陶しそうにミレイを手で追い払った。

 しかし、彼女はそこで何を思ったか、頬を赤らめる。

「あら……/////// それって、わたくしの事じゃないですか? もしかして、両想いですか?」

「勘弁してくれ」

 ジークがそう漏らした。まさにその時、入り口の扉が勢いよく開け放たれた。それと同時に一人の少女、もとい悪魔が教室へと勢いよく飛び込んでくる。

 その悪魔はミーシャとよく似た二本の長い角と一本の長い尻尾、それと銀髪と琥珀色の瞳を持っていた。しかし、彼女の髪は短く切りそろえられ、眼光も鋭く険しい顔つきをしている。そして何より、彼女の肌は浅黒い褐色肌であった。

 彼女の名はアイシャ・アスモデウス。ミーシャとは正反対の印象を持たされるが、これでも彼女らは双子であった。

 そんなアイシャは入ってきて早々、大きく飛び上がり輪の中心へと降り立った。二人の間へと割り込むべく。

 すると、エレクは特に驚いた様子もなく、

「なんの真似だい?」と落ち着いた口調で問いかけた。

 一方のアイシャは彼を睨みつけながら、問い返す。

「それはこっちのセリフ。嫌がるうちの妹に寄ってたかって、何をしてたんや?」

 それに、エレクは彼女の事を煙たそうに仰ぎつつ、答える。

「嫌だなぁ。僕はただ、頼み事をしていただけだよ。確かに、彼女を少し困らせた事は謝罪するよ。けど、彼女は嫌だなんて一言も言っていないし、周りの皆だって僕とミーシャさんを応援してくれているだけさ。被害妄想はよしてくれ」 

「あんたこそ、気持ち悪い妄想を止めなさい。ミーシャは気が弱いから、はっきりと言えないだけ。この子の困り顔を見ても分からんかった? なら、相当イタい奴やな」

 すると、その言い草にエレクではなく、周囲の女連中が怒りを露わにした。

「あなた、さっきから聞いてれば失礼な物言いね! ラジエル様に声を掛けていただけるだけでも光栄なことなのに、好意まで寄せてもらえるなんて正に天にも昇る程の幸せな事なのよ! それを分からないなんて、あなたの方がイタい奴よ!!」

 取り巻きのリーダー格がそう言い出したのを皮切りに、周囲の連中もそれに賛同し、教室内は鼓膜が割れんばかりの騒々しさに包まれた。

 しかし、そこでエレクが取り巻き達を宥める。

「まぁまぁ、皆落ち着いて。アイシャさんはまだ僕の事をよく知らないだけなんだから。彼女にも僕のことをよく知ってもらう必要があるよ」

 それを聞き、アイシャは怪訝な表情を見せる。

「あんた、何言ってんの……?」

「単純な話さ。君も一緒なら文句はないよね? そして、君にも僕の魅力を気づかせてあげるさ」

 彼はなぜか得意気にそう言い放つ。

 それに、アイシャは不快感を露わに言い返す。

「は? だから、何を言っているのかさっぱりわからん。これ以上あんたに付き合ってたら、頭がおかしくなりそう」

 そして、彼女はミーシャの手を引き彼の前から立ち去ろうとした。

 だがそこで、エレクは怪しげな笑みを漏らしつつ、言い放ってくる。

「君がどう思おうが関係はない。僕の願いは聞いてもらうから。何があろうともね」

 すると、彼の左腕からほんの一瞬、淡白い光が漏れ出た。そして、背中を見せたアイシャに向けて腕が伸びる。彼は『天の御加護』で彼女に何らかの危害を加えようとしていた。それも目にも止まらぬ速さで。

 しかし、腕があと数センチまで迫ったところで、室内にチャイムの音がなり響く。それと同時に、黒のタイトスーツに身を纏った赤髪の女が教室に入ってきた。彼女は天使にして教師のイアン・ラグエル。

 彼女は室内に入って来て早々、手を鳴らし

「はい! 皆さん、席に付いてください!」と取り巻き達を散らせる。

 すると、取り巻き達はその指示を素直に聞き入れ、それぞれの席へと向かっていく。

 そして、エレクも彼女に触れる前に止まり、腕を即座に引っ込めていた。そこで、ジークは周囲の反応を窺うが、この場にいる誰も彼が能力を使おうとしていた事に気が付いてはいない様子。ミーシャもアイシャすら。

