老いた狩人

三屋久 脈

最高の肴

 狩人は老いていた。灰染まる老眼に映したのは今秋になって珍しく芽吹いた青々しいアオハダの葉っぱを食む小さな虫。


 この虫、海月のような透明な皮を被ることで外敵と乾燥から身を守っている。

 こいつが現れているという事は、スマルタの森がもうすぐ雨季になるはずだ。


 スマルタの森に入って一週間、それとも一ヶ月か、もしくはそれ以上が過ぎようとしていた。日々の時間感覚がおざなりになるほど、老いた狩人は獲物を追うことに深く熱中していた。


 褪せた夜を迎えた頃には薪をくべて森林内で露営した。まだ秋になって浅いというのに立派な椎茸が雄々しく群生しているのを湿った倒木に見つけては一際夏が過ぎ去った事を狩人は感じた。


 椎茸は天日干しにし、それを焼いてただ食べるだけだったが立派な大きさだったこともあって、それはそれは食べ応えに不満を漏らすなんてもってのほかだった。


 老いた狩人は目が悪ったため、満点の星空を眺める事は出来なかったが、その肌で夜風をひとしきり感じると設営したテントで秋の長き夜を過ごすのだった。静かに、ただ静かに。


 強靭というにはしなやかで、細身というには筋肉質なその青白い血管の浮いた腕は、他の村のどの狩人よりも男らしかった。その豪腕で薪木を割り、乳白色の油と昨日採った椎茸をかじって朝を過ごす。


 敵は猫科の魔物だった。ユロスという村の村長の娘が不運にも襲われたらしく、依頼は標的の討伐だった。

 それは人の味をしめた危険な魔物を相手取る事を意味していたが、それは老いた狩人にとって自分の身を引き締め、絶え間ない集中と緊張をもたらしてくれる。


 このご時世に魔道具を狩りに使う武器として選ぶ者は多いが、老いた狩人が好んで使う武器は使い古された弓だった。

 それは簡素な造りで、胴には幾重にも古びた包帯が巻かれており、無骨にも上弦を張る為の上関板は鹿の骨を削り出して自身でつくっていた。


 老いた狩人がその弓を握った歳月は、もはや自分の第三の腕となって体に溶けた、と呼べるほどで、視力なんてろくすっぽまともじゃない今でも、空に舞う焚き木が散らした火の粉を射抜けるほどの自信を、弓が狩人に与えていた。


 しかし、軽く数えて二週間は獲物の姿の一つもみえてはいない。

 最初の二三日はまあなんとかなるだろうと、楽な考えに甘えてしまったが、今や自分がスマルタの森林をさすらう亡霊のようで、流石の狩人でも気にめいりが入り始めた。


 本来討伐した後に獲物を乗せるはずの荷車が、カラカラと虚しく回る車輪の音を立てて森の中を駆けめぐる。


 老いた狩人の眉間には幾層もの筋が張っていて、汗が筋を通るたびに段々の粒と合流し、ぽろりと剥がれ、幾千もの年月の狩りで刻まれた、古傷ともしわとも呼べる跡を伝って流れていく。


 そのような跡、もといシミはひとつではない。

 いつできたかわからないが、おそらくは獲物を荷台に乗せる時に挟んでできた黒い豆のような出来物や、こすれてしまってそこだけ色が白く褪せてしまった肘。

 そのどれもが古い傷だ、新しい傷は……いったいいつからだろうか、傷を負わなくなったのは。


 魔力の充電が終わると、六枚の羽根を付けたもうひとつの相棒をテントから取り出し、魔力を流し込んで起動する。


 この魔道具は右腕に取り付けられた手甲と共鳴しており、空に浮かぶように飛んでその目で見た景色を共有してくれる。


 もともとは冒険者がダンジョンストリーミングをする時に使う物だったのだが……時代の進歩という物はいかんせん汎用性が高い。老いた狩人はこの偵察機で獲物を空から捜すのだ。


 老人は小型の偵察機を『天の眼』と呼んでいた。


 秋のスマルタの風景はどれも枯れ葉の茶色と黄色が折り合わさった殺風景な柄だったが、老いた狩人にとってこの中に獲物が紛れているという確信が、右手の手甲に映し出される天の眼の景色に視線を食い入らせた。


