旅路

草笛あつお

  

 

『君の情熱によって失うものは何もない。だから迷わず突き進め』


 これは子供のころ、一度だけ父さんに読んでもらった死んだ祖父が書いた宇宙から地球に来訪する旅人の物語のとあるセリフだ。

 当時の僕には書かれている内容が難しすぎて、ほとんど覚えていないが、それがきっかけで僕は子供の頃から小説が好きになった。

 作中に登場する宇宙からの旅人は男女の二人だが、その二人が恋人同士だったのかはわからない。

 けど、作中に登場する人物に惹かれたのは確かだった。

 静寂に包まれた夜の中で、星に向かって何度手を伸ばしたことだろう。

 手を伸ばした先のあの星にあの物語の登場人物が住んでいたらどんな人物だろうか。

 宇宙には未知の世界が広がっている。

 いつしか、宇宙に行くと、自分の知らない世界が広がっているのではないかと思うようになった。

 宇宙空間は無重力。初めて理科の授業で宇宙のことをそう学んだ時、胸のときめきは止まなかったことを覚えている。

 その日興奮を抑えられなかった僕は動画サイトで初めて、人類が月に降り立ったアームストロング船長を乗せるアポロ11号のことを知り、たくさんの宇宙のことを学んだ。

 宇宙は地球と違い、空気がない。それどころか、宇宙は無限に広がっている。どこまでも。どこまでも。それは僕の想像が及ばないぐらいに。

 だが、宇宙とはそんな世界だけではなく、僕らの住むこの地球も含まれている。

 そう。人との出会いも宇宙のひとつなのだ。


 そう。人との出会いも。


 *******


 「ちょっと! 何とか言いなさいよ! 急に別れたいってどういう意味よ?」


 たどたどしく喋るアナウンサーの今日のニュースが告げられる中、リビングでは殺伐とした空気が流れていた。


「私が納得できるように説明して!」


 リビングで僕と彼女は向き合って立っていた。


 彼女の顔に笑顔などない。相手の表情に、はりついているのは怒りと悲しみと戸惑いの籠った険しいものだけだ。


 殺気をあらわにする彼女は僕に鋭い視線を向ける。 


「ごめん…」


「ごめん…ってそれだけ? 私たちの関係ってそんなものだったの?」


「ごめん…」


 僕がそう言うと、彼女は悔しそうに唇をかんで、何も言わず部屋を出て行った。


 遅れて玄関が強く閉められる音が鼓膜を激しく叩く。


 仕方ないのだ。こうすることしか僕には思い浮かばなかった。


 彼女が散らかしていったものを片付けて、僕も原稿用紙を持って外に出た。


 ******


 外に出ると、僕は空を見ながら多摩川の河川敷をブラブラと歩いていた。外の空気を吸ってリフレッシュしたかったのもある。


 丸子橋が見えるところまで来ると、僕は適当に腰を下ろして、橋の向こうを見つめた。


 ここの夕方に吹く風がとても気持ちよく、いつも僕は丸子橋が見えるところまで来る。ここから見る夕方の景色がとてもきれいなのだ。昼間と夜の隙間。町の向こうに真っ赤な太陽が消えていき、ビルの光に彩られた夜景に変わっていく、時の移ろいが僕は好きだった。


 だがそれでも僕の心は落ち着かなかった。


「はぁ」と僕は大きくため息を吐くと、ふかふかの草むらに寝そべって空を流れる雲を見つめた。


 雲は相変わらず今日もノロノロと動き、僕の頭上をゆっくり過ぎ去っていった。


 僕は彼女のことを思い浮かべた。


「結婚式はどこでする?」


 うれしそうな顔をして、僕に何度も同じことを言ったことを思い出す。


 そういえば、あの時はその言葉がうれしくて、ついつい朝まで小説を書いていたことを思い出した。


 僕は顔を何度か振りかぶって、手に持っていた書きかけの原稿用紙を目の前に掲げた。今は趣味で書いている小説のことだけを考えよう。今はそれだけしか、僕の苦悩を忘れさせてくれることはできないと思った。