 そして、渦中の三人はそれぞれの席へと向かっていく。その間、エレクは妙なしたり顔を浮かべていた。

 それにジークは不信感を抱く。

 やがて、アイシャがジークの前の席へと腰かけるが、彼女には外傷もなく変わった様子も見られない。次いで、ミーシャがいる前列左端を確認する。彼女も同じく特に変わった様子はない。そこで、ジークは一応アイシャの様子を伺う。

「アイシャ、平気か?」

 すると、彼女は振り向きざまにうんざりした表情を見せてくる。

「もう、朝から最悪な気分。あいつ、うちが用事で職員室に行っている隙を突いて、ミーシャに寄ってたかって詰め寄ってたんよ? 信じられる?」

 そう文句を垂れてきたのに対し、ジークは

「まぁ、それは災難だったな」と適当に相槌を打つ。

 ただ、彼女はまだ苛立ちが収まらないのか、愚痴を吐き続けてきた。

「ほんとよ。一週間くらい前から、ずっとあの調子なんよ。それも、徐々に強引になってきているし……。鬱陶しいったらありゃしない」

 ジークはそんな愚痴に若干うんざりするも、アリシアの事と重なる部分があった為、少し同情的になる。

「ああ、そうだよな。気持ちはわかる」

 しかし、彼女からしたら何の同意なのか分かる筈もなく、

「は?」と返されてしまう。

 そこで、ジークは頭を振り、

「いや、何でもない。それよりも、お前に怪我や違和感はないのか?」と問う。

「別にあいつに何かされてはないよ。というか、あいつが手を出してたなら、今頃ぼろ雑巾の様にしてやってんよ」

 彼女はそう力強く答えるが、エレクの行動と態度の不信感は拭えない。ただ、現状何も起きていないということは杞憂でしかない。この不信感の正体が明かされない限りは。


 少しして、教師は学生全員が席に着いた事を確認すると、教壇上から点呼を取り始める。50人程いる様々な姿形の天使と悪魔は各々名前が呼ばれ、返事を返す。その光景だけ見れば、いつもと変わらない日常であった。

 そして、10分程で点呼が終わると授業が開始される。一コマ2時間の授業を1限から3限まで繰り返すのが、一日の流れだ。

 そもそも学園での授業とは、基本的な数学、科学、物理に加え、天の御加護と魔術に関する基礎知識。それに、天使と悪魔と人間に関する歴史と文化、そしてそれぞれの言語について学ぶものもあった。さらに、それらの授業で一定以上の出席数を取り、半年に一回行われるテストで合格点を取ることが卒業条件でもある。

 どうやら、今日の一限目は『天の御加護』と『魔術』について学ぶものであった。

 教師がホワイトボードに色々と書き連ねながら、口頭で説明していく。

「まず、悪魔が使用する固有の能力、『魔術』を理解するには、『魔力』に関する理解を深める必要があります。魔力とは悪魔の体内を絶えず循環する血液の様な物質で、それが循環している事により、肉体や生命活動の維持をしています。この魔力の分泌量は経験や鍛錬を積む事により、自在に操れるようになります。そして、様々な作用を引き起こす事も可能です。例えば、魔力物質の分泌を活性化し、肉体の強化や回復。また、体温の上昇などですね。これら悪魔の体内で引き起こす様々な作用の事を『体内魔術』と言います。そして、この『体内魔術』が臨界点まで達すると、魔力は体外に溢れ返していきます。それにより、炎を発したり、黒煙を発したりと言った作用に繋がっていく。謂わば、魔力の暴走を意図的に引き起こし、それをコントロールする事が『魔術』と呼ばれる能力なのです」

 教師がそこまで説明すると、学生の一人が問いかけた。

「ということは、『天の御加護』が自然界のエネルギーを利用するのに対し、魔術は使用者の生命エネルギーを使っているといことですか?」

「鋭いですね。その通りですよ。魔術は使用者に多大な負担をかけます。ですから、悪魔の平均寿命は天使よりも遥かに短いと言われているのです。そして――」

 その後も教師は様々なことを語り続け、授業の最後に課題が出された。それで、ようやく一限目も終了し、1時間半という長い昼休みへと突入する。

 すると、すぐにアイシャがミーシャの手を引き、教室の外へ逃げるようにして出ていった。一方のエレクはそれをただ横目で眺めているだけで特段気にした様子もない。

 そして、彼の周りには一気に取り巻き連中が集まり出す。

 だが、彼は

「ごめんね、皆。ちょっと、用事があるからお昼は別でとってくるよ」と告げ、一人教室の外へと出ていった。

 ジークは先程の事も相まって、その様子に疑問を抱く。

――あいつ、どこに行こうとしてるんだ?

