ケルベロス 零話(仮題)
榎本英太
プロローグ
――――眠い。
それから右手にずっと握っていたそれに視線を移した。本来であればこの先、持つことが無いようなしっかりとした作りのコンバットナイフ。それを見て溜息を吐いた。
「赤がいいか?青がいいか?」
ノイズが混じったような声が聞こえて、前方へと視線を向ける。暗いせいで辛うじて人の形のシルエットだと判別できるものがそこにいた。人の形を成しながらも人ではない“それ”。音もなく現れたそれは、真っ直ぐと立ってた。
「……」
すん。と獅琉は鼻を鳴らす。いつの間にかそこにいる“それ”に動じる様子はない。彼は静かにそれを見据えて、また鼻を鳴らす。目の前にいる“それ”は人のにおいがしない。人ではない。
人ではない“それ”は人を襲う“怪物”
街灯が獅琉の背後に一つあるだけの暗い路地、そこで誰かを襲うなら絶好の場所だろう。そんな場所だからこそ、“それ”は現れたのかもしれない。だが今の彼にはそんなことどうでも良かった。
気だるげな表情でそれを見つめ、獅琉はコンバットナイフのグリップを軽く握り駆け出す。
街灯の明かりも届かなくなる暗いところ、人のシルエットだけが辛うじて視認できるだろうそこへと駆け、コンバットナイフを躊躇いなく横へと薙ぐ。しかしその刃はそのシルエットの右腕の上腕を浅く裂くだけだった。どうやら“それ”はこちらからの攻撃を避ける行動をとるらしい。
獅琉は舌打ちを零しつつもすぐに足を止め、ナイフをのグリップを握り直しながら“それ”と向き直る。“それ”は右腕を切られようと問題ないのか、それとも何も感じないのか、獅琉へと歩み寄り、右腕を持ち上げる。どこから取り出したのか、いつの間にか握られていたナイフで獅琉へと切りかかった。彼は何事もなくそれを上体を軽く後ろへ逸らし、最低限の距離で避け、すぐに離れた分以上の距離を詰める。“それ”の右腕が振り切ったそこへ、獅琉が先ほど浅く切った傷口へナイフの刃でなぞるように正確に切る。それから腹部を蹴り飛ばす。路地に一つしかない街灯の下へと転がる“それ”は漸くその姿をはっきりとさせた。
三日月のような口が書かれた仮面をかぶり、黒色のマントを纏う怪しい男。“それ”は腕を切られても腹を蹴られても何事もなかったように立ち上がる。獅琉が二度も裂いた右腕は皮一枚が辛うじて繋がっているようにだらりと力なく垂れていた。
「――――赤がいいか?」
ぞっと、背筋が凍るような、耳を塞ぎたくなる雑音が混じる声が“それ”から発せられる。獅琉はその声を聞いても表情を変えることなく歩み寄る。
「青がいい、かっ」
「うるさ」
“それ”の声に対しての言葉なのか、左耳を覆う様に片手を当てながら獅琉は呟きナイフを持つ右手を振った。振りかぶるような動作もなく獅琉が放ったコンバットナイフは“男”が言葉を言い切るより前にその首へと深々と刺さる。
首にコンバットナイフが刺さり、後ろへとぐらりと傾き大きくバランスを崩している“それ”に獅琉は右手を上着のポケットに入れながら歩み寄る。ポケットから手のひらに収まる程度の大きさの何かを取り出すとその輪っかの部分に人差し指を入れて引っ掛け、一回転させる。指に引っ掛けたままそれを握ると、それは一枚の鉤爪のような形に変形していた。折り畳み式の独特な形状のナイフだった。
獅琉はそれを逆手に持ち、アクション映画で見るようなナイフの構え方をするでもなくそのまま“それ”の前まで来て立ち止まる。“仮面を被った男”は首に刺さったナイフをそのままにまだ残っている左腕を獅琉へと伸ばす。
「あ、かがっ――――」
首にナイフが刺さりながら、尚も言葉を連ねようとする“男”の左手には取り出した動きはなかったはずなのに、いつの間にか小振りのナイフが握られていた。獅琉はそのナイフを握る左手首を躊躇なく掴み自分へと引き寄せ、伸びたその左腕を膝蹴りで折った。ごきり、と鈍い音が獅琉の耳に障るが表情を変えることなく右腕を動かす。
鉤爪型ナイフの切っ先は“男”の首筋へと沈み、そのまま手前から奥へと鉤爪型ナイフを押し進め、首筋を引っ搔く様に裂く。その途中で首に刺さったままだったコンバットナイフのグリップも左手で掴み、鉤爪型ナイフと同じように“男”の首を更に深く裂く。ナイフが首を通り過ぎ、それと一緒に自分も“男”の横を通り過ぎて背を向ける。背後の“男”は動くことなく、切られた首がゆっくりと支えを失ったように後ろへと倒れ、落ちていく。
「ねむ……」
獅琉はそれを気に掛けることなく、そんなことを呟きまた欠伸をしながら歩く。彼の後ろにいたはずの“それ”は、頭が地面へと落ち切る前に形が崩れ、夜風に吹かれて消えていく。そんな様子を彼は一度も視界に移すことは無かった。
細く暗い路地を歩きながら、鉤爪型のナイフを折り畳み刃をグリップの部分へ収納すると上着のポケットにしまう。左手に持ったナイフはそのままに獅琉は路地を出た。出てすぐに右に折れ少し歩き、路肩に停まっている車へ遠慮なく後部座席側のドアを開き乗り込む。後部座席に座るとドアを閉めた。
「終わった」
運転席に座る男へ何がと言わずに一言そう告げる。男は、ナサリオ・エヴェリーはそれがまるでわかっているように苦笑しながら頷いた。
「お疲れ様」
