トゥモローパイオニア

樹 覚

第1話 私的な再始動

 平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間そのもののほうが個々の人間よりはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの驚異よりも、人間性そのものの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。あるがままの、二本脚のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心を揺すり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を躍らせるはずなのだ。死そのもののほうが、餓死よりももっと悲劇的であり、ただ鼻を持っていることのほうが、巨大なカギ鼻を持っているよりももっと喜劇的なのだ。

             チェスタトン


 夜になろうというのにそこは明るかった。炎上する車の火が植木や古い建物に燃え移っている。背の低いツツジの列が赤く染まっていく。建造物の窓から火が飛び出した。強度を失った建材が、その火を追いかけるように吹っ飛んだ。

 国立駅前のロータリーに二人の男が座りこんでいる。 体型をはっきりと表現する全身タイツもケープもずたずたに引き裂かれ、その下の生傷からは赤い血が吹き出していた。二人の仲間の一人はなんと、しばらく有給休暇を取ると言って姿を見せなかった。もう一人、純白のレインコートを着た仲間はその遺骸を完璧に隠蔽して、彼らの前から消えていた。縮小化能力を持つ仲間は大きくならない。おそらく、二度と大きくならないだろう。

 二人のうち、顔を隠してない方が呻いた。装飾品の王冠、王笏、宝珠は戦いの最中でどこかに行ってしまった。ネクロポリスが育てた巨大な軀は力を失って立ち上がることもできない。ヒーローの王を自認する大男、マジスターはかつてない痛みに死の気配を感じ取り、隣で座りこんでいる相棒、ギロチンムーンに声をかけた。もう彼と話せなくなるだろうから。

「ギロチン。まだ生きてるか?」

「・・・・・・・・・・・・」

「起きろハゲ」まだ心音は聞こえている。

 ギロチンムーンは顔を上げた。徹底的に改造した黒のジャンプスーツ、星空の描かれたケープ、強化ステンドグラスの丸いヘルメット。ヘルメットの前面にはギロチンをあしらったグラスのアート、その上からギロチンムーンの両目が覗く。ギロチンムーンはその目を開いた。

「ハゲてない。俺の武器はどこだ?」

「粉々に吹っ飛んだよ」

「隠滅の手間が省けたな。お前も助からないか?」心配している声ではない。

「ダメっぽい」マジスターは嘆く。死ぬ覚悟はできていたが、いざ死ぬとなると、そんな覚悟は吹っ飛んだ。ギロチンムーンのギロチンのように。それにしても。

「それにしても、お前が負けるとはな。あ、フセイミャク」ギロチンムーンの脈の乱れをマジスターは聞き取っていた。彼の心臓は弱っている。俺より早く止まるな、とマジスターは考えた。

 超人である自分よりも無敵に思えたギロチンムーンが倒される、そんな日がくるとは驚いた。作戦立案はギロチンムーンかドクター・ストゥピッドにやらせれば、まず間違いなかった。そうだ。ドクタがいればこんなことにはならなかったはず。何が有給だ、あのバカストゥピッド。俺たちは給料なんか貰ってない。休みもない。

「そう言うな、メイズ」マジスターの本名をギロチンムーンは呼んだ。

「ドクタならこの事態を予測していたろう。いつかは負ける、という予測なら俺もしていた。有給というのは奴なりのユーモアだ。なんらかの布石を打っているはずだ」

「バカな」ユーモア? 布石?

「それで何人も死んでるんだぞ。あいつは調子はいいが、こんなことは許さない。ドクタのジョークに一番付き合っていたのは俺だ。それはよく分かる」

「それなら、奴の思考を一番知っているのは俺だと言っておこう。ジョークの方はそれほど理解できなかったが。おそらく」

 サイレンが聞こえてきた。まだ遠い。ギロチンムーンには聞こえていないだろう。

「おそらく、ドクタはこの事態を不可避と評価したのだろう。そうでないならこれで最小の被害ということだ。ドクタは別件の仕事があるか、避難している可能性もある」

 ヒーローが避難していいわけないだろ、とマジスター。

「常識的な視点ではな。ドクタは、俺もだが、事態を鳥瞰している。ドクタは、この場では勝てないと思って姿を見せなかったのだと思う。だがただ逃げたわけではないな。さっきも言ったが、あいつは布石を打っている。間違いない。俺たちはただで負けてはならない、それを奴は理解している。必ずなんらかのダメージコントロールをしているはずだ」

 そりゃお前もか? そうマジスターは問おうとして、気付いた。

 絶対にダメージコントロールをしている、こいつは。だが、どうやって? 今にも死にそうではないか。

「二代目に後を継がせるのか・・・・・・」

 ギロチンムーンは無言で頷く。彼はこの場で死ぬ。しかしギロチンムーンは死なない。この日まで鍛え上げた弟子が遂にマスクを被るのだ。

 マジスターも時折、その教育を助けてきた。彼女と面識がある。それでもマジスターは心のどこかでギロチンムーンが死ぬ筈はなく、二代目は常に後方支援をこなすだけなのだ、そう考えていた。

 あまりにあまい見積もりじゃないか?

「メイズ、奴を実践投入するためには・・・・・・お前の協力がいる」

「協力だと?」

 その時、二人の男が側に立っていた。先程撤退した白衣の仲間と全く同じファッションをしている。マジスター達の遺体を回収するためだろう。メイズはもとより正体を隠していないが、ギロチンムーンは別だ。素顔を知られたくないだろう。

「なにが協力だ。俺はもうすぐ死ぬぜ。お前も」

「俺のセーフティネットは・・・・・完璧だ。俺が死ねば・・・・・・後継機が、あの二代目が活動開始する、そういう工作をしておいたのさ。まあすぐに分かる・・・・・・」

 そう言って、ギロチンムーンは事切れた。マジスターの耳に心音は届かず、白衣の男が脈をとり首を振った。

 メイズは今までの戦いを振り返る。感慨に耽りつつ仲間たちの顔を、敵との死闘を思い出した。そして死にもの狂いで守った、ネクロポリスの人々を。俺は彼らを守れただろうか?

