第40話 さらば故郷よ、青春よ

 クリスマスが過ぎ、大晦日が過ぎ、お正月が過ぎた。


 年末年始といえばイベントが目白押しだが受験生にとっては勝負の一ヶ月間である。一月の中頃にはセンター試験を実施し、その結果を鑑みて国公立大学の出願や試験対策を行う。そして二月の頭には国公立の試験が実施される。私立も同じ頃だ。そのためおちおち正月ボケもしてられないのが普通だ。

 しかし推薦入学を確定させた僕にはどこ吹く風だ。年末はばあちゃんが作った年越し蕎麦を食べ、正月はばあちゃんと母さんが作ったおせちを食べまくり、お笑い番組を見てダラダラ過ごした。おかげで二キロも太ってしまった。


 小夜子ちゃんとの関係は相変わらず良好でラブラブだが、この頃は少し距離が出来てしまった。というのも温和な小夜子ちゃんも受験直前のため流石にピリピリムードでデートどころではないからだ。まともに二人の時間を楽しんだのは三ヶ日明けの初詣だけ。一緒に勉強してみたりもしたが、両者の間には明らかな温度差が生じて空気が悪いため、僕はあえてそっとしておくことにしたのだ。


 二月になると僕もいよいよ忙しくなった。一月の終わりに大学から課題が送られてきた。送られてきたのは数学――解析学と線形代数と確率論――なのだがこれが腰を抜かすほど難しい。高校までの数学の勉強が問題を解くことが主だったのに対し、大学から求められたのは『概念の十分な理解』だ。『次元とは何か』『共分散の定義は』『そもそも関数とは』など難解な理屈を教材から吸い上げて頭に叩き込まなければならない。

 また同時期に僕は母さんと再び横浜を訪れ、新居探しを行った。契約したのは京急線沿いの築年数四〇年余りのボロアパートだ。最寄り駅まで歩いて十五分程度、家賃はひと月三万円弱とリーズナブルなワンルームだ。学費は片親のため減免制度の対象になり、財源は両親が積み立てた学資保険を元に賄われる。また推薦入試合格の称号のおかげで給付型と無利子貸与型の奨学金を受け取れる手筈だ。経済的な課題は解決したものの、仕送りはしてもらえないことになっている。足りない分はアルバイトで稼げと釘を刺されていた。家賃を極力抑えたのはそれ故だ。


 そしてその頃、小夜子ちゃんは長崎大学の前期試験を受験した。緊張した面持ちの彼女に試験会場のキャンパスまで付き添い、送り出した。なんとなく、大丈夫そうな気がした。


 *


 三月中下旬。

 高校を卒業し、大学生になるまで残り十日間の頃。僕は長崎駅にスーツケースを転がしながらやってきた。中に入っているのは二日分の着替えと歯ブラシなどの日用品、それから暇潰しの道具。この日、僕はいよいよ横浜へ出立する。いや、帰ると言うべきか。


 出発の日は先行きの良い晴天とはいかなかった。どんよりとした灰色の雲に空は覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。


 駅構内のみどりの窓口の入り口を目指し、スーツケースを引っ張る。そこで待ち合わせをしている。目標を見つけると同時にすぐにその人物の顔を認めた。


「よ、赤木」

「おっす、航太郎。お別れ会以来だな」


 窓口の自動ドアの側に立っていたのは赤木だ。隣には青葉と戸塚もいる。彼らは僕の出立を見送ってくれることになっていた。


「航太郎、お前髪染めたんな」


 青葉が僕の頭髪を見ながら少し驚いた。彼の言う通り、僕は昨日美容室へ行って髪をアッシュグレーに染めた。大学デビューというやつだ。


「格好良いだろ?」

「あぁ、似合っとる。俺も染めよっかな」

「俺も俺も」


 にひひ、と自慢する僕を褒めそやす青葉と同調する戸塚。赤木もそうだが、二人も四月からは大学生だ。


 青葉は長崎大学の薬学部へ進学し、薬剤師を目指すつもりだ。戸塚は福岡県宗像市の福岡教育大学へ進学し、学校の先生を目指すらしい。

 そして赤木は小夜子ちゃんと同じく長崎大学に進学した。工学部で電子工学を専攻する。


「冬木は?」


 赤木が辺りを見渡しながら尋ねた。今日は小夜子ちゃんも来ることになっているがまだ姿はない。約束の時間まで余裕があるから、到着はもう少し先だろ。例によって遅刻するだろうし。