 もともと僕が小説を書くきっかけになったのは祖父の残したあの小説だった。あの小説のように人を魅了させるモノを作ってみたかった。


 だがどれだけ原稿用紙に目を走らせても、文字が頭の中に浮かんでこなかった。


「あ~…。ダメだ…」


 草むらの上で大の字になって、大きく溜息を吐く。もう一度、丸子橋の方に視線を向けた。夕焼けの中に浮かぶ街並みは徐々に夜の中に溶けていこうとしていた。


 やはり僕には祖父のような小説は書けそうにないのだろうか。あの…人の心を突き動かすような。


「ここからの景色ってキレイですね」


 声のしたほうにゆっくり顔を向けると、そこには二人の男女が立って、僕と同じように丸子橋の景色を見ていた。


 滑らかな容姿に、甘い瞳を持つ美女。


 恰幅がよく、背の高い、好青年の男。


 声をかけてくれた女性は僕の方を見て、優しく微笑んだ。


 すぐに起き上がって、「あ…えっと…僕もここからの景色がとても好きなんで、よくここに来ますよ」と戸惑いを隠せなかった。


「そうなんですか。ところでお一人ですか?」


「え? ええ…。まあ…その…。一人です」


 僕がそう言うと、「なんか落ち込んでいらっしゃいますね」と男性が言った。


「え?」


「よろしければ私達に何があったか教えて頂けませんか」


「なぜ僕が落ち込んでいるとそう思うのですか?」


「あなたの顔がとても苦しそうにしていらっしゃいましたので、そう思っただけです」


「苦しそう?」


「ええ…。とても」


 男性は僕の心を見透かすように僕の顔を見つめた。


 なぜだろうか。僕はこの人たちに今の自分の心境を話したくなった。


「実は…両親が僕たちの結婚に大反対なんです」


「詳しく教えて頂けますか?」


 僕は自分の結婚のことについて簡単に話した。


 両親は僕の今の彼女のことが好きではなかった。いや、正確には彼女のことが嫌いなわけではない。理由はほかにある。そう。彼女の両親に問題があるのだ。彼女のお父さんが会社の資金を横領していたことが、発覚して警察に捕まったのだ。結婚の話もとんとん拍子に進んでいたのに、それが原因で彼女との結婚を認めてくれない。彼女は関係ない。けどここまで僕を育ててくれた親のことを考えると。


「あなたは彼女さんのことを愛していないのですか?」


 男性の口調に少しきつい印象を覚えた。それもそうかもしれない。この人からしたら、愛していたはずの大切な人を僕は簡単に切り捨てているように見えるだろう。


「こればっかりは、僕にはどうしようもできないです…」


 僕がそう言うと、沈黙を保っていた女性が僕の右手に持つ、原稿用紙を指さした。


「ところでそれは何ですか?」


「ああ。これですか? 僕が趣味で書いている短編の小説です」


「小説? よかったら見せてくれませんか?」


「え? いいですけど。面白くないかもしれませんよ」


「かまいません。あなたの書く小説に少し興味がわきました。いえ…なんというか…ここにあなたの気持ちが表れているように感じたのです」


「僕の気持ちが表れている?」


「あなたはどういった時に、小説を書くのですか?」


「それは…」


「質問を変えましょうか。あなたは小説を書こうと思った時、どういう気持ちでいらっしゃいますか?」


「気持ちですか…。書こうと思った時は、何かが心に響いた時が多いですかね」


 僕は近寄ってきた女性に原稿用紙を渡した。


 しばらくの間、その場に沈黙が流れる。


 そして…。


「独創的に書かれていますね」


「ははは。面白くないですよね」


 僕は照れながら、僕は頭をかいた。


「いえ。そうではありませんよ。一つだけ感じたことがあります」


「何を?」


「この小説にはを感じます」


「ははは。何度か知人に僕の小説を読んでもらったことがありますが、そんなことを言われたのは始めてですよ」


「率直な感想を私は述べただけですよ」と女性は微笑んだ。


「強いて言えば、どこにそんなことを思わせるところがありました?」


「一読して直感したことをそのまま言っただけなので、どことまでは分からないですが、この小説の主人公は何も失うものは何もないと恐れず。どこまでも迷わず突き進んでいるところに魅力を感じましたね」


「え?」


「あなたは何を望みますか?」


 僕が選びたいものは…。


 *****


 目が覚めると、辺りはもう真っ暗だった。丸子橋の向こうにビルの光で彩られた夜景が広がっていた。空を見上げると、たくさんの星が美しく瞬いていた。


 夢? さっきまでの出来事は夢だったのだろうか。


 周囲を見渡してもどこにもあの二人の姿は見当たらなかった。


 僕は手に持っていた原稿用紙を見つめる。


 いったい何だったのだろう。


 けど…、なぜが自分の中である決心がついていた。


 *****


 あれから流れるように月日が流れていった。


 秋風によって生まれる心地よい葉擦れの紅葉の秋。


 雪の妖精が舞う、何もかもが白い衣に覆われる冬。


 そして、冬の終わりを告げるように、新たな命の産声が聞こえる春。


 僕は会社を辞め、両親の反対を押し切り、彼女と新たな生活を始めた。


 誰の邪魔も入らない生活を。


 新しい新居のベランダに出ると、「本当にこれでよかったのかな?」後ろから彼女が声をかけてきた。


「いいさ。したいようにするよ。悔いの残る人生なんてまっぴらごめんだ」


 僕がそう言うと彼女は優しく微笑んだ。


 彼女が僕の右手にそっと指を絡めてきた。そして同じ街並みを見る。


 まさにこれが僕の望んでいた道だった。

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