 守れてない。俺は死に、ネクロポリスの犯罪率は再び跳ね上がるだろう。押さえつけられていた悪党たちは俺の死を歓ぶ暇も惜しんで自分の本性に従うだろう。

「死にたくない」

 マジスターの言葉に二人の男は動きを止めた。そしてマジスターを凝視した。意外な言葉だったのだ。

 忘れられたくない。誰でもいいから誰かの記憶に残っていたい。そうだ。ギロチンムーンと違って俺は後継者など育てなかった。何も残さず、死ぬ。だから一度は守ったものも失われるだろう。

 もう一度人生があるなら、やり直せるなら、マジスターは思った。

「俺を・・・・・・覚えていて・・・・・・くれる・・・・・・」

 そんな誰かを、育てよう。

 後悔が大きくなる、その前にネクロポリスの王は、人々を残して逝った。

「死んだか?」とレインコートの男が言う。

 もう片方は脈をとり、瞳孔を覗き込み、そしてマジスターの両目を閉じてやった。

「死亡を確認した。たまんねえよ、早く葬ってやろう」

「そうだな・・・・・・。泣くなよ情けない。俺たちはメジェドだろ」

「マジスターが死んだんだぞ! ああ、わかってるよ。仕事に移ろう。って、なに見てるんだ?」

「胸から何か生えてるぞ!」 男はひどく慄いていた。

 言われて胸を見ると確かに生えていた、指が4本。喉に血が込み上げてきた。指に力がかかる。そう感じる間も無く指が左右に男を引き裂いた。

 巨大な指は握り拳となり男を殴る。白いコートを赤く染め、挽き肉になり、男だったそれは彼方へ吹き飛んだ。

 男のいた場所に、マジスターが立っていた。

 死んだはず、そう思う間も無くもう一方の男は血の霧と真っ赤なレインコートを残して姿を消した。男を跡形もなく消しとばしたマジスターの蹴り、その衝撃波が周囲の火を吹き消した。

 俺は死んだはず。ぼやけた頭でマジスターは考えた。

「ああ、お前は間違いなく死んだよ。マジスター」老いた掠れ声が聞こえて振り向いた。 

 マジスターの王笏、杖を持った初老の男が近づいてきた。くたびれた安物のカッターシャツ、黒いズボン、ネクタイにはヒエログリフが描かれている、真っ白な髪、痩せこけた頰、彼の心労の原因は俺たちだ、そうマジスターは感じた。

 男は何度もマジスターやギロチンムーンに負けてきたヴィランだった。彼を知っていた。マジスターの杖も、元はこの老人のものだった。墓泥棒。

「エンバマーか」

 ヴィランが都合よく現れたものだ。俺が持っていた杖の力でーーなんという名だったかマジスターは失念したーー俺も復活させたのだ。エンバマー、そう呼ばれた老人の後ろにギロチンムーンもいる。コスチュームは新品でほつれ一つ見当たらない。装備も、三日月刀とギロチンも復活している。 

 エンバマーの顔が皺で歪んだ。「凄いぞ、情報通りじゃないか!」

 今まで見たことのないようなえびす顔。

「ついに! ついに俺はマジスターに勝った! ギロチンムーンにも! お前らがいれば俺は王にもなれる! もう誰も俺を見下さない! 俺は・・・・・・」

 エンバマーの勝利宣言を聞きながら、マジスターは自分に何を求められているのかぼんやりと理解し始めていた。後一度、戦わなくてはならない。その中で何かを遺すことができるだろうか。

 まあ、試す価値はあるだろう。必ず出来るとは言えないが それを言うならいつだって『絶対』など無かったと言える。

 仕事を始めようじゃないか、とギロチンムーンを見る。彼は微動だにしていないが、マジスターには親友に考えがあるように思えた。

「場所を変えよう、エンバマー」とギロチンムーン。

 エンバマーは頷く。 三人は東の坂を登りだした。


 暗く、張り詰めた、そんな空気の空間。駅のそばで学校の向かいにある、遊具のない小さな公園。昼間は長閑のどかで賑やかだったが、流血を予感させる雰囲気が当事者以外を公園から締め出していた。

 来月からくるま高校一年生となる、太宰勇だざいいさみだけが成り行きを見守る観客だった。

果崎はてさき! 今日こそぶっ殺してやるからな!」

 左目を腫らした強面の少年が喚いている。勇の親友に。

 アリババと40人の盗賊ってどんな話だっけ? 果崎の相手は40人くらいか。

「ハル、40人はヤバいと思うけど。武器持ってるヤツもいるし」

 カトラスを持ってる手合いは流石にいないがナイフを持っているのがちらほらと。他の連中もバットや木刀を握っていた。

 武器を持参しただけ褒めるべきか。しかしほとんどの不良たちは腰が引けている。二、三回屈伸をして、ステップを踏む果崎春一はてさきはると。まだ体は温まらない。ジャブ、ジャブ、アッパー。こんなところだろう。

「足りないくらいだよ、さみ。せいぜい楽しむさ」

 春一に退く気はないらしい。マウスピースを噛んで、春一は駆け出した。対して不良達も獲物を掲げて雄叫びを上げた。今日こそこの生意気なクソガキを、春一を殺すのだ、と。

 怒声、悲鳴、骨の折れる音、人が倒れる。何人か不良が逃げ出した。

 春一はそれを追わず、振り降ろされたバットをかわし相手の顎にパンチを打つ、その間にも周囲で何が起こっているか、どの敵が一番近く、危険か探っている。百戦錬磨、春一は府中市一の武闘派不良だ。

 敵に狙われ、敵を殴る。春一は自分がいるべき場所にいると感じていた。また一人不良が倒れる。倒れた彼は第一肋骨が左右共に折られていた。

「あーあ・・・・・・」勇はため息をつきそうになる。なぜこんなことに? 春一はなぜこんな物騒な奴になってしまったのだろ? 昔は純粋で優しくて、人に暴力を振るうなど思いもしなかったのに。

 同時にそれも仕方ないなとも思う。暴力を振るうなど思いもしない子供に、世間はひどい暴力を振るったのだから。

 きっと春一はその暴力を、世界からの名刺と受け取ったのだろう。春一の敵はもう半分まで減っていた。

 親友の将来を勇は案じた。

 優秀なボクサーであるにも関わらず、春一にプロの道はあり得ない。素行不良の上、朝晩二錠の精神安定剤が欠かせない、力能者りきのうしゃだ。力能者はどのような力能であってもプロはおろかアマチュアの大会にも出られない。そもそも春一はリングの内と外を分けていない。敵がいるところが、そこだけが彼の戦場だ。リングだ。ヤクザになるしかないのでは? それどころか健康な体で高校を卒業することも危ない。

 相手の数は十人を切っているのに春一は怪我一つしていない。

 春一を救うのはもう、俺しかいないのでは。そう勇が考えた時、急に彼女の意識は途切れた。柔らかい腕に抱かれるのを勇は感じ、眠った。

 誰も立っていなかった。結局春一を傷つけることに成功した者はいなかった。春一の拳にかすり傷すらついていない。

 以前はこう上手くは戦えなかった、敵が三人もいれば大怪我をして地面に寝そべってしまったものだ。対多数戦というのは、要は慣れだ。だがこんな退屈な戦いに慣れてどうする。これほど一方的では戦いとは呼べない。

 相手を間違えている。俺も、奴らも。敵を選ぶのはナンセンスだが、一番戦いたい奴はリングの内側にいる。今から会えるだろうか? 団扇うちわ

「見事だね、きみ」と、後ろから声をかけられた。

「徹底して計算されている。無駄な動きが、思考がない。実にシンプルでピュアだ。ん? なんだこの女、と思っているね」

 なんだこの・・・・・・なんだと?