 そして案の定、小夜子ちゃんは五分遅刻した。


「ごめーん、遅くなった!」

「遅いぞ、冬木」「五分前行動大事」「罰金五百円」


 遅刻を詫びる小夜子ちゃんと、唇を尖らせる男性陣。小夜子ちゃんは眉をハの字にしながら三人に詫びを入れた。まったく寄って集ってみっともない。


「へいへい坊や達、ダメだぜ。レディの遅刻をとやかく言っちゃ。こう言う時は『俺達も今きたところなんだ』ってサラッと流さないと。小夜子ちゃん、今日は来てくれてありがとう! そのトップス可愛いよ。初めて見るね」

「ふふ、ありがとう! 大学の合格祝いにお小遣いもらったから買っちゃった。春から大学に着ていくつもりなんだ。航ちゃんも髪の毛すごく格好良いよ。惚れ直した!」


 僕は彼女いない歴=年齢の友人達に得意になって講釈し、お手本とばかりに惚気てやった。すると小夜子ちゃんは照れ臭そうに微笑みながら両手を広げ、コーデを惜しげもなく披露する。今日の小夜子ちゃんは花柄のシースルーなトップスに黒いタイトスカートとフェミニンで、春らしさと大人っぽさが同居している。


「こ、航太郎……。お前、いつもそんな歯の浮くようなセリフを言ってるのか?」

「さすがおしどり夫婦……」

「千円やるから弟子にしてくれ……」


 赤木、青葉、戸塚は僕達の仲睦まじさを目の当たりにし、慄いていた。学校や部活動の最中は分別を持って彼女とイチャつくような真似は厳に控えていたが、卒業した今となってはもう知ったこっちゃない。


「なははのは! まぁ、三人とも格好良いから大学に行ったら彼女くらい出来るさ! 楽しいキャンパスライフを送ってくれたまえ!」


 小夜子ちゃんを侍らせながら高笑いする僕。ぐぬぬ、と悔しさを噛み締める三人。

 三人は顔とスタイルが良く、スポーツも出来るスター的な男子だ。だが揃いも揃って女子には奥手で、今の今まで恋人が出来たことがないという。男は顔だけではモテないのだよ。ま、合コンなりして頑張れと言っておこう。


 面子めんつが揃ったところで予定通り食事へ赴くことにした。駅ビルに美味しい洋食屋さんがあるとのことなのでランチも兼ねて送別会を開いてくれることになっていたのだ。

 ハンバーグ、ステーキ、オムライス。各々思い思いにランチメニューを注文し、食べながら高校の思い出を語って懐かしんだり、大学への期待に胸を膨らませた。食べ終わってアフターコーヒーを楽しみ、ひと段落したところでお店を後にする。店先で、


「じゃあ、あとは夫婦水入らずで楽しめ」


 と青葉が気を利かせた。


「お、おう……。今日はありがとう」


 改めて気を遣われるとすごく恥ずかしい。さっきは堂々とあんなプレイボーイなセリフを吐いたというのに。


 その僕に赤木は真正面から向き合い、右手を差し出してきた。僕は一瞬呆気に取られたが、すぐに持ち直して手を握り返した。地区大会で金メダルを勝ち取った、大きくてたくましい手だった。


「航太郎、横浜からこっちに来てくれて本当にありがとう。お前とバドミントン出来たから俺は自分に厳しくなれたし、勉強にも打ち込めた。お前の存在があったから成長出来たんだ。横浜に行っても達者でな。たまには帰って来いよ!」

「うん、僕も赤木と会えて本当に良かったよ。見知らぬ土地はすごく不安だったけど、赤木と一緒だったから何事も本気になれた。最高の友達だ。青葉も、戸塚も……寂しくなるよ」


 本心からそう礼を述べた。気持ちを伝えた。


 親が離婚し、母に引き取られて否応なく長崎に来た時、自分の人生が終わったとの極端な思い込みをした。だが実際は強烈な出来事が五月雨式に降ってくる青春の始まりであった。

 赤木とは部活で腕を競い合い、高め合った。

 青葉とは体育でどちらの運動神経が優れているか張り合った。

 戸塚とはお金を賭けてトランプをし、見事にすられた(……これは悪い思い出だな)。


 良いことも悪いこともひっくるめて青春だ。その青春の地、長崎に僕は今日を以て別れを告げる。帰ってこようと思えば帰れるが、過ぎ去った日々には決して戻れない。僕は積み重ねた思い出の日々にお別れを告げ、旅立つのだ。


