水辺のマリア

そうめいりょう

水辺のマリア


「私、実は水から生まれたの」

 それは、久しぶりに幼馴染に呼び出され、再会した夕暮れ時での出来事だった。どこからか子どもの帰宅を促す放送が流れ、少年たちが無邪気な笑い声を上げながら駆けていく。情緒や常識のかけらもない年齢から知っているとはいえ、仮にも年頃の男女が二人きりで相対している状況で放たれた告白だった。

彼女に対して俺が言えることは一つしかなかった。

「カウンセリング、行く?」

 行く、と言い切る前に右頬を強烈な衝撃が襲う。ジンと熱を帯び始めると、ようやく彼女から平手打ちをくらったことを知覚する。正直、笑い出さなかっただけ褒めて欲しい。

いたって大真面目な彼女を見て、取り繕うくらいの気概は俺にあったのだから。



 思えば、彼女は不思議な人だった。普段は物静かで礼儀正しいのに、妙なところで意地を張り、時には反抗的な行動に出ることもある。燃え盛る炎と言い表すには大袈裟だが、可憐な毒の花というにはあまりに苛烈な少女だった。

 彼女がその片鱗を見せたのは、小学5年生の体育の授業だった。初夏の時期から学校は、児童に対して長袖の体操服の着用を原則やめるように指示する。原則というのは、いわゆる「特別な事情」がない限り絶対だ。授業中に長袖の体操服を着用しているために体温調節ができなくなり、倒れられると学校側の責任になる。それを避けるためだろう。もしくは、学校教育特有である画一化の一環なのかもしれない。

 彼女は、学校という社会における暗黙の了解を破って上下長袖の体操服を身につけて運動場に現れた。腕や脚を晒しているクラスメイトに混じっている真っ赤なジャージ姿の彼女は、異様に目立っていた。

「スイさん、あなた夏用の体操服は持っていないの?」

 若い担任が、努めて優しい声で訊ねているのがわかった。対する彼女はその配慮を一切気にも止めず、涼しげな表情でこう返した。

「持っています。でも着たくありません」

 彼女は教師に対して、年齢の割にきちんと敬語を使う珍しい類の小学生だった。もっとも、この状況だと礼儀正しい態度は威圧的にしか感じられないのだが。

「どうして?」

「言いたくありません」

「事情を話してくれれば、ジャージを着ても構わないのよ」

「先生に話す必要性を感じません」

「そう……熱中症になって倒れるかもしれないわ」

「そうなる前に休めます」

「でも、これは決まりなのよ」

「法律で決まっているわけじゃないです」

 ああ言えばこう言う。彼女と教師の問答に着地点は見えなかった。彼女は、頑なに全身を覆い尽くすジャージを脱ぐ気配すらない。譲歩の余地すら見せないまっすぐ自分を見つめる彼女の眼差しに、担任の教師も困惑の意を隠せないという様子だった。

 こう着状態が続く中、どこからか声が聞こえた。

「何あれ、目立ちたいだけじゃん。めんどくせ〜」

 それは、クラスメイトの中でも発言力のある人気者だったと思う。この場に居合わせた者なら少しは脳裏を掠めた「何もそこまでするか」という考えを体現している言葉でもあった。

 ただ、その言葉は発する前に皆、脳内で撤回していただろう。

 教師と向かい合っていたはずの彼女は、突如としてその男子生徒の前に一直線に向かっていった。溢れ出る感情を抑えようとしているのか、握りしめた拳に力が込められているのがわかる。一方で、微かに震えている唇や揺らぐ瞳から、涙を我慢しているようにも見えた。

「な、なに」

「謝って」

「なにを」

「目立ちたいだけって言ったことに決まっているでしょ」

 責められている理由がわかっていない男子生徒は、同じ返答を繰り返していた。その様子はこの状況を面白がり、からかっているようにも見えた。

 その様子に、彼女は先ほどまでの荒々しい感情の発露から一転、まるで無知な愚者を見下すように溜息を吐く。落ち着き払ったその対応は、先程までの激怒からの反動で一層恐怖心を煽っている。