 思考を先読みされた?

「私は柔草日ノ笑やわくさひのえ。今年から俥高校の生徒になるの。きみ、名前は?」

 そう。俥校の制服を着ている。制服から伸びる手足は細く、傷一つなく、うっすらと白く、歪みがない。完璧なプロポーション、モデルだろうか。

 歪みがないというなら、その顔こそ歪みがない。自然に感情を表現しているのに整い過ぎてマネキンのように思わせる。矛盾のないピュアな美しさが目の前にあり、それが実体を持っているというちぐはぐさに春一は当惑していた。

「果崎春一だ。果物の果に長崎の崎、春一番から番を抜いて春一。なあ、背の高い女がいたはずだが知らないか? 男みたいで騒がしいやつなんだが」

「あの子ね」と日ノ笑。

「内密な話がしたいから眠ってもらったわ」日ノ笑が目を向けたベンチに勇が横たわっていた。気持ち良さそうにいびきをかいている。沈黙、二人の雰囲気が硬くなった。

「俺に何の用だ?」

 一歩、日ノ笑から無意識に距離を取っていた。それを見て日ノ笑は満足そうに微笑む。

「いいわ! 警戒心が強い、それに観察力も洞察力もある。理想的よ春一くん」

「俺に、何の、用だ」

 隠しているが、日ノ笑は戦闘経験がある。立ち振る舞いでわかる。さっきの不良達よりも手強い。はるかに。

「私は敵じゃない。きみを味方につけたいの。随分好戦的なのね。へえ・・・・・・」

 味方につけたい? では「ではこいつの敵とは誰か? と考えている」と日ノ笑。また先読みだ。

「私の敵は全ての悪。春一。きみにはヒーローになってもらう。私と一緒にね」

 春一は無言。体中に緊張。

 右のジャブを放つ、春一は見た。日ノ笑が春一と目を合わせたまま左手を挙げているのを。日ノ笑の左手は春一のジャブ、その肘を掴む。左半身を引き、右腕を春一の顔にかざした。

 右肘を中心に電気が走る。更に日ノ笑は二発、鳩尾、胸骨に拳を放つ。またも痺れ、春一は驚く。初めて見た格闘技だった。視界を塞がれていたので胸骨を狙った最後の拳しか見えなかった。

 痺れのせいで力が抜け、その場に跪いた。

「まずは私の勝ちね、春一」と日ノ笑。

「試したんでしょ? こっちもそう、春一。君はやっぱり合格」

「なんなんだ、お前は」春一は呻く。

 爆音がして、空を見上げる。三メートル程のロッカーのような形状をした飛行体が物体を投下した。その物体を日ノ笑は空中でキャッチ。ヘルメットだ。ステンドグラスのそれを日ノ笑は被った。黒いジャンプスーツ、星空をイメージしたケープが広がる。それはテレビで、新聞で、ネットニュースで目にした姿。体は小さいが彼女はギロチンムーン。ヒーロー。

「私は柔草日ノ笑。2代目のギロチンムーン。春一、取引をしましょう。私は君の戦闘力が欲しい。自分が得るものは何か? そう考えている。あなたにあげられるもの、それは敵よ」

 敵?

 確かにそれは、春一が欲しているものだ。しかし何故それがわかるのだ、この少女は?

「欲しいんでしょう、強い敵が。私についてくれば命懸けの戦いができるわ」

「のった」

 即答。満足そうに微笑んだ日ノ笑、彼女に見惚れた。なんの根拠もなく、彼女を理解できた気がした。

 もう何年も敵と、戦いと、美しい物だけに注がれていた春一の目は、目の前の少女だけを見つめていた。

 月は、見惚れる誰かなしに輝くものだろうか?

 少なくとも春一は彼女を無視できなかった。


 翌朝。目を覚ます。今日も休みだ。

「・・・・・・勇?」

 普段は勇が起こしてくれるので、つい友人の名を呼んでしまった。

 ベッドから降りる。まあ、睡眠薬を注射されて、かなり眠そうだったからな。まだ寝てるだろう。こんな静かな朝もたまにはいい。ジャージに着替えて朝練の用意をする。今日はボクシングの交流試合だ、軽く流そう。

 トーストの上に目玉焼きを乗せ、野菜をちぎっただけのサラダを口にする。日はそれほど高くない。家族は全員寝ていた。

 精神安定剤を二錠口に含み牛乳を飲む。もう一本空ける。

 玄関を出た。まだ近所の誰も起きていない。

 国分寺駅までジョギング。駆け出した。賑やかな府中駅を通り、昨晩の公園が見えてきた。

 ここにも人はいない。もちろん勇が寝ているでもない。

 公園を横切って学園通りに入る。あの女、日ノ笑か、何を考えていたのだろう?

 明星学苑に生徒たちが入って行く。学校は始まっていないのだ、部活だろう。バス停にバスが停まり、学生を降ろしている。

 正気を疑う言動だった。あの女。ヒーローだって? 馬鹿かよ。

 タイツを履いて誰かの為に戦う自分を想像してしまった。洒落にならないダサさ。寒気さえする。

 勇なら即飛びついたろうな。と春一は思う。彼女はヒーローマニアだ。

 日ノ笑はもちろん春一の戦闘能力を買ったのだと分かる。だが動機、春一のモチベーションはどうなるというのだ。コスチュームを着るのも嫌な乱暴者よりは、明るくてヒーローと正義を好む少女の方が目があるのではないか。勇のような。

 待て待て。頭の中で首を振る春一。そもそも日ノ笑が言っていることが本気とは限らないだろう。むしろ冗談と受け止めるのが自然だ。

 あの謎の体術は気になるが、興味はあるが、日ノ笑の言葉を真に受けることはない。あのコスチュームだって知識と根気があれば用意できるかもしれない。

 そうだ、あれは少し変わった女に過ぎない。変わった女なら珍しくない。恐れることも遠ざけることもないんだ。もうあれこれ考えることはない。日ノ笑の誘いはやはり断ろう、昨日は血迷っていたんだ。そう思うと体が軽くなった。急な坂道も登りきり公園にさしかかる。木が多くて日が遮られている。木の葉は落ちていてわずかに光が差しているが一年中暗いという印象がその公園から人を遠ざけていた。

 視線。公園からだ。人影を見つけた。「おはよう」と日ノ笑。人懐っこそうな笑顔。大抵の男はこれで落ちるだろう。

 心臓が高鳴った。嫌な汗が吹き出た。驚きが痺れとなって体中を走る。即戦闘態勢。

「てめえ! 日ノ笑! 尾けて・・・・・・先回りしただと!? 俺を調べやがったな!」

「果崎春一、一六歳。小学二年生までいじめられていたが三年生の時にボクシングを始める。大胆な戦術で好成績を残すが公式試合には出れない。力能者だものね。いじめはなくなったが逆に春一が暴力を振るうようになる。喧嘩の常習犯で少年課のブラックリストに載る有名人か。今では都内最強のアマチュアボクサー。文句なしの戦闘力だ!」

 くたばれドアホ。そんな気持ちを拳に乗せて、しかし振り切れなかった。日ノ笑は既に防御の構えを終えている。これでは昨日の繰り返しだ。何より、こいつと戦いたくない。拳を降ろす。

 こんなに実力差を感じさせる相手はいつぶりだ?