 狩人の全身は荒みきっていたが、その闘志が宿る目だけがまるで別の生き物のように獲物を探してはせわしなく動いていた。


 果てしなく続いている獲物探しでいくら疲弊しても、目だけは枯れる事はなく、まばたきも数十秒に一度あるかないかで、水を少し飲んで休憩しては空から獲物探し、休憩しては空から──それを幾度も繰り返した。


 狩人は老齢だったため、ユロスの村の人々は半ば腕を信用していなかった。年配の猟師をあてがわれたとあってほとほとギルドに愛想をつかし、老いた狩人をからかったりした。


 しかし狩人は高潔だった。

「年には勝てん」

 そう一人こぼしながらも、風の流れや森の状態を観察し、次に獲物が何処へ行くのかを考えた。


 いくら村の人々にけなされようとも、心無い言葉に胸を痛めても、決して顔に出さずに狩りの準備を続けた。


 陽が真上に昇らぬうちに、林の中に黒い尻尾が揺れているのを見つけた狩人は、言えもせぬ血の臭いを感じた。


 魔物だ、標的か?


 瞬時にして狩人の瞳は猛禽のような獰猛な眼に色づいた。

 天の眼はどうやら必要なかったらしい。初めてお目にかかるのに二月弱……運がいいのか悪いのか。


 老いた狩人は矢をつがえた。

 唸る短弓を手に握りしめて弓を引き、人差し指を林に隠れた獲物の頭に重ね息を止めた。


 ひとつ、ふたつ……。

──ヒュン。と微かに風を裂いて矢は獲物に吸い込まれた。

 寸前、とてつもない勢いで翻った獣、いや魔物は黒い胴体に赤く尖った耳をしならせてこちらを睨みつけた。


 その形相、悪魔。

 鳥のくちばしのような黒く艶めいた口元を大きく広げて、遠雷が轟くような咆哮を上げる。

 狩人は怯まなかった、二本目の矢をつがえ獲物の右目を狙い、指を重ねて弓を引く。


 踊る影のように右へ左へ、軽快かつ生物の限界を超えた動きで魔物は狩人に迫った。魔物は知っているのだ、左右に激しく動けば狙いが定められないという事を。


 魔物はこれが初めてではないのだ、狩人を狩るのに魔物は慣れ尽くしている。


 一瞬の攻防、黒い残像を弓が射抜いた。


 狩人が放った弓は見事魔物の右目を貫き、顔面の表皮を抉る。

 しかし魔物は止まらなかった、魔物の鋭く尖った爪もまた、狩人の右目に食い込んでいた。


 なだれ込むように互いにもつれ合う狩人と魔物。ぐるぐるとまわりに回って両者上をとろうと相手を押さえつける。


 繊維質な黒い毛皮はあまりにも滑らかで、狩人は爪をたてたがつるつるといまいち掴みようがなかった。

 魔物の爪は目を抉る一方で、視界の右が黒に染まっていく。


 狩人は椎茸をいれていた袋を、咄嗟に魔物の顔に被せる。すると一瞬魔物は大人しくなり、その間に右目から爪を引きはがした。


 ぼとりぼとりと零れ落ちる血の音と、狩人の高鳴る脈が共鳴し、老いた狩人の目はその血の音を聴いているように若返っていった。


 標的に網を被せて、もう一度、今度は魔物の首を狙って至近距離から短弓を絞り、放つ。


 飛んだ一矢、老齢にしてその狩人、ゆうに八十を超える。

 しかし狩猟の腕は一切の衰えをみせず、矢は見事に魔物の喉仏を穿った。


「一つ、大物を獲ったな」


 命のやり取りに勝利し、獲物にとどめを刺した狩人はそう骸に吐き捨てると、魔物の死骸を背負って荷車に乗せた。


 風は一段と強くなった。

 天の眼を回収し、荷車を順調に村へ運ぶ。


 俺が村に帰った時、俺をバカにしていた奴らはどんな目の色をするだろうか?

 荷車には獲物がどっさりと乗っている。

 脊髄が通っている場所から血が吹いていて、くっきりと線を引くように老いた狩人の歩んだ道に赤い軌跡を残していく。


 故郷に帰ったら上等な酒を呑もう、最高の肴が手に入ったんだ。

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老いた狩人 三屋久 脈 @MyakuMiyaku

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