 彼女の変化にようやく気付いたのだろう。男子生徒の顔に怯えが滲み出たその時だった。彼女は地面に座り込んでいた彼の胸ぐらを両手で掴み、無理矢理立ち上がらせた。突然の出来事に周りのクラスメイトはもちろん、掴まれた本人もあまり事態を把握できていないようで呆然としている。

「日本語分かりません?取り消せ」

 声色は凪のように落ち着いていたが、彼女の表情には明らかな怒りと苛立ち、そして身に余るほどの敵意が深く刻まれていた。荒れ狂う嵐の激情をどうにかして統制し、鋭利なナイフのような眼光で突き刺す。自分に向けられたものではないと理解していても息苦しさを覚える凄まじいものだった。たかだか十数年の人生しか歩んでいない小学生が他人に対して向けられる類の代物ではない。

「取り消せ」

「な、何なんだよお!」

 彼は叫んだ。捕食者に捕らわれた小動物のように怯え切っていた。彼女への恐怖と、何者にも阻まれることなく育った己の矜持が木っ端微塵に砕かれた恥ずかしさからだろう。顔は真っ赤に染まり、瞳には涙がとめどなく流れている。

「やめなさい、海原さん!」

 何度も制止する教師の声は聞こえてすらいないようだった。一部のクラスメイトは職員室から他の教師を呼びに駆けていき、担任とともに宥めようとする者もいた。その一方で、あまりの混沌とした状況にただ呆然とする者や、しまいには不安のあまり泣き出す生徒も現れた。

 その時の俺は、何もできずに眺めることしかできなかった。

 数分後、何人かの教師が運動場に集まった。中には学校の中でも恐れられていた強面の男性教師もいた。次第に人が集まってくる光景を見た彼女は、電池が切れた玩具のようにあっさりと、男子生徒の衣服から手を離した。沈黙を貫いたまま、彼女はその場を後にしようとする。

「おい、ちゃんと彼に謝りなさい」

 そう言って男性教師が彼女の腕を掴もうとした瞬間だった。彼女は教師の手を振り払う。あまりに乱暴な仕草だった。口に出してはいないものの、汚い手で触るなと言わんばかりだった。驚きを隠せない教師に構うことなく、彼女は俺たちの方へと視線を移した。

 あの時の彼女の姿は、今でも忘れられない。

 この場にいる全ての人間に対して向けられた憎悪と周囲の無理解への悲哀。両者は融合し、分離する工程を繰り返していた。まだ幼い少女の瞳に黄昏時の空のような暗い光が漂っていた。

 この状況の中、誰も彼女を咎められなかった。ただ、去っていく少女の背中を見つめているという空虚な時間が流れていた。

 これが彼女に対する、俺の1つ目の後悔。この時、彼女を理解できなかった俺の愚かさだ。



 川沿いの土手に俺と彼女は、2人で並んで座っていた。辺りは街灯が灯るほどに薄暗くなり、人通りはまばらになっている。9月14日のこの日は満月だった。青白い球体が、太陽光の力を借りて虚ろに輝いている。

叩かれた頬に帯びた熱が遠のいてきた頃、俺は彼女との思い出話に花を咲かせていた。

「確かに、そんなこともあったね」

 彼女の澄んだ笑い声が水紋のように鼓膜を震わせる。以前と変わらない姿に、俺は安堵していた。

「笑いごとじゃないよ、あのあと大変だったんだから」

 それは本音だ。

 あのあと、騒動を起こした本人や泣きじゃくった男子児童がいない中、俺らの学級では小学校特有の学級会なるものが開催されたのだ。大層なことに、二時間分の授業を潰してのことである。

 学級会は思うように進行しなかった。何しろ当事者たちがいない上に、普段は礼儀正しく親切な彼女があそこまで激怒する理由など、誰も理解していなかった。大人たちもわかっていないことを十数年の人生経験しかない少年少女に考えさせるのは、いささか荷が重すぎたのだ。結局、最終的な結論を出せないまま数日後、教壇の前で彼女が謝罪したことで丸く収まった。その時の彼女は以前のような「優しい海原スイ」に戻っていたため、わざわざあの一件を蒸し返す好奇な人間はいなかった。