 すると、そこでミレイに声を掛けられた。

「ジーク様、お昼ごはんにしましょ! 今日はジーク様の大好きなあまーい玉子焼きもありますよ!」

 彼女は弁当二つを手に取り、にこにこと笑顔を振りまきながら、近寄ってきた。

 しかし、ジークは

「悪いが、後で頂く」と言い残し、足早に教室から出ていった。

「あ、ジーク様~~……」

 ジークの耳にはミレイの悲し気な声が飛び込んで来てはいたが、それよりも今はエレクの事が気になる。どことなくではあるが、ジークには妙な胸騒ぎがしていた。

 ジークが廊下へと出ると、彼はちょうどエレベーターへ乗り込むところであった。そこへジークは急いで駆け寄り、彼が乗ったエレベーターの行先を見る。点灯する数字は徐々に上の階を示していき、やがて最上階である20階で止まった。20階で使われている教室はない。ただの物置部屋と空き教室があるだけ。

 そして、ジークはエレベーターへと乗り込むと19階を押す。鉢合わせるのを避けるのと、エレベーターの音が目立つため、あえて目的の階より一つ下の階で降りたのだ。

 そこも10階と構造自体は変わりはなく、長い廊下と白い絨毯が敷かれた空間であった。その途中にいくつかの教室がある造りである。そこで、ジークはエレベーターホール脇にあるグレーの重厚な扉を物音を立てないようにゆっくりと開いた。するとそこは、コンクリート造りの殺風景な階段が上下に続くだけの非常階段となっていた。

 そして、上の階からは革靴の音が響いてきている。それは、階段を昇っている一人分の足音。また、20階より上の階は屋上しかない。

 ジークはしばらく、じっとその足音を聞いていた。やがて、足音は止まり、ドアが勢いよく開け放たれる音が鳴り響き、少ししてゆっくりと閉まる。

 そこで、ジークは階段を昇り屋上へと向かった。屋上への扉もまた重厚な造りである。ジークはそれを少しだけ開き、外を窺った。屋上は広大な空間で、地面には太陽光パネルが何十枚も敷かれ、中心には巨大な円柱状の給水塔が佇んでいる。また、ここからの景色は街中が見渡せ、見晴らしがいい。ただ、周囲は腰くらいの高さの塀で囲われているだけであり、少し危ない造りとなっていた。

 そんな屋上へとエレクは昇っていった筈であるが、ジークがいる位置からは姿を確認する事ができない。

――ここから出るにはこの扉しかない筈。そして、身を隠せる場所はあの給水塔の裏だけ。

 ジークはそう確信すると、ゆっくりと屋上へ足を踏みいれた。そして、姿勢を低くして給水塔へと近づいていく。

 すると、徐々に話し声が聞こえてきた。

「はい。……はい」

 それは、エレクの声。彼はこの裏で誰かと会話している。

 それをジークは給水塔に張り付き、盗み聞く。

「もう少し、お時間を頂きたい」

 どうやら、携帯で会話をしている。それも、エレクが畏まるような相手と。

「ッ申し訳ありません。ですが、これが穏便かつ、あなた方の存在を悟られることもない最善の策なのです」

 そこで、ジークは疑問を募らせる。

――穏便かつ最善の策……? それに、あなた方とは? こいつは一体誰と話しているんだ?

 だが、ジークが考えを巡らせている間にも、エレクはさらに話を続けていた。

「いえ、ですが……。私なら確実にやってのけます」


「……ッしかし、それでは足が付くのでは?」


「……わかりました。ですが、指揮は私に執らせえてください。細工なら、念のために施したところです」 

 ジークはそれを聞いた所で、彼がアイシャと言い合いをする最中に光らせた左腕の事を思い返す。

――もしかして、細工とはあれの事か? だとすると、こいつはアイシャに何をした?

 また、仮にそうだとすると、ミーシャへ執拗に迫っていたのは話し相手からの依頼ということになる。彼女を捕らえるためか、彼女を利用するためか、或いはその両方。

 しかし、納得はいかない。

――ミーシャを狙うにしても、何のために? 彼女に何の価値がある? それに、足が付くような手段とは、何をするつもりだ? 

 あまりにも情報が少ない。これ以上は憶測の域を出なかったが、何にせよエレクは怪しい連中とつるんでいることだけは確かだった。

 そして、ジークは話にのめり込み過ぎていた。

「ええ、あなた方の期待を裏切るような真似は決して――」

 ジークはエレクが話している途中で、蜘蛛の糸の様な物に触れてしまう。

 すると、エレクは話を切り

「誰だ!?」と叫んできた。

――しまった! 今の糸の様な物は奴の能力か!?