「昨日は乗り気だったのに、時間が経って冷静になっちゃったか。その通り、調べたよ。本当に貴重だ、君は。是非とも欲しい」

 そう、昔母親に感じたあの圧倒感が蘇っている。勝てない、そう予感させる、断子たつこめ。


 物心がつく頃には春一の兄、外郎ういろうと姉の接子つぎこの泣き声に慣れきっていた。

 果崎家は断子の厳しい躾、必要以上の体罰が支配しているようなものだった。基本的に子供の意見は尊重されず、両親の、特に断子の判断で家は切り回されている。

 外郎は要領が良くすぐに母親の気性を理解し、両親との付き合い方を覚えた。

 接子は断子に良く叱られた。殴られこそしなかったものの、冷たい言葉をよく浴びせられた。

 のろま、すっとろい、こんなことも分からないのか、と。

 泣きじゃくる接子を外郎はよく宥めた。「大丈夫、お母さんは本当は接子が好きだよ。今は機嫌が悪いだけなんだ」

 そう言ってやるだけで接子の不安は和らいだ。そうして彼女も母親とうまくやっていけるようになった。断子の性格は相変わらずだったが、果崎家は静かになった。

 それでも外郎は、母が自分達を愛していると確信は持てなかった。確かめる勇気も。

 春一が言葉を覚え歩けるようになって、初めていたずらをした。壁に絵を描くという、特に珍しくないいたずらだ。それを見た父親のさとしは何も言わず顔をしかめ、そして壁を掃除し始めた。

「壁に落書きしたら、ダメだぜ。ハル」そうなのか、知らなかった。と素直に父の言葉を受け止めた時、断子が帰ってきた。その後どうなるか、聡はよく理解していたが、掃除をやめず、落書きを隠そうともしなかった。

 断子は激怒した。「聡さん、誰がやったの!」壁を拭く手を止めず、反対の手で息子を指した。断子の右足が春一の鳩尾に突っ込まれた。全力で蹴られた春一はテーブルに頭をぶつけ、二つの激痛を味わった。「落書きだと、春一!」そう言って断子はまた蹴りをいれる。今度は顔に。前歯が折れて鼻血が出た。「ママやめて!」春一は叫ぶが断子は聞かない。腹に蹴り。「クソガキが!」聡は成り行きを無視して掃除を続け、やっと接子が飛んできて断子を止めた。止まらなかったが。呼吸が難しい。あの痛みと驚き、衝撃を春一は今でも思い出せる。いつでも思い出している。

 その後も何度も蹴られ、罵られ、春一は泣いた。春一の母親像はこの日に修正され、戻ることはなかった。優しかった母親は死んだ、のでなく元から存在しなかった。それを家族の誰もが知っていた。

 断子に初めて蹴られた日から、春一も虐待を受けるようになった。すぐに身体中に生傷ができた。幼稚園に上がる前のことだった。

 断子の性格は苛烈で、しかし腹を立てていない時は静かで穏やかな、無口な女性だった。どこにでもいる普通の主婦のようだったが、勿論普通の主婦は息子の骨を折ったりはしない。

 外郎も接子も断子を宥めようとしたが、聡はそうではなかった。自分の子供が殴られるのを眺めているだけだった。

 父親の真意を掴める子供はいなかった。本音を語らない聡は果崎家の謎だ。

 断子から痛みを教わって、春一は大人しく、行儀が良くなった。暴力という優秀な家庭教師の教えで、親の言うことを良く聞き、夜は早く眠りにつき、マナーを覚えた。

 しかし母に対する恐怖は子供の春一に細かな失敗を繰り返させ、断子を何度も怒らせた。

 ある夜、ついに春一は母親に怒りを向けた。食卓に大皿を運ぶ時に転んでしまい、コロッケを床にぶちまけて殴られた。

 恐れはなかった。今度殴られたら殴り返してやる、そう決めていたから。

 頬を張られ吹っ飛ばされたが、立ち上がって断子の腹を殴った。

 猛烈な怒りが、春一の身体中に満ちて更に二発、三発と断子を殴らせた。それを外郎と接子は呆然とそれを見ていた。断子を殴るなど考えられないことと二人は信じていたので眼前の光景を正しく認識できなかった。駅のホームから人が飛び込むような、思考を止めるような光景。

 また春一は殴られる。テーブルに頭を打ちつけた。頭から血が出て右目に入り、それで流血したと気付いた。

 怒りが爆ぜてまた母に飛びかかった。

 殺してやる。こんな女が生きていいわけがない。

 殴り、殴られる。断子の息の根を止めるまで春一は戦うつもりだった。

「ころしてやる!」

「親に向かって!」

 断子の足が眼前に飛んできてーー


 どうやっても勝てない。そう思わせるのは断子と同じだが、何故勝てないのか、その理由が違うことに春一は気付いた。その違いが何か掴めないにしても。

「君が欲しい、春一。ギロチンムーンは今、戦闘力を必要としている」と日ノ笑。

 そう語る声に迷いも震えもなく、シンセサイザーが奏でる音のように無機で精密。もっと聞かせてくれ。そう願うのを春一は咄嗟に堪える。

 春一を見据える瞳はまるい。歪みがなくその視線は鋭く、春一の心を見抜いて、その後頭部を貫きそうだ。もっと俺を見てくれ、そう願うのを春一は堪える。

 何か、答えなければ。何かじゃない。断ろう。馬鹿げている。

「日ノ笑ーー」

 春一を遮って日ノ笑は何かを投げ与えた。受け止めたそれは、青を基調としたヘッドギア。普通と違うのは目元も隠れているところだ。薄い青のグラス、被れば誰か分からないだろう。明らかに素性を隠す機能を持っている。

「つけてみて」と日ノ笑。

 馬鹿げていると、春一は思う、思うのに両手はヘッドギアを掲げている。うやうやしく冠を被ろうとするように。朝日に照らされて青いヘッドギアが煌めく。

 春一は混乱。気がつけば視界が暗い。すぐに淡い青色がかった視界になり、ヘッドギアを被ったと分かった。

 ヘッドギアの後部から薄い科学繊維の布が飛び出し春一の体を覆った。服の上を走ったはずのそれは春一の引き締まったボディラインを表していた。全身タイツだ。青色の。スーパーヒーロー。