 今思えば、皆逆鱗に触れるのが怖かったのだと思う。自分も含めて。

「でも学校に行ってない間とか、プリント届けてくれたじゃん」

「あ〜……家が近かったからだろ」

 こういう場面で気の利いた返しをできないあたり、対人関係を築くのが苦手な自分の無力さを痛感する。自己嫌悪に変わる前に話題を変えようと、改めて彼女に向き直った。

「それで、なんで今日呼んだんだ」

 中学を卒業してから今日に至るまでの5年間、全くとは言わないが大して交流のなかった間柄だった。なぜ今になってという気持ちは再会する前、連絡をもらった時から抱いていた疑問だった。

 その問いに対して、彼女は何も言わずに立ち上がる。対岸を見つめるように背を向けていて、表情が見えなかった。

 ふわりと海風が吹く。身につけていたワンピースの裾が揺れた。こういう状況になれば、揺らめくスカートはそれなりにドキッとするものだと思うが、白紙に落とされた一点のシミのような違和感が青春の淡い妄想を砕いた。裾が浮き上がって見えた足を覆う黒いタイツにニットのカーディガン。彼女の服装は、九月の中旬とはいえ、まだ暑さの残る時期にはあまりに不適切だった。

 静寂の時が流れた。電車が橋梁を通る音が過ぎるのを見計らったように、彼女は振り返ってこう言った。

「満月の日はね、潮位が高くなるの」

「潮位」

「そう、不思議よね。月の満ち欠けが地球の、海の営みに関係してくるなんて、素敵じゃない?」

 脈絡のない言葉の意味を汲もうと考え込んでいると、彼女は突然、履いていたパンプスとタイツを脱ぎ始めた。慌てて「何をするんだ」と嗜めようとしたが、その言葉は口内で留まった。カーディガンを脱いだとき、俺は絶句した。

 彼女の腕は波打っていた。

 揺らめいて、きらめいている。水面のように透き通った肌を、月光が照らしていた。魚の体表のようでもあったが、鱗のような凹凸が生み出す宝石のような煌めきではなく、流動し続ける水流のように滑らかな輝きだった。

「それ、なに」

 そう返すのがやっとだった。情けない顔をしていたに違いない。予想に反して、彼女は嬉しそうな顔をして言った。

「やっぱり。よかった幻覚じゃなくて」

 彼女は安堵するように胸を撫で下ろした。誰にも言えなかった悩みなのだったのだろう。己の胸の内で堰き止めていた真実を、彼女は告白し始めた。

「小学生の頃からなの。こんな感じになっちゃった。あの時もね、不安で仕方なかったから、あんなことしちゃったのよね。怖かった……なんか自分がバケモノになったみたいで。でも、だんだんね?だんだん受け入れていっているのがわかった。中学生の時、海に行ったときに溺れている人見つけて、助けようとして海に飛び込んだ……今思えば馬鹿よね。水着を着ているわけでもなかったし、そんなことしたら普通、救助に行った人も溺れ死んでおしまいだもの」

 彼女はここで一息入れた。この後に続く言葉が、彼女にとってはかなり勇気のいる告白なのだろう。フウと聞こえるように深呼吸をして、彼女は話し始めた。

「でも海に飛び込んだ時わかった。私、助けようとしたんじゃなくて、私が還ろうとしていたんだって。全然息も辛くなかった、ここが私にとって何より生きやすい場所だとわかった。エラが生えたとか、ヒレがついたとかそういうことじゃなくて。水中が、『スイ』のままいられる場所だったの」

「それで水から生まれたって?」

「そういうこと」

「でもそれ、なんで俺を呼んだっていう答えにはなってなくないか?」

 この時の俺は阿呆だった。そんな馬鹿げた質問をせずとも察するべきだったのだ。

「誰かに看取って欲しかったから」

 その一言でようやく全てを理解した。あまりに気付くのが遅かったが、どうにか間に合ったのだ。急いで彼女の波打つ腕を右手で握りしめた。初めて触れた彼女の肌はひんやりと冷たかった。人という生物が持つ温度ではない。水道から流れるような管理された水というより、川や海のような自然に広がる水に触れているようだった。

