【漫画原作】ある恋のお話『傷だらけの侯爵と黒衣のワケあり女テーラーが恋したら』~A Love Story~

スイートミモザブックス

プロローグ わたしは死を選ぶ

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1807年、イングランドのシュルーズベリ伯爵領。

15歳の伯爵令嬢シャーロットは、馬車の事故で両親を失った。

ロンドンからおじが駆けつけたが、葬儀の夜、おじの連れてきた客人に襲われる。

城の外へ逃れたシャーロットを待つ運命は――。


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         1807年7月

         イングランド ケント州 シュルーズベリ伯爵領


 土と、砂利と、草の感触が次々と素足に伝わってくる。ときおり痛みが走るけれど、足の裏を確かめるひまもない。

 はあ、はあ、はあ。

 どうして? どういうことなの? わからない。でも、逃げなくちゃ。

 城の外は真っ暗だった。裏口から飛び出して、とにかく木々のあいだを走った。

 ふくらはぎにナイトドレスの裾がまとわりついて走りづらい。

 でも足を止めるわけにはいかない。

 後ろからばたばたと重い足音が迫り、シャーロットは木立ちを抜けて、ひらけた場所に出るしかなかった。

 その先にあるのは、切り立った崖――。

 ドーバー海峡を臨む岬の端に、この城は建っている。

「ミス……シャーロット……」でっぷりと太った男が、息を切らしながら彼女の名を呼んだ。

 さっきまで雲に隠れていた月がゆっくりと顔を出し、月明かりが崖の上を照らし出す。シャーロットの顔も男の顔も、表情がわかるくらいに明るくなった。

「ミスター・ダンカン、いったいなんのつもりですか? いきなりわたしの部屋に入ってきて、あんな――」口にするのもおぞましかった。

 ダンカンというこの男は、ロンドンに住むおじとともにやってきて、今日の両親の葬儀に出席した。

 そして夜も更けたころ、無断でシャーロットの部屋に入ってきて、ベッドで眠る彼女に襲いかかったのだ。一瞬、なにが起きたのかわからなかった。急に体が重たくなって、左の首筋になまあたたかい息がかかって、湿った感触が……シャーロットはぞくりとし、思わず指先をそこにあてがった。

 左の首筋、耳の下あたりには、ほくろが3つ並んでいる。3つも並ぶなんて珍しいと、家族でもよく話をした。おまえのチャームポイントだね、と両親は言ってくれた。なのに、あんな男の唇がそこに……。なんとも言えずいやな感触だった。こわかった。

 もちろん彼女はとっさにもがき、起き上がろうとした。でも大きな体で押さえつけられ、肉付きのいい手で口をふさがれ、ナイトドレスの襟を引っ張られて肩がむき出しになって――。

 恐怖に飲み込まれそうだった。とにかく暴れて腕を振り回したら、枕もとの水差しに手が当たった。とっさにつかんで男に投げつけ、相手がひるんだすきに逃げ出したのだ。

 いま気づいたけれど、ナイトドレスの襟が少し破れている。

「なんのつもりもなにも――おまえはもうわたしのものだ。自分のものをどうしようとわたしの勝手だろう、ミス・シャーロット。そうだな、グイド?」ダンカンが斜め後ろに目をやった。

 少し遅れてやってきたおじのグイドが、そこに立っていた。

「えっ?」シャーロットはそちらに顔を向け、目をむいておじを見つめた。「おじさま? どういうこと? この人はなにを言ってるの?」混乱した頭で、それだけ言った。まったく状況がつかめない。

 いつもやさしい細おもてのおじの顔に、ゆっくりと下卑た笑いが浮かんだ。ほんの半日前には、突然両親を亡くしたシャーロットと弟のクリストファーを親身になぐさめてくれていたのに。

 これは、いつものおじじゃない。ときおりロンドンから小さなおみやげを持って訪ねてくるおじは、いつもお父さまやお母さまとにこやかにおしゃべりして……。

「かわいい、かわいいレディ、、、・シャーロット」グイドは先ほどのダンカンの呼びかけを訂正した。まったく教養のない男だ。良家の子女を食い物にしているくせに、少しは勉強すればいいものを。だが、そういう男だからこそ、わたしの力が必要なんだ。「ミスター・ダンカンはかわいいおまえが気に入ったんだそうだ。おまえももう十五だろう、立派に男の相手が務まる年だ」グイドはにんまり笑った。

「それだけの器量があれば、いくらでも金を出す男がいる。黄金色の髪にすみれ色の瞳、真っ白な肌の若い貴族の娘なぞ、そうそう手に入らないからな。ミスター・ダンカンはロンドンだけでなく大陸や異国にもいいツテを持っているから、さぞやおまえの値を吊り上げてくれるだろう」

 シャーロットは自分の耳が信じられなかった。おじはなにを言っているの?