 春一は戦慄した。一日も休まず鍛えてきた己の体が自分の意に反し日ノ笑に従っている。まるでこの肉体の主人は春一でなく、青いヘッドギアを被った誰かのようだ。

 春一は自分の体と技だけを信じてきた。その二つだけは俺を裏切らないから。だからこそ春一は脇目も降らず、ボクシングで鍛え続けた。誰に負けても、誰に勝っても、勝敗は春一に何の感動も与えなかった。勝敗が決まる、そのシンプルさに春一は惹かれた。納得した。なんであれ結果は疑いようがなく、苦しみも、不快な複雑さもなく受け入れられたから。

 リングの内で、外で、殴り合う。それが春一にとっての現実であり、神だ。

 それなのに、その純粋な春一の人生が青みがかった。薄青い日ノ笑が見つめている。

「ヒーローチームの『マスカレード』が全滅した。だから私は新しいヒーローを探している」

「『マスカレード』が?」

「そう。その上、誰がやったのかわからないの。念の為聞くけど、何か知らない?」

「知らない。『マスカレード』が? マジスターやドクターストゥピッドもか?」

 春一が挙げた二人の名はヒーローの中でも無敵と呼ばれていた。マジスターが死ぬなんて春一には想像つかない。

「マジスターは死んだわ。私が確かめた。ドクターとは連絡が取れない。春一、ヘッドギアを外して」

 言う通りにすると日ノ笑は手招き。

 ふすまを閉めるような音を立てて青いタイツはヘルメットに収まった。その感触が面白くてもう一回やりたかった。

 日ノ笑についていく。民家のような、小さなステーキハウスに入っていった。


 清潔で簡素。狭い内装だった。五十年ほど昔に流行ったナンバーがかかっていた。

 奥のテーブルに二人は座る。やせぎすの女店員が水を出した。

「モーニングセットを」と日ノ笑。

「コーヒーくれ」と春一。

「かしこまりました」

 日ノ笑は息をついた。その時初めて春一は彼女が緊張しているのに気付いた。

「私を助けてくれるようね。礼を言わなきゃね、ありがとう」

「こちらこそかっこいいシャツをありがとうよ」皮肉。

「でもこのシャツ着て誰と戦えってんだ?」

 コーヒーとステーキセットがテーブルに乗せられる。他に注文はございませんか? いいえ。ありがとう。沈黙。店員が下がる。

「誰と? 墓泥棒よ」

 ステーキを切る日ノ笑。

「なんで墓泥棒なんざとバトらなきゃならない? 警察に任せろよ」

 いつも自分を補導する刑事のモアイ顔を思い出した。彼は少年課だが。

「警察に任せられない理由は二つあるわ。まず単に警察の手に負えないから。二つ目の理由は、その墓泥棒が盗んだのはギロチンムーンとマジスターの遺体で、それゆえ秘匿義務があるからよ」

「ァあ熱っつ!!!」

 コーヒーを溢してしまった。マスターと女店員がこちらを見ている。ナプキンとコーヒーのおかわりを貰った。その間に平静を取り戻す。

「マジで?」

「春一、素が出てる。ちゃんとカッコつけて。簡単に本音を出しちゃダメ」

「正体隠せってか」

 ギロチンムーンのように。

「仕事のときはね。はむ」もぐもぐとステーキを味わう。

「私は、『マスカレード』の予備メンバー。チームの機能不全や全滅時にチームの指揮をする事になっている」 

「仲間が全滅してりゃ指揮も何もないけどな」

「茶化さない。シリアスなのよ」

 15、6の小娘が全身タイツで犯罪捜査に首を突っ込む? 

「確かにこの上なくシリアスだな」

「茶化すなって」日ノ笑も流石にむくれる。

 日ノ笑の言葉に春一は背筋が凍った。単に皮肉が通じたと思えなかった。

「前から気になってたがどうして心が読める?」

「私は人間。つまり正統オーソリティーであってテレパスじゃない。これはただの読心術。状況、文脈、顔色を読めば思考なんて測れるわ」

 こちらだけ手札を見せながらカードをしているということか、隠し事はできないらしい。コーヒーに砂糖を入れる。

 日ノ笑はかなり頭が切れる。春一はそう評価した。自分より頭がいい。だが狂っているかはわからない。彼女のカードがどんな役か、伺えない。

「真面目に聞いてね。その墓泥棒は特殊な杖を使っていて、それで死者を蘇らせる。敵は、ヒーローなの。冗談に聞こえるかしら?」

「超人や力能者がいる世の中だ、疑ったりしねーよ」

「一緒に戦って欲しい。私だけでは勝算がないの」

「確かに勝算がねえ。敵はマジスターとギロチンムーンだろ。マジスターは・・・・・・無敵だ。最強の超人じゃねえか。俺だけ加わっても奴には勝てない」

 マジスターの活躍は時折テレビで見ることができた。その映像はアクション映画よりもディザスター映画に似ていた。

 原色の突風が吹き荒ぶ。風が止むと悪人達はロープで縛られているか、気を失っている。それからカメラマンはニコニコのマジスターがピースしているのに気付いてインタビューを始める。英雄の王は無傷で息も上がっていない・・・・・・。

 春一の指摘に日ノ笑は沈黙した。無表情で春一の顔を見つめている。眼力に気圧される。

「策がある。それに彼らは無敵ではないわ。現に一度死んでいるのだから」

 もう一度殺せる。と日ノ笑。ナイフがステーキを切り分ける。

 春一の足が震えてきた。

 今、日ノ笑が手札を見せたとわかった。本音を聞かせたのだ。隠さなかった。本気なのだ、彼女は。

 そして自分もまた本気で彼女に協力しようとしていることにも気付いた。自分で言ったではないか、俺だけが加わっても、と。

「墓泥棒はエンバマーと名乗ってる。彼の所在は捜査中。見つけたら即座に叩くから力を貸してね」

 そう言ってヘッドギアを春一に渡す。

「その時は、俺はどうすりゃいいんだ?」

「細部は現場で詰めるけど、マジスターの足止めになると思う。思い切り暴れてね。私がギロチンムーンを撃破してエンバマーを捕らえる。リングでは主役だったろうけど、春一、今回は私が主役よ」

「俺のことをよく知ってるような口ぶりだな、心を読むなっつったろ」

「失礼。とはいえ仲間の胸の内を知っておくのはとても重要でね。はむ」

 ステーキを食べきって口を拭く日ノ笑。

「きみほどシンプルな人は本当に珍しい・・・・・・悪口じゃないよ。凄い資質なんだ、それは」

「なんだと? 俺に、資質?」

「やっぱり。自分みたいに割り切ってる奴はどこにでもいるって思ってる。攻めるか守るか、勝ちか負けか、内か外か、俺かお前か。私が守ってる普通の人々はね、そんな簡単に生きてないんだよ。お冷やお代わり下さーい」