「おばさんが悲しむ!」

「『お母さん』、多分私のこと忘れるんだと思う。昨日見たアルバム、私が写っているところ、水で滲んで見えなくなってた。消えてきているの、私」

「でも、今じゃなくったっていいだろ」

「薄手のカーディガンじゃもうダメ。限界だもの。八月でも長袖って、流石に悪目立ちしている自覚あるし。次の夏を越せるかわからない……それにこれが顔にきちゃったらどうしようもないでしょ」

 彼女なりに考え抜いて導き出した答えだった。至って声色は冷静で、表情も落ち着き払った記憶の中の彼女ものままだった。月光の影になった彼女の頬をきらりと白い光が走ったように見えて、俺はスルスルと彼女の腕から手を離した。

 止める権利などない。彼女が密かに抱えてきた真実を受け入れて、どうなるかもわからない未来を保証など、俺には嘘であってもできない。

 それでもただ一つ、彼女に聞かなければならないことがあった。

「なんで俺なんだよ……」

 責められている理由がわからず泣きじゃくっていた記憶の中の男子生徒も、こんな声を出していたような気がする。涙が零れたりはしなかったが、耳に入ってくる自分の声は、恥ずかしいくらいに弱々しかった。

 ただ、彼女は見下すことなく笑顔を浮かべていた。長い間、蕾のまま閉じていた花が開いたように、明るい笑みだった。

「スマホ開いたら、一番来てくれるんじゃないかなって思ったから」

 これが俺の2つ目にして最大の後悔。せめて最後の時に、たとえ溺れそうになっても、彼女の手を握っていればよかった。そうすれば今頃、こんな惨めにも見える旅に人生を投じなくてもよかったかもしれないと、俺は今でも思う。

 月明かりに包まれる夜のこと。

 水が彼女を攫っていった。



 東京のオフィス街は、まるで高さを競い合うように高層ビルが立ち並んでいる。オフィスの窓から垣間見える空は雲一つない晴天だというのに、灰色の建物が迫り来るために窮屈そうにも見える。

 この日は夏至から3週間ほど過ぎた夏の盛りだった。午後6時を回ろうとしているにもかかわらず、気温が下がってくれるようなことは期待できそうにない。理玖にとって今日は久しぶりの定時上がりであったが、空調が効いているこのオフィスから一歩外に出るのは、いささか億劫に感じられるほどだった。

「土屋さん、今日飲みに行きません?」

 そう背後から話しかけてきたのは、今年に中途採用で入社した一ノ瀬である。シーズン関係なく忙しない雰囲気の社内で、この男はいつ見てもバカンス明けのような爽やかさを纏っている。おそらく器用で世渡り上手なのだろう。まだ入社して数ヶ月ほどだというのに、体感としては理玖よりもよほど社内の空気に馴染んでいた。

「いや、今日はやめておく。また今度誘ってくれ」

「それこの前も言ってましたよ」

「あ〜……実はあまり強くないんだ、帰れなくなったら大変だし」

「千葉に住んでいるでしたっけ?まだ独り身なら、東京に越して来ればいいのに」

「う〜ん。東京は家賃高いから、電車乗ってきた方がまだ家計に優しいんだよね」

 理玖が一度、入社したての一ノ瀬と食事をして以降、終業後に時間のある日には彼から飲みに誘われることが多くなった。時折配慮に欠けた言動があるものの、一ノ瀬から向けられる屈託のない笑みには悪意がないことがよくわかる。そうして彼を邪険に扱えずに戸惑う姿を、周りの社員が微笑ましそうな視線を向けるたび、理玖は気まずい思いをするのである。そそくさと逃げるように職場を後にした。