 ジークは辺りを見渡すが、周囲には隠れられる場所などない。それに、ドアからもかなりの距離がある。

 そこで、さらにまずい状況となった。

「そこか!」

 彼がそう叫んだのと同時に、給水塔の裏から大量の糸が左右に伸びてきた。それは、ジークの体を大きく覆うようにして。そして、糸は一気に張り詰め、ジークの体を給水塔に括りつけてきた。

――ッこの糸はなんだ!?

 蚕の繭の様に大量に巻き付けられた糸は体をきつく締め上げ、体の自由をも奪ってくる。ジークは爪で少しずつ切り裂いていくが、簡単には解放してくれない。

 すると、エレクが裏側から語り掛けてくる。

「盗み聞きなんて、不躾な真似を……。一体、君は誰なんだい?」

 その発言から察せるに、まだジークだとはバレていない様子。

 だが、このままではバレるのも時間の問題。彼はこちら側へと回り込もうとしていたのだ。

 そこで、ジークは焦らず状況を冷静に分析する。

――エレクが回り込んでくる前に糸を解くのは困難。仮に解けたとしても隠れる場所はない。なら、力技で乗り切るしかない。辛うじて足は地面についている

 ジークはそう考えると息を吸い込み、足に全神経を集中させる。

「スゥッーーー」 

そして、

――バイタル・アクセラレーション ハーフブースト

そう唱えた。

 すると、給水塔がけたたましい音を立てながら軋み始め、地面と固定されていたボルトが引き千切られていく。

 そこで、エレクの脚も止まる。

「な、なんだ!?」

 彼が驚愕している間にも、給水塔と地面を固定している部品が次々と強引に引き剥がされていく。

 そして、ついに給水塔が持ち上がった。ジークはちょうど巨大な給水塔を背負っている形となっている。そこでジークは、エレクへの牽制もかねて給水塔ごと体を振り回す。

「なッ……!?」

 すると、エレクは勢いよく振り回される巨大な物体を前に、思わず後方へと飛び退いた。そして、困惑した表情を浮かべながら給水塔の方を見る。しかし、巨大な物体の所為で相手の正体は掴めないでいた。

「まさか、僕の糸から逃れるためにこんな力技を……!? 本当に、一体何者なんだい!?」

 勿論、返事は帰ってきやしない。しかし、そんなことなど些末なこと。彼の優位は揺るがないのだから。

「けど、僕から逃げることはできないよ。再び動きを封じ、その正体を明かしてくれる!」

 エレクはそう告げると腕からさらに糸を伸ばしてきた。それは、ジークの動きを完全に止めようとしている。

 そこで、ジークは彼の反対側へと勢いよく駆け出した。

 ジークの置かれた現状では、まともにやり合うことなんて出来やしない。いや、そもそも、彼はエレクとやり合うつもりなど微塵もなかった。

 当然、彼の取った手段は逃げることだ。しかし、この巨体を背負ったまま階段から逃げることなど不可能。取りうる策は――

 ジークは次の瞬間、屋上端の塀を飛び越え、勢いよく身を投げ出した。

「なッ!? 正気かぁッ!!!!!?」

 屋上からはそんな叫び声だけが届いてきた。しかし、それも一瞬。すぐに風切り音にかき消され、体中には凄まじい風圧が襲い掛かってくる。そして、徐々に近づいてくる地面が、まるでコマ送りの様にジークの視界一杯にゆっくりと広がってきた。

 ジークには、その時間をとても長く感じた。だが、実際はほんの一瞬の出来事に過ぎなかった。ジークは勢いよく校舎の裏庭へと落っこちる。割れんばかりの轟音とはじけ飛ぶ大量の水しぶきと共に。


 一方、エレクはその光景に唖然とさせられていた。息をするのも忘れる程に。20階の高さから石畳みの裏庭へと何者かが落ちていったのだ。それも重量物を抱えて。

 しかし、彼は話し相手から声を掛けられたことで我に返った。

「何があった?」

 彼は急いで携帯を耳に押し当て

「……あッ、いえ。何もありません」と思わず答えていた。

「そうか。なら、後は任せたぞ」

 そう言われると一方的に電話は切られた。

 そこで、エレクは再び地面を見る。ここからでは、悪魔も天使の影も確認できない。確認できるのは、大きくひしゃげた給水塔と金属片だけ。

「死んだのか……?」

 彼は冷や汗を流しながら呟くが、すぐに頭を振る。 

「いや、そうあってくれるならありがたい。とにかく、確認を急がねば……」 

 そして、彼は足早に屋上から姿を消していった。

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