「・・・・・・珍しかろうが、資質があろうが関係あるか」

 その言葉も日ノ笑は予想していた。水を飲んで人心地。

 彼の焦点は自己の理想にぴったり合い過ぎている。ためにその理想に関わる自身の資質すら無視している。しかも少しも他に目を向けることがない。

 それほど単純だから選んだのだ。この戦士を操れるのは彼自身か私しかいない。

 春一に利他的な優しさ、思いやり、不正に対する義憤は期待できない。正義の味方という人物キャラクターではないことを日ノ笑は初見で見切っていた。不良と殴り合いしていたのだから当然だが。

 それでもいい、日ノ笑の計算に狂いはない、この少年を引き込む策は、正解だ。

「何か進展があったら連絡する」そう言って連絡先を書いたメモをテーブルに置いた。

「話に付き合ってくれた礼に、ここは私がもつわ」

 日ノ笑は席を立つ。

「君がいままで住んでいた世界を私たちは『表の世界』と呼んでいる。そして君が足を踏み入れたのは、『裏社会』。裏社会にようこそ、歓迎するわ。またね、春一」

 領収書を摘んで日ノ笑はレジへ。そして店を出る。

 コーヒー一杯で日ノ笑に売ったのはなんだろう? 

 それはぼんやりとして春一にはわからない。メニューを見ると、コーヒーは780円。

「高っ!」

 日ノ笑が食べたステーキは350gで5400円。

「高っ!!」


 人間というのは人生の中で新しいものに出会った時困惑する。

 春一も例外ではなく日ノ笑に初めてあった時困惑した。これ以上困惑することはないだろうと思う程だ。

 すっかり慣れきった繰り返しの日常に突然女神が現れる。空から女の子が降ってくる。そんな体験だった。

 日ノ笑が誘った世界は春一の現実にはない三つ目の領域だ。ボクシングのリングの、内でも外でもない。

 しかしは日ノ笑の手を取るだけで立ち入ることのできるくらい身近な世界だ。

 身近だからこそ日ノ笑は誘ってきたのだろうか。

 ヘッドギアをいじる。

 やめよう、日ノ笑の心中を推し量るのは無理だ。 

「あいつ昨日の今日でこのヘッドギアを作ったのか・・・・・・?」行動力がありすぎる。

 自宅のドアを開けて居間に入るとマジスターがキッチンにいた。

「!?」

「おかえり、ハル。朝飯もうすぐできるぜ」

 マジスターではなくコスプレした勇だった。心臓に悪い。

「朝飯ならもう食べた。だいたい減量中だ。またコスプレか」

「食ったの? じゃ俺が食うか。座れよハリー」と勇。二人でテーブルにつく。勇の皿にはフレンチトースト。

「ニュース見たか? ヒーロー全滅だってよ」

「それでマジスターのコスプレ? 悪趣味じゃないか?」 

「いやコスってハルん家のテレビ見てたら速報入ってさ。ビビったは。気まずい気まずい」

 春一は納得した。ユーモアは理解しづらいが、勇はヒーローに対して悪趣味なことはしない。好きなものは好きと言える素直な女だ。

「やっぱ脱いだ方がいいよな」

 あのノーテンキヒーローのマジスターがそれで気分を害するとは思えないが。

「そうだな」

「いったん着替えるは。俺のトースト食べるなよ」

「食わないって」

 勇は二階に上がっていった。勇の家は果崎家のとなり。春一の部屋から自室へ移動できる。

 リビングに原色ギラギラ全身タイツがいるのは落ち着く状況ではない。それを親友が着ているのなら尚更。

「・・・・・・・・・・・・」

 何があっても自宅でヘッドギアは着けるまい、人知れず春一は誓った。

 少しすると勇が戻ってきてトーストを食べ出した。

 カジュアルで活動的な服装。長いスカートを履くのは珍しいが、季節を考えれば当然か。

「あのさー、ハル。俺昨日の記憶ないんだけど、なんか知らねー?」

 牛乳を吹きそうになる。

「巻き添えになったんだよ。アホどもの手からすっぽ抜けたバットが頭に当たってな」

 すまん、と春一は謝る。咄嗟にしてはよくできた嘘だ。

「なーんだ。そんなことじゃないかと思ったぜ」

 信じてくれるか、すまん、親友。

「すまん」

「いーって。いつかこうなると・・・・・・覚悟してたし」

 勇は苦笑い。

 物心ついた時から、勇と一緒だった。家族ぐるみの付き合い。海にも山にも一緒に行った。

 その付き合いが危うくなっている。

 死が二人を分かつまでの腐れ縁、根拠のない永遠の友情を春一と勇は共有している。

 それが断ち切られようとしている。ギロチンが落ちるようにあっさりと。

 そうした予感は、春一も昔から認めていた。身軽で味気ない彼の哲学がその予感を無視するよう春一に働きかけていた。

 二人は物理的に寄り添っていたが、その感性と肉体的、腕力が生み出す条件の差異は時間に比例して広がっていくばかりで、明晰な春一がそれに感づかない筈がなかった。

 日ノ笑の勧誘に乗った瞬間からこの状況は連続しているといってよかった。日ノ笑に乗れば、友と別れる。しかし日ノ笑の誘いを断っていても、いつかバットが勇の頭に飛んでいくだろう。

 その時に、春一は勇を守らないだろう。

 自分に守れるものは何もない。

 家族に虐待され、小学生の時に虐められ、自尊心を守れなかった自分に、他人など守れる筈がない。

 そう。

 昔は守りたいものが沢山あった。彼は普通の子供だった。

 今は。

 守り切れる何か、そんなものはどこにもない。

 自分も。誰でも。何もかも。

 春一は確信している、確信して闘っている。

 自分にはもう、失うものしか残されていない。

 それに気付いた自分と、気付いていない人たちの違いはなんだろう?

 今すぐにも失われるだろう目の前の親友、彼女は俺のような考え方はしていない。

 守れる、という幻想。それはお金のように社会を巡っているように感じる。

 その社会で、小さな破壊が、幻想を殺す。子供を狂わせる。現実を突きつけるように。

 どうして誰も捨て鉢にならない?

 春一の人生を狂わせた小学生の頃の悪童の顔を思い出す。

 人を傷つけたのなら傷つけられることも考えられる。

 そんな双方向性、平等を、何故意識しない?

 暴力の存在という観点では、ボクシングのリングに内も外もない。

 春一にとって、暴力は偏在する神だった。敵、他者、闘いが、春一の崇める神。

 こうしている間も、ほら、誰かが誰かを傷つけている・・・・・・。

 神が俺を指差す。次は俺の番、勇の番。

「勇。話がある」

「なんだよ、改まって」

「もう俺とつるむな。いつかもっと酷い目に合う」

 勇はぴたりと動かなくなった。

「・・・・・・なんだって?」

「言った通りの意味だ。昨日はまだマシだ。怪我もなかった」

「なんだよ、それ」声が震えている。

「次はどうなる? 何年か前に言ったよな、いつか巻き添えになっても知らねーぞって」

 当時、勇はけらけらと笑っていた。冗談と受け止めていた。

 数年前に春一は確かに警告していた。五人の不良と喧嘩した後で、返り血で春一の顔は真っ赤でただならない形相だった。

 それでも勇は、そうした警告を他人事のように受け止めて、春一もそれ以上何も言わなかった。

 他人事? 