そう言いながらナサリオは車のキーを回しエンジンをかける。
「人がいないからって、ナイフ剥き出しのまま歩くのはどうかと思うよ」
「……車に忘れた」
座席に置いたままだったナイフケースを手に取ると獅琉は持っていたナイフをそこに納める。それからまた座席に投げ捨てるように置く。座席の背凭れに体を預け、獅琉は運転席に座る男へとちらりと視線を移した。随分と流暢に日本語を話すが日本人ではない。北米の何処かと言っていたが獅琉は覚えていない。しかしクリスチャンだということは覚えている。いつも十字架のネックレスを首にかけているからだ。
「今回は何の怪物だったんだい?」
「……多分、“赤マント”」
窓を開けて夜風に当たる。暗がりに居た“それ”
人ではない、それは人を襲う。“怪物”と呼ぶそれはどうしてかこの町に現れる。
「“赤マント”……『赤色と青色』のどちらかと問う都市伝説だったかな」
「“赤”は血塗れになって殺される。“青”は全身の血を抜かれて殺される。出会った時点で詰んでる」
「都市伝説って大抵そんなものだね」
悲しいことだ。とナサリオは言っているが本当に思っているのかわからない。獅琉はため息を吐くと上着のポケットから煙草を取り出してその一本を口に咥えてライターで火を点ける。
「煙草やめるようにと言っているだろう」
ナサリオの咎める言葉も気にせずに吸った煙を吐き出す。煙草から昇る煙とは違う色の煙、それは開かれた車の窓から外へと流れるように出て消えていく。
「……煙草を吸う人が煙草をやめろってどうして言うんだろうね」
「それは、自分がその危なさを知っているからさ。やめられないことも、どれだけ体に悪影響を受けているかも知っている。だから、そうなってほしくないから吸ってはいけないって言ってしまう」
「俺もいつか言うようになるわけ?」
「君がこれから先、煙草を吸っていればね」
ナサリオはアクセルを踏んだまま片手を後部座席に座る獅琉へと伸ばし、口に咥えていた煙草を奪い取る。獅琉は煙草を盗られたことも、運転中の行為に関しても特に咎めることなく、その動作を眺めていた。ナサリオは奪い取った煙草を車内に取り付けた灰皿に捨てることなく、流れる動作で彼はそれを自分の口に咥える。そのまま煙を吸いながら、運転席側の窓を開けてから煙を吐き出す。
「獅琉が煙草を吸う理由って何だったっけ?」
「魔除け」
「ああそうか。でも今年一年ぐらいはやめたらどうだい?」
灰皿に煙草の灰を落としまた口に咥えてハンドルを握る。
「明日から新学期だろう。高校最後の一年ぐらい、人らしく過ごしてみたらどうだい?」
「人らしく?」
「そう。高校生らしい……うん、言ってて難しいな。とりあえず友達とか作るとか。遊んでおいでよ」
「……」
ナサリオからの言葉に獅琉は少し悩むように視線を窓の外へと向けた。それから少しの間の沈黙の後、彼は小さく口を開く。
「考えとく」
彼にしては随分と素直に言うことを聞くことにナサリオは思わず笑ってしまう。「なんだよ」と眉間に皺を寄せる獅琉に「なんでもない」と返し、短くなった煙草を今度こそ灰皿へと押し潰して捨てた。
煙草の残り香も開け放たれた窓から消えていく。
「ナサリオ」
彼は静かに男の名を呼ぶ。
「なんだい?」
「“人らしさ”ってなんだろうな」
「……自分で言ったはいいものの、僕でもわかっていないよ。僕達はその“人らしさ”から少しずつ離れていっている身だからね」
ナサリオの回答に獅琉は目を伏せた。それから会話はなかった。
車はまだ走る。開けられた窓から入り、直接当たる夜風が少し冷たく感じ、獅琉は窓を閉める。煙草の残り香は完全に消え去っていた。
――――眠い。
“怪物”と対峙していた時の思考がまた戻ってくる。そうだ自分は眠かった。だから仕事をすぐに終わらせたのだ。彼はそんなことを思い出すと、背凭れに、ドアに、窓に完全に体を預け、静かに目を閉じる。
車はまだ走る。続くエンジン音、時々揺れる車内は眠るには丁度いい。獅琉にとって眠るのに快適な環境は彼をすぐに意識を刈り取る。
完全に寝入ってしまった獅琉に、ナサリオはバックミラー越しに確認し、やれやれと苦笑しつつ、ため息を吐いた。自分の上着のポケットから煙草を取り出し、また一本口に咥えて火を点ける。運転席側のドアの窓を僅かにだけ開けた状態にし、煙を吐き出した。
「まったく」
ナサリオは呆れたように呟く。
「僕も眠いのに……」
目的地まではまだまだある。深夜の時間帯の所為か他の車を見かけない道路では眠気が醒めない。獅琉との会話でどうにかそれを紛らわせていたのだが、彼は眠ってしまった。彼だって眠かったのだから仕方ないのだけれど。
「珈琲買ってくればよかった」
信号待ちになり、座席の背もたれに寄り掛かりため息を吐く。煙草が短くなったことに気づくとそれを灰皿に捨て、もう一本煙草を口に咥えてライターで火を点ける。カチンと小さな音を立ててライターの蓋を閉じ、煙を吐き出すと、彼の吸う煙草の独特な甘い香りが車内にまた広がった。
ケルベロス 零話(仮題) 榎本英太 @enomotoeita0421
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