「赤木くん、青葉くん、戸塚くん。今日は航ちゃんのために来てくれてありがとうね」


 小夜子ちゃんが去ろうとする三人に向けて恭しく礼を述べた。


「うん、また大学でな。会ったら飯ぐらい食おうや」

「元気でな」


 と青葉と戸塚。青葉は小夜子ちゃんと同じ大学だが、戸塚は福岡へ行ってしまう。彼もまた長崎にお別れを告げる日が来る。


「……航太郎のために、か。お前がそれをいうのな」


 ボソリ、と赤木が何かを言った気がした。その表情にはいつになく憂いを湛えているように思えた。不思議に思い彼に尋ねるが、次の瞬間にはケロッとした顔で笑顔を振りまいた。


「達者でな、航太郎!」

「うん、赤木も。小夜子ちゃんに手を出したら承知しないからな!」

「そんな手癖の悪い真似するかよ!」


 僕は最後に笑いながら冗談半分に釘を刺す。

 三人は並んでこの後の予定をどうするか話しながら去っていった。


 *


 駅から長崎空港まではリムジンバスで向かう予定だ。そこから羽田に飛行機で飛べばあっという間に生まれ故郷だ。


 空港のロータリーにリムジンバスが滑り込んできた。係員にスーツケースを渡してトランクに収めてもらうが、僕はすぐに乗り込まず小夜子ちゃんと最後の言葉を交わすことにした。小夜子ちゃんの見送りもここまでだ。


「メール、いっぱいするね」

「うん、私からもする」

「夏休み、こっちにおいでよ。横浜とか東京とか、二人でいっぱい観光しよう」

「うん、必ず行く。アルバイトして旅費を貯めとくね」

「じゃあ、ホテルの代わりに僕の部屋に泊まる? 宿代節約出来るし」

「もう、航ちゃんのえっち」

「あう」


 下心はあった。高校を卒業し、小夜子ちゃんの進路も確定すると急に不純異性交遊への恐れが消え、無性に彼女の身体を本能が求めた。だがお互い実家暮らしな上、気持ちやタイミングが合わずあれ以降肌を重ねることはしていない。


 係員が出発を告げた。最後にキスをして、僕は後ろ髪を引かれる思いで彼女に背を向けてバスに乗り込んだ。リムジンバスは空いていたのでバス停側の席を取り、窓から顔を出して彼女の顔を見つめた。


「小夜子ちゃん! 改めて大学合格おめでとう。大好きだ! 赤木達がいるだけじゃ、きっと高校生活は楽しくなかった! 君がいてくれたから、勉強も部活も頑張れた! 君がいなくちゃ何も楽しくなかった! 本当にありがとう! 大好きだ!」


 いよいよバスが出発するとなると、気持ちが揺れ、爆発した。涙を流しながら窓の外に向かって叫んだ。道行く人達が微笑ましそうに笑っているが、構うもんか。今、彼女に上げられるのは言葉だけしかない。無尽蔵に湧いてくる気持ちを、言葉に乗せて送りたかった。


「私もだよ、航ちゃん! 航ちゃんは私の自慢の彼氏だよ! 一生懸命練習する航ちゃんにふさわしい彼女でいたかったから私も練習を頑張った! 受験勉強を頑張ってる航ちゃんにふさわしい女の子でいたかったから、私も勉強を頑張った! 一緒に行けなくてごめんね! でも必ず会いに行く!」


 小夜子ちゃんも負けじと叫んだ。ボロボロと涙を流し、眼鏡を取って拭うがそれでも溢れ出してくる。それが呼水となって僕の目からも滂沱の如く涙が流れ出した。


 バスのエンジンが唸りを上げ、大きな車体を前進させ始める。ゆっくりと動き出し、ギアを上げて、間も無くスピードを上げ始めた。

 立ち尽くし、手を目一杯に振る小夜子ちゃんに僕も窓から身を乗り出して手を振る。

 横浜から長崎へ引っ越す時、これほど辛いお別れはなかった。その振られる手を握って一緒に連れて行きたいと思うような、あるいは繋ぎ止められたいと思うような人はいなかった。その事実で僕にとって冬木小夜子という女の子がいかに大きな存在であるかが自覚される。


 小夜子ちゃん。何があっても僕は君を好きでい続ける。

 また会う日を楽しみにしているよ。

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