木下 礼(31歳・会社員)

 日曜日のチープな居酒屋には、客たちの青春を呼び起こそうと懐かしい90年代の音楽が流れている。

 テーブルの上には、空になったビールジョッキが4つ。随分前に追加注文をしたが、新しいものはまだ運ばれてこない。

「忙しそうだね」

 私の向かいの席に座る真奈美まなみが店内を見回しながら呟いた。

「ここの料理、全部美味しいから人気なのよ」

 そう言って、真奈美の横に座っている小百合さゆりが穏やかに笑った。

 相変わらず上品に笑うな、なんて、私はぼんやりと思った。

「すいませーん」

 突然、隣で大きな声がして驚くと、恭子きょうこが片手を上げて店員を呼んでいた。

 私はその姿を眺めながら、一人で笑ってしまった。

 心配性の真奈美、いつも穏やかな小百合、そして、誰よりもせっかちな恭子。

 高校時代いつも一緒にいたメンバーだ。みんな昔と全然変わらない。

 卒業してからはそれぞれの道を歩んでいるが、どんなに忙しくても都合をつけて、こうして集まってお酒を飲んでいる。

 年を重ねる毎になかなか全員の都合を合わせる事が難しくなり、今年はもうこの1回きりだろうな、と私はひそかに思っていた。

「ねえ、あれから仕事はどうなったの?」

 恭子が店員と話している間に、小百合は少し首をかたむけながら私に聞いてきた。

「あー……」

 私は言葉に詰まってしまった。そういえば、一週間ぐらい前にグループラインで愚痴っていたのを思い出した。

「どうにもなってないよ、相変わらず忙しいばっかり」

 私は苦笑しながら、肩をすくめてみせた。

 小さな印刷会社に勤めて3年。人件費削減という鬼の所業のおかげで、営業兼事務という意味の分からないポジションについている。

 何をするのか? 簡単だ、何から何まで全て自分でしなければならないのだ。

 朝9時から始まり、退勤するのはいつも23時を過ぎてからで、そんな日々がずっと続いる。

 加えて、最近では経理も少し出来ないか?と聞かれて気が狂いそうになり、グループラインで愚痴ってしまったのだ。

 いくら上に掛け合ってみたところで、最終的には「君なら出来る」と言われるばかりだった。

 君なら出来る。何度この言葉を聞いただろうか、大学を卒業して就職した会社でも、転職した次の会社でも、みんな口を揃えたように決まってそう言うのだ。

「ちゃんと休めてる? そのうち身体壊すよ」

 真奈美が心配そうに眉をハの字にしている。

「あんた責任感が強いから、どうせ、ついついやっちゃってるんでしょ?」

 恭子が大きなため息をつきながら、話に入ってきた。

 確かに……引き受けたからには最後まで責任を持ってやってきた。厳しい条件であったとしても何とかしようと多少自分の時間や体力を犠牲にしてでもやり遂げてきた。

――それがいけなかったのだろうか。

 何かが胸の内から溢れそうになり、私はやっと届いたビールをぐっと一気に飲み干す。いや、実際には飲み干そうとしたが喉が上手く開かず、まだ半分以上残っているジョッキを静かにテーブルに置いたのだった。

「責任感が強いと言えば、ほら、体育祭の応援パネル!」

 小百合は何か思い出したように両手を叩いた。

「ああ、確かに。あんたあの時から変わんないわ」

 恭子が呆れたようにそう呟いてから、唐揚げを1つつまんで口に放り込んだ。

 応援パネル――各クラスの応援席の後ろに立てる大きなパネルだ。

 高校3年生の最後の体育祭で、美術部だった私はそのパネルの作成を頼まれた。

 幼い頃から絵を描く事が大好きで、あんな大きなキャンパスにえがけるなんて、とワクワクしたのを覚えている。

 クラスの美術部仲間と実行委員の子たちとで話合いを重ねて、案が決まったのは結構ギリギリだった気がする。それでも皆で頑張った。

 朝早く登校し、1時間目のチャイムが鳴るギリギリまでいたし、放課後は皆が帰った後でも一人で描き続ける事もしばしばあった。

 強豪校だとうたわれるバスケ部に所属していた恭子が、部活帰りにまだ私が残っている事に驚いて、無理矢理手を引いて一緒に下校してくれた事もあった。

 でも、あの時は責任感うんぬんというよりは、ただ単に楽しかったのだ。私は無我夢中だった。

 自分の思い描く世界を大きなキャンパスに塗り広げ、多くの人に見てもらえるのだから、張り切っていたのかもしれない。

 思い返してみれば、あんなに楽しくて心から意欲が湧いたのはあの時だけだったような気がする。社会に出てからは1度も体感したことがない。

 どうして忘れていたのだろう。私はいつから絵を描かなくなったのだろうか。

 大学時代は仲間内で同人誌活動をしていた。夏と冬に開催される大規模同人誌即売会――通称コミケ――にもよく参加していたし、就職してからも初めの頃はちょくちょく描いていた。

 しかし、出来る仕事が増えていくにつれて、それがだんだんと睡眠時間に変わっていった。

 帰ってからペンを握る事が億劫おっくうになり、今日はゆっくり休んで明日やろう、という言い訳が徐々に私を甘やかすようになっていった。

 そうしていつしか、私の手にはペンではなく缶チューハイが握られるようになったのだ。

 そう思った途端、急に泣き叫びたくなって、私はもう一度ビールジョッキに口を付けた。

「どっかで見切りをつけないと身が持たないよ、れいの人生なんだから」

 真奈美が真っ直ぐ私を見つめながら、真剣な声で言う。同調するように斜め向かいの小百合も大きく頷いている。

「うん。いよいよヤバくなったら退職届叩きつけてやるんだ」

 少し冗談っぽくおどけてみせると、隣の恭子に肘鉄を食らった。

「普通はヤバくなる前にすんのよ」

――ああ、本当に泣いてしまいそうだ。

「みんな有難う。今日は飲むぞ!」

 なんて、笑って誤魔化した……誤魔化せたはずだ。

 それから、現実を忘れるように4人でとことん飲んだ。

 昔なら4人でベロベロになるまで飲んだが、もう私たちもアラサーだ。みんな終電で帰宅した。

 家に着いてから私が最初にしたことは、カラーボックスの中身をひっくり返すことだった。

 一番底にしまってあったスケッチブックを手にとって、ペラペラとページをめくる。

 強烈に鼻の奥がツンと痛んで顔をしかめた。

 どうと理由を言葉に出来ないが、胸が締め付けられて痛かった。

 ページを捲るごとに記憶が鮮明に頭の中を駆け巡り、やがて、あの時の感情が次から次へと激流のように通り過ぎていく。

 恐ろしかった。私が知らず知らずのうちに諦めてしまったモノたちが私に向かって大声で叫んでいる。

 私はその声をかき消すようにブンブンと頭を振って、ベットに沈み込んだ。

 眩暈めまいがする……きっと酔っているせいだろう。

 生きていく為にはお金を稼がないといけない。お金を稼ぐ為には働かないといけないのだ。

 そうだ、これからもずっと、私は生きる為に働かないといけないのだ。

 明日も仕事だ。またいつものように精一杯、忙しく働かなければならない。

 昔の自分に構っている暇など私にはないではないか。そう自分に言い聞かせて、私はぐちゃぐちゃになった感情に蓋をするようにぎゅっと目を閉じた。

 ああ疲れた、メイク落としもお風呂も、もう明日にしてしまおう……なんて言い訳をしながら。

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