第4話 「彼女①」

 世の中にはどれだけ金を積んでも手に入れることのできないモノが幾つかあるが、その代表格として真っ先に挙げられるのが、「人の心」ではないかと思う。

家や車のような自我を持たない有形物とは異なり、人の心は日常の些細な出来事をきっかけにある種の非論理性を含みながら激しく移ろいやすく、極め付けにその様子は近代のありとあらゆる最先端技術を駆使してでも可視化することは不可能に近い。

 経済的成功者は往々にして、己に接近してくる人間を体や心をも含めて手中に収めたかのような一種の達成感を得ているように思われるが、これは甚だ大きな勘違いであり、自分との親密な関係を求めてくる人間の心理を正しく捉え切れていない。

テレビ画面に映るアナウンサーが人気女優と敏腕経営者の結婚について興奮を滲ませながら報じる様子を傍観しつつ、僕はそんな取り留めのないことを考えていた。


 今現在、僕には2年間ほど交際をしている女性がいる。

彼女が僕に対してどの程度の親密感を寄せているか、つまり、僕がどれだけ彼女の「心」から許しを得ているかという議論は一度脇に置き、僕の方は臆面もなく彼女に心を許していると断言できる。どちらかと言うと、より正確に言い表すならば、僕の心は彼女という存在に「奪われている」感覚に近いと思う。

些か乱暴な表現かもしれないが、これ以外の言葉で僕の心理状態を的確に説明できる手立てはきっとないだろう。


 彼女とは大学時代にアルバイトをしていた喫茶店で知り合った。

そこはマスター(本名は渋沢健二というが店ではそう呼ばれている)が40年以上勤め上げた会社を定年退職した後に1人で開業した店で、7人程が座れるL字型のカウンター席と、マスターが生涯をかけて蒐集してきた膨大な数の書籍やレコードが収蔵された棚が3つ横並びにカウンターのすぐ背後に配置されている。おかげで8畳にも満たない客席はとても狭苦しく感じられ、トイレに行く際には必ず座っている客の背中を激しく擦るようにして細い通路を通らねばならなかったが、これが逆に客同士の関係を親密にさせるのに一役買っていたように思われる。店内には絶えずジャズやクラシックのBGMが流れ、棚にずらりと詰め込まれたレコードの中から好みのものを自由に選んで流してもらえるという粋なサービスを客に提供していた。(これがけっこう常連の間で評判だった)


 彼女は僕よりも1年くらい早くからここで働いており、当時新人だった僕に店のマニュアルや軽食の作り方を親身になって教えてくれた。彼女の説明はいつでも簡潔かつ明快で、何をやっても要領の悪いはずの僕がたった1ヶ月で店の大半の仕事をこなせるまでに成長できたのは間違い無く彼女のおかげである。

 彼女の身体的特徴については右頬の中心部に大きな黒子がある点を除いて、特筆すべき重要事項は一つもない。人に不快感を与えない素朴な顔立ちと160㎝程度の身長、何かの拍子でぽきっと折れてしまいそうな華奢な体つきは映画に登場する主人公の脇役のような控えめな雰囲気を放っており、服装はどこか時代遅れな印象を周囲に与える。

 そのため、言ってしまえばどこにでもいそうな平凡な彼女に対して、中学時代からお前はきっと面食いだと友人から言われていた僕が恋心を抱いてしまうだなんて一種のパラダイムシフトとしか思えなかった。





















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