「男の相手? それはいったいどういうこと? なにをおっしゃっているのかぜんぜんわからないわ、おじさま」

 グイドは小さく吹き出した。「これはおぼこいことだ。まあ、おまえのような娘が知らないのも無理はないか。だが男を悦ばせる手管なぞ、すぐに覚えられる。このミスター・ダンカンが仕込んでくれるさ。いや、なにも知らない生娘のほうが、いたぶりがいがあって喜ぶ男もいると聞くが」

 シャーロットの顔から血の気が引いた。具体的なことは想像もつかないが、さっきダンカンにされたようなことだということは、なんとなくわかった。

「そ――そんな――そんなこと――お父さまやお母さまがお許しになるはずがないわ!」

 グイドは、くくっと笑った。「ロイズもエマも、もういない。ロイズ兄さんのおかげでおれがどれだけ貧乏くじを引いてきたか、おまえにわかるか? 目の上のたんこぶっていうのはああいうことを言うんだ。どうにかしてやりたいと、ずっと思っていたよ」

「どうにかしてやりたい……?」シャーロットの目が大きく見開かれた。「まさか……まさか、おじさま……」シャーロットは口を両手で覆い、後ずさった。

「ああ、そうさ、やっと消えてもらった。馬車で出かけるという機会を狙ったが、うまくいったな。夫婦そろって一瞬で天国に行けたんだから、そう悪い話じゃないだろう。わたしにだって慈悲はあるのさ」グイドはさもおかしそうに笑った。

「どうして……どうしてそんなことを……? おじさまはずっと、あんなにやさしかったじゃない……」信じられないと言いたげに、シャーロットは何度もかぶりを振った。

「この世で大切なのは金なんだよ、お嬢ちゃん」ダンカンが額の汗をぬぐいながら言った。「おまえのやさしいおじさんは借金だらけでな、どうにかして金を工面しないといけなくなったのさ。となれば、ここの土地やおまえで金をつくるしかないじゃないか。グイドからおまえのことは聞いていたが、実際に見て驚いたよ。これほどの上玉とは……その首筋のほくろもまったく男心をそそるもんだ。生娘のまま高く売りつける手もあるが、それも惜しい。まずはわたしが楽しんで……」

「ばかなことを言わないで! だれがそんなこと……そんなことが許されるわけがないでしょう!」シャーロットはナイトドレスの胸元をぎゅっと握って叫んだ。

「おまえにはもうどうしようもないさ。ロイズもエマもいないんだ」グイドが現実を突きつける。

「クリスが……クリストファーがいるわ! 次はあの子がシュルーズベリ伯爵よ!」

「ああ、まったくいまいましいことにな」吐き捨てるようにグイドは言った。「だがクリスはまだ十歳の子どもだし、あのとおり病弱だ。いくらでもやりようはある」グイドはどうだとばかりに眉をくいっと上げた。

 おじの言わんとするところを察して、シャーロットは青ざめた。

「やめて! あの子をどうするつもりなの? あの子にひどいことをしないで!」シャーロットは叫んだ。

「もはやおまえが心配することでも口を出すことでもない。さあ、いいから早くこっちへ来い」グイドが一歩前に足を進めた。

「いや! 来ないで! 近寄らないで!」シャーロットはじりじりと後ずさった。

 大きな男とやせた男が威圧するように少しずつ近づいてくる。シャーロットは後ろを振り返り、広がる暗闇を目にして泣きそうになった。足元には、もう地面が二十センチもない。絶体絶命だ。この暗さでは下の海面もはっきりとは見えないが、この崖がゆうに二十メートルの高さがあることを彼女は知っていた。

「そう意地を張るもんじゃない。いい加減にしろ。なにも殺そうと言ってるわけじゃないんだ、おまえ次第でぜいたくな暮らしができるかもしれないぞ」諭すようにグイドが言う。

「しらじらしい。お父さまとお母さまを殺しておいて、よくもそんなことが言えるわね、この人でなし!」シャーロットは強いまなざしでおじをにらみつけた。

「なんだと! 下手に出ればつけあがって。手間を取らせるな。こうなったら実力行使――」グイドはシャーロットにつかみかかろうと前に出た。

「来ないで!」シャーロットが絶叫する。その剣幕に、グイドの足も思わず止まった。「あなたたちの思いどおりになんかならないわ! その汚らしい手でさわらないで。あなたたちに穢されるくらいなら……わたしは……!」

 あっという間だった。

 シャーロットは身をひるがえし、地面を蹴った。ナイトドレスの薄布がひらりと舞って、グイドとダンカンの視界から消えた。

 ふたりは思わず崖の縁に駆け寄って下を覗き込んだが、もはや暗闇から波の音が返ってくるだけだった。

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