第2話 順調にはいかない

 メイプル色の木目調タイルに深みのあるブルーの壁紙。少し暗めに抑えられたLED照明に緑を生やす観葉植物。

 高級感のある内装と落ち着いた空間が共存した完全予約制の美容院、Shall tierシャルティエの二号店では閉店後のミーティングが終わろうとしていた。


「——はい。ということでお話は以上になります。今日のカット練習は修斗くん、陸くん、咲さん、薫さんの四人です」

 現在の時刻は20時。

 本日の仕事は終了したものの、名前を呼ばれたスタッフは残業という名の練習をする。

 これはミスをした、してないに拘らずシフト制のようなもの。


 客の前に立って仕事をするプロ達だが、日々技術を磨いている。美容師にとってこれは珍しいことではなく、恒常こうじょう的なものであり、必要不可欠なもの。

 また、シャルティエは世間的にも珍しい完全個室の店。練習は各個室で行い、困ったこと等あれば別の美容室に聞きにいく、という流れになっている。


「それでは練習する方はもう一息頑張ってください。それでは今日も一日お疲れ様でした」

「お疲れ様でした!」

「お疲れ様でしたー」

「お疲れ様でした」

 店長を中心に、スタッフ一同が輪になる中、長期のヘルプにとして当店に入っている修斗もしっかりと最後の挨拶を交わす。


 修斗が配属され、今日で二週間目。

 新しい職場は本店とさほど変わりなく、周りの雰囲気もピリついておらず、伸び伸びと仕事ができていた。周りの環境にも慣れてきた。


 ——一つだけ問題を残して。



   ∮   ∮   ∮   ∮



「……お、お疲れさまです。乃々花さん」

「うん」

 練習組の修斗は店内の残り、練習用のマネキンと参考雑誌を持って個室のセット台に入ると、もう一人のスタッフが当たり前に入ってくる。


 ふんわりパーマのかかったオレンジのポニーテールに、頬まで伸びた触角。左目の斜め下にある小さなほくろを持つスタッフ。

 人当たりが良さそうで、優しげな容姿をしている彼女は二つ年上の女性美容師。

 彼女は一ヶ月間、修斗の面倒見役になっている七咲ななさき乃々花ののかだ。


 彼女は今日残業が入っているわけでもなく、残業に付き合うことを強制されているわけでもない。

 さらには「そんなに気を遣われなくとも大丈夫ですよ……?」なんて声をかけたこともあるが、首を振って最後まで付き合ってくれる先輩である。


 ここまで聞けば『いい先輩だ!』『しっかりしてるなあ』『優しいな!』と思うだろう。

 だが、実際そうとは言えない。

 乃々花の表情は普通ではない。ムスッと不機嫌な顔を作ったまま崩すことをないのだ。


「ほら、修斗くん。早くしないと時間もったいないよ」

「あっ……はい」

 硬直して彼女を見ていると、冷たい声ですぐに注意をしてくる。

 少し関わりづらい先輩。本心を言えばその通りで、世間体にはよくあることかもしれないが、それだけの話ではない。


 乃々花は客やスタッフにとても優しく、大らかな性格で、親しみやすい。いつも明るい笑顔で場を明るくしているムードメーカー的な存在。

 だが……修斗に対してのみ、この素っ気なさに抑揚のない声で対応してくるのだ。

 それはまるで日頃の八つ当たりをしているかのように。

 これが自分の抱えている悩みである。

 スタッフ全員に対してこの態度ならまだしも、差別されているのは目に見えてわかること。


「……」

「……」

 個室に乃々花と一対一。その間、会話はない。

 聞こえるのは修斗がハサミを動かす音に髪が切れる音だけ。

 一つ不思議なことは練習中、ガミガミ言ってくることはないのだ。もちろん横槍を入れてくることも、妨害をしてくることも。

 ただムッとした顔で観察してくるだけ。


「……あ、あの、乃々花さん」

「なに?」

 無視はせず、返事もくれる。


「えっと、いえ……。なんでもないです」

「そう」

「……」

 しかし、こんな態度は自分にだけしか見せないもの。

 じゃあ日頃の様子はどうなのか? と問われたら修斗は見たままを応える。


 他のスタッフに対しては——こうである。

『あの、乃々花さん』

『うんっ? どうしたの』

 さくらんぼ色の瞳を大きくさせ、柔らかい笑顔を浮かべながらコテリと首を傾げていた。

『えっと、いえ……。なんでもないです』

『んー? なんだいなんだい?』

 眉をピクピクさせながら面白そうに顔を覗き込んでいた。

 この通り、態度が違うのは明白。


 出会って日が浅く、先輩という立場であるばかりに『どうして自分にだけそんな態度なんですか?』なん聞けない内容。

 聞く勇気が出ないというのが大多数の意見だろう。修斗もこちら側。


 乃々花がなにを考えているのかは全く掴むことができない。

 日頃の様子を見ているだけに、差別を受けている側だがそんなことをする性格だなんて信じることはできない。


「…………」

「…………」

 そうしてモヤモヤした時間を今日も過ごし、ムッスとした表情でプレッシャーをかけられる中、なんとか残業を終えることができた。


 この態度は翌週も続く。答えの見えない攻撃を隙間なく浴びせられ続け、精神的に疲れが出てき始めた頃——。


 修斗は台風のような彼女と出会うことになる。

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