 そう。

 他人になる時が来たのだ。

「いろいろと、お前には世話になったよな。楽しかったよ、勇。だけど、だからだな。怪我する前に俺から離れろ」

 勇は涙した。朝食どころではない。

「これはお前への最後の親切だ。それに、いつか俺は、必ず友達を邪魔に思うようになるだろう」

「!」

 勇の拳が春一を打つ。これが親友との最後の接触と、春一は避けなかった。

「てめえ、は、ハル・・・・・・」

「今でさえ俺は家族を殺したいんだ! 殴れるなら誰でもいい! 殴り合いなら最高だ! 俺には闘いしかねえ! 人間には二種類しかいない! 敵か、いつか敵になる奴かだ、勇、お前は二番目だ」いつか敵になる奴。

 春一は立ち上がり、まっすぐ勇を見据える。

「でもお前とは、お前とだけは闘いたくないんだ、邪魔だと思いたくない。わかってくれ」 

 勇にはリングの内にも外にもいて欲しくない、唯一の人間なのだ。

 内にも、外にも。

 だから俺の人生からも。

  血腥く、無慈悲なこの世界から、親友を追い出したい。

「クソが! 春一! このヤロウ! わかってくれだ? 俺と絶交だと!?」

「俺の家から出て行け、勇」

「・・・・・・」立ち上がる勇。

 彼女は家を出た。

 これでまた一つ、春一は荷物を下ろした。

 その荷物はギロチンムーンのいるリングに上がる為に絞らなければならないウェイトだった。

 また一つ人間らしさを捨てられたわけだ。と春一は自嘲する。


「クソッタレ! アホッタレ! バーバリアン! 夢を忘れた古い地球人!」

 部屋に戻り、激情のままにフィギュアや鞄を蹴飛ばして、勇は叫ぶ。

「ああムカつく! 毎日ヤツの机にくさやを詰め込んでやろうか! 毎日ヤツの味噌汁を作ってもいい! オクラをいれたやつ!」

 春一はオクラが食べられない。

「スカしやがってぇ! クソ! ヤツのアクセやら腕時計やら靴やら売っ払ったろか! ノーデリカシーの、カッコつけの、春一のバカヤロー!」 

 肩で息する勇。元から散らかっていた部屋は惨憺たる有様。 

 携帯に着信。

「ンだよ!」

 画面の番号を見て、勇は普段のテンションに戻る。いやそれよりも低い。

「もしもし、太宰です」

 試験の結果、勇くん、貴方は合格です。おめでとうございます。装備一式は後日指定した場所にお届けします。必ず受け取って下さい。 

「了解しました。どうも」

 普段の勇なら飛び跳ねて喜ぶような報せだったが、春一との喧嘩別れの後なのでちっとも嬉しくない。

 嬉しくないどころか泣きそうだ。俺は幼馴染を失ったんだ。

 喪失を朗報で埋めることはできないにしても、進まなくてはならない。

「弱いから絶交だと? 俺が弱いか、すぐに分かるぜ、バカめ」

 勇は毒吐く。


 国分寺駅前のボクシングジム。

 今日の練習は終わり、片付けも済んでいる。

 リングには春一と元老院団扇げんろういんうちわ、コーナーに背を預け精神を統一している。深呼吸。この練習試合を楽しみにしていたジムメンバー達も、大声を上げない。

 団扇は春一と同い年。ジム屈指の実力を持つ女性ボクサーでよく春一と試合を楽しんでいる。

 団扇は水を口に含む。両腕と目に神経を向ける。問題なし。春一よりは身長が低いのでリーチに気をつけなければならない。それに体重差も。体格こそ似ているものの、春一は重くその分有利。クラスも違う。

「仁科さん、ヘアバンド大丈夫かな?」友人に後頭部を見てもらう。

「うん。ちゃんと止まってるよ」 

 肩まで伸ばした茶色のロングヘア、自慢の髪であってもしっかり纏めておかなくてはならない。

 これは練習試合というより余興に近い。もちろん記録にも残らない。

 しかし公式試合並みの高揚と緊張を感じる。春一もだろう。

 微かな熱気、ウォーミングアップ問題なし。

「クリーンなファイトを、団扇」

「クリーンなファイトを、春一」

 二人はリングの中央で右拳を突き合わせる。ゴングが鳴る。

 同時にジャブ、互いにかすりもしない。探り合いだ。

 団扇は小さなステップで最適な間合いを詰めたい、が春一はすぐに退がり右ストレート。直撃。如何に自分の間合いを確保するか、それで二人の頭は一杯だ。

 互いの目の動き、肩の様子を見て次の行動を予測する。視野を百八十度広げて。

 そうした視界は相手だけでなくリング全体が見えるように感じる。一部を見ないようにして全体を見るテクニックだ。

 上級者と闘うには必須のテクニックで、これで目と腕の動きがよくわかる。

 力量に差があれば相手のステップさえ予測できる。

 春一のジャブをガード、そのまま拳を押し出して春一の体勢を崩そうとする。

 おお、と歓声。

 団扇の左ストレートを春一はガード。そのまま団扇の左に回り込むが、団扇は距離を空ける。

 団扇は再び左ストレート。春一の右上腕に直撃する。

「!」

 ガードの解けた右側へさらに攻め込もうとする団扇だが、もろに春一の左フックをもらってしまう。一瞬気絶。

 まだ攻めきれないと春一は牽制のジャブを打つ。

 それを団扇は完全に見切り1ミリで回避。

 バカな! 春一は目を見張る。

 団扇の右アッパー。綺麗に春一の顎を揺らす。

「!」

 腹部をガードした両手に衝撃、ゴングが鳴った。ダウンだ。再び歓声。ワンラウンド終了。

  春一はアッパーで気絶する直前にスクリューを団扇に浴びせていた。戦闘勘が働いていなければ団扇も倒れていただろう。

 勝利への執念ではない。戦闘への執念だった。

 一秒でも長く戦いたい。

 コーナーまで担がれ、やっと春一は意識を取り戻した。

「うお・・・・・・」

 向かいのコーナーで団扇は水を飲んでいる。飲みきると新しいグローブをはめる。左に。

「春一、大丈夫か? 何本に見える?」

「2本、ビクトリー、だ・・・・・・」

トレーナー、壺原つぼはらの指を数える。4本には見えないが、視界がぐらつく。足に力が入らない、吐きそうだ。焦って反撃してしまった。防御に徹していればこんなことには! ゲロを飲み込む。マウスピースに反吐の味が残る。