 去っていく理玖の背中を眺めながら、一ノ瀬が「俺、嫌われている?」と呟くと、1人の女性社員が近づき、「そうではないと思うよ」と話しかけてきた。理玖の同期の二階堂だった。

「今は節制しているのかもしれないね」

「節制ですか?」

「ええ、土屋くん、結構旅行に行くの。去年の夏には地中海の方に行ったみたいだったし、今年のゴールデンウィークは東南アジアの方に行ってたみたい。わざわざお土産買ってきてくれたから」

「海ばっかじゃないですか!いいなあ〜サーフィンとか水上レジャーとか楽しいでしょうね〜」

「でも、全然日焼けしていないから『泳いだりしないの?』って聞いたら、『泳げない』って言ってたわよ」

「え、何するんですか。それ」

「そうね、ただ眺めるのが好きなのかも」

 一ノ瀬が「なんかおじいちゃんみたいですね」と言うと、社内の至るところから笑い声が上がる。「そりゃあ、眺めるだけが好きな人もいるでしょ」と二階堂が返すと、一ノ瀬は納得しているのかどうかわからない顔で、理玖が消えた方向を眺めていた。


 旧江戸川沿いを走る電車に揺られながら、理玖は車窓から広がる街並みをぼんやりと眺めていた。何駅か通り過ぎると、白い外壁に包まれた無機質な工場地帯が広がっていた。ガトンガトンと激しい音が響き渡る。河川にかけられた橋梁の存在を目で確認すると、疲労のために休息に入ろうとしていた意識を呼び戻し、目的地の到来を伝達する。

自宅の最寄り駅よりも数駅前の駅で下車した。駅前は仕事帰りのサラリーマンや帰宅途中の学生で溢れていた。帰路につく者やまだ予定を抱えている者の往来を抜け、色とりどりに輝く駅前の繁華街を一瞥することなく歩いていく。彼はただ、1つの目的地に一直線に向かって行った。

 辿り着いた先は、川沿いの土手であった。付近には漁船がいくつか停泊している。海から流れ込んでくる湿った風がゆらりゆらりと船体が揺れ動かせ、理玖の左頬を撫でるように吹いていた。

 コンクリートで固められた堤防に腰掛けると、向こう岸に連なる建物の合間から陽が沈んでいくのが見える。薄暗くなる空は、次第に熱を蓄えて光を放つ太陽から愁を帯びた光を放つ月へと主役を変える。

 あの日と同じ光景だった。「あーあ」と漏れ出てしまった感情が引き金となったのか、彼は人目を憚ることなく言葉をつらつらと吐き出していく。

「どこにもいないよなあ」

 優等生でもあり、異端児でもあった幼馴染の海原スイ。月光の下、水のように透き通った身体で川底に消えていった彼女。スイという存在そのものが水に溶けるように淡い色へと変容している。その実感が、彼にはあった。 

 次第に断片的になっていく記憶をどうにか繋ぎ止めて、彼はここに立っている。来る途中にある橋梁の下を電車が通り過ぎる音や帰っていく子どもたちの笑い声を聞き、彼は通る度に安堵する。あの日に紐付けされた彼女を取り巻く記憶の大切な一要素だからだ。

「幻覚だったらどうすんだってなあ〜」

 まるで初めから存在すらしていなかったかのように、彼女はこの世から溶けてしまった。3人きょうだいだった海原家は2人きょうだいとして認識され、『スイの母』も消えた娘を探すことはなかった。彼らが日々を平穏に過ごしていることが、年始に送られてくる年賀はがきで伝わっていた。

彼は面影を、今もずっと探している。どこかの海で見つかるのではないかと、世界各地の海がある場所を訪れ続けるのもその一環だった。水の中では泳ぐことも呼吸をすることもままならない『人間』の彼に残された道は、それしかなかった。

「我ながらやってること、キッツイなあ」

 呆れたように言いつつも、理玖はスマホを取り出して航空会社のサイトを開く。1ヶ月後、有給を取得して向かう予定の那覇空港行きの飛行機のチケットである。一席確保すると、理玖は日暮れの川辺を静かに見つめていた。

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