 好敵手、ボクシングの才媛、リングに愛された少女。元老院団扇。

 団扇が男だったら、学生最強は間違いなくこいつだ。日ノ笑にも勝てるかもしれない。

 実力は拮抗していても、性差というハンデを意識する。ハンデの存在が疎ましくもあるが、そのためにこれほど楽しい試合もできる。

 余計なことを考えるな、今はこの試合を。


 腹部の痛みに耐えて、水を飲み干す。

「ありがとう、仁科さん」

 仁科は頷き、微笑んだ。左のグローブを代えたところだ。

 左グローブは春一のスクリューで捩じ切られていた。その威力はガードの上から腹部に達している。

 少しでも痛みを鎮めようと、一心に呼吸を整える。

「グローブを切り裂くなんて滅茶苦茶ね、果崎くん」と仁科。 

「全くね。あのスクリューだけは、絶対に食らえない。痛・・・・・・」 

 フックを受けた頭部のダメージも大きい。

 普段の試合と違い春一のパンチをほとんど受けていない。春一は何故か焦っている。そこを突けば勝てる。

「甘い予想か」団扇はひとりごちる。

 こちらの勝機は春一の弱み。焦る春一は必ずその弱みに団扇を誘い込むだろう。彼のカウンターが決まれば、それで負ける。

 しかしその勝機を掴まなければ、スタミナ差でこちらが不利になりかねない。試合の流れが二人の戦術を狭めていた。もう長くは、戦えない。

 一気に攻め込む、勝敗はそこで決まる。コーナーでこれ以上考えても勝率は上がらない。

 流石は私のただ一人のライバル。今や私の目標。自由なファイター。正面衝突の権化。果崎春一。

 勝つ。

 勝ってやる!

 二人は全力で立ち上がる。まだ2Rだが、勝負はこれで決まる。ゴングが鳴る。またも歓声とヤジ。

 春一はボディ、フックとパンチを打つ。団扇はボディを捌くがフックを顎に食らう、またも頭部が揺れる。

「! とったァ!」

 結末を確信し、春一は右でブーメランフックを打ち、それはまるで約束を果たすように団扇の顎に飛び込んだ。拳で顎を踏み躙ったような勢い。

 しかし、春一の意識もまた揺さぶられた。

 ばかな!

 倒れゆく団扇はフックを受けながら、スクリューフックを放っていた。それは春一の左ガードをすり抜けて春一の横顔を打ち抜いていた。団扇は無我夢中だった。

 春一もまた立っていられない。なんてことだ。スクリューフックは俺より団扇の方が得意だ。奴の切り札、必殺技だった・・・・・・。

 団扇はダウン、春一は後ろに倒れるがロープに支えられ、足を踏ん張る。ゴングの音を聞いて、くずおれた。


 目が覚める。全身、特に頭が痛い。骨が折れているかもしれない。最悪、ここはあの世かもしれない。 

「いい試合だったぜ。果崎」壺原が見下ろしている。俺は生きているらしい。息をする度痛みが脈打つ。

「お前の勝ちだな。ん? 大丈夫、骨は一本も折れちゃいねえよ」

「俺の勝ち?」

 痛みと達成感が込み上げてくる。頬が緩む。死ぬほど嬉しいのに、はしゃぐことも、叫ぶこともできない。痛すぎる。

 表の世界での最後の試合に有終の美を飾れたわけだ。これで、表の世界に未練はない。

 休憩して、なんとか起き上がり、団扇の方を見る。座っている団扇に仁科が覆い被さり、何かしている。かちり、という音が聞こえてきた。

「団扇ちゃん、ちゃんと嵌はまったようだな」

 仁科の肩を借りて、団扇がリングから降りていった。帰る支度をするようだ。こちらを振り向く。その目は何か伝えたいことがあるようだが、無言で去っていった。

「外れてたぜ。団扇ちゃんの顎」と壺原。

「そうか」

「お前たち、どんどん強くなるなぁ」

「・・・・・・」

「本当惜しいぜ。お前は仕方ない。力能者りきのうしゃは公式試合に出れないからな・・・・・・」

「俺は力能の使い方も知らんけどな」

「お上はそう思ってないよ。力能者は十把一絡げに規制するしかない。だいたい、自己申告じゃボクシング連盟は納得しない。世の中そんなもんさ。お前らの試合が見れるだけで、俺たちは満足だ。それでも元老院までプロにならないとは」

 壺原の方を向く。元老院は力能者ではない筈だ。

「勿体ないだろ? 春一。プロになりたいわけじゃないんだと、元老院は」

「プロボクシングの損失だな、そりゃ」

 元老院なら歴史に名を残すだろうと、春一たちは断言できる。あの少女は天才だ。

「外野がどうこう言っても、だよな。若いモンには将来がある。長ーい未来がな」と壺原。

「お疲れ様でした。壺原さん」

 水を飲んで更衣室に向かう。その春一に壺原が声をかけた。

「お疲れさん。これからもいい試合、してくれよな」

 これからも。

 そうだ。まだ未来がある。ヒーローになってもまたここに来ていいのだ。

 リングが俺を受け入れてくれる。晴れやかだ。


 ジムを出る。膝がまだ震えているが、体中が痛いが、帰ってベッドに倒れるだけの体力は残っている。冷たいコーヒーが飲みたい。

 これで新しい生活、もう一つの戦いの心構えは完璧にできた。春一はそう考える。

 後顧の憂いはない。 

 後は進むのみ。

 どこまでも前へ。

 右肩に衝撃。

「!」

 春一は後ろに倒れる。敵らしき人影はない。撃たれた?

 狙撃されている!

 慌てて屋内に隠れようとする春一に声がかかった。


「ぶゎーーか。ゴム弾だよーん!」


 咄嗟に肩を見れば、出血していない。

 向こうから白いコートを羽織った人物がやってくる。白い傘を持って。

 白いレインコート、白い傘、そして大きなドミノマスク。

 レインマン。打ち倒す者、メジェド。

 春一は混乱する。撃たれる理由が、ない。

 メジェドはヒーローだ。確かに俺は不良だが、大物ヒーローに目をつけられる訳がない。

「このボケナス、果崎春一! 俺が弱いか、見せてやるぜ!」 

 その声に春一は驚愕した。馴染みのある声。

「勇なのか!?」

 メジェドは傘の先を春一に向けた。まるで銃を向けるように。

 いや、ように、ではなくその傘が改造銃であることを誰もが知っている。

「顔は見せられねぇがなあ、その通りだよ。俺はお前の親友、心の友、幼馴染、ベストフレンドフォーエバー、一心同体マン、お前に絶交された可哀想な美少女さ!」

 明らかに激怒している。別人だ、俺の知る太宰勇とは。

「蜂の巣に・・・・・・はできねぇが、泣いて謝るまで撃ちまくってやるぜ、果崎春一ぉ!」


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