一瞬の百合~短編集~

鐘絵くま

ある夏の日のこと

 耳に届く歓声が罵倒のように聞こえる。

 尖ったピンが付いた靴底を、ぐっとグラウンドに押しつける。

 順位なんてゴールしたときに分かっていた。

 それでも紗枝は、肩で息をしながら電光掲示板に目をやった。

 神木紗枝は上から三番目。


 高校生活の全てが、ほんの一分たらずで終わった。

 紗枝は短く息を吐き、眩しいほどに青い空を仰いだ。



 紗枝は小学生の頃から走ることが好きだった。走っているときの疾走感がたまらない。ここではない、どこか遠い世界に行けるんじゃないかと思って、必死に何かを追いかけるように土手沿いの道を毎日走った。

 

 中学に上がると、身長が百七十センチと体格に恵まれたこともあり、陸上部のエースだった。

 

 しかし、高校では思うように結果が出なくなった。

 有名なスポーツ校で監督も設備も「最高」が揃っている。なのに年々、身体の重石が増えていくようにタイムが遅くなっていく。

 

 一位以外に意味はない。そう叩き込まれて全てを賭けた。それなのに、結果は三位。



 紗枝は試合会場から学校に戻った。

 何となく足が家に向かなくて、グラウンド沿いにあるベンチに座る。

 ベンチは木陰で、じりりと照りつける日差しを和らげる。

 時折吹き抜ける風は生暖かくて、身体にまとわりついてくる。

 

 紗枝は目を細めて、白飛びするグラウンドを眺めた。

 一周四百メートルのトラック。紗枝の青春の場所。


 入学してからずっと、走るという単調な動作を追求してきた。それでも結果を出せなかった。


「なにやってたんだろう、私」


 ふいに口を突いて出た言葉で、視界がじわじわとぼやけてくる。


「未来を追いかけてた、とかどう?」


 背後から聞こえた声に振り向くと、妙子が立っていた。


 制服に身を包んだ妙子はネクタイをきっちり締め、額から汗を流していた。こんなに暑い時でも、制服を着崩さないところが実に妙子らしい。

 妙子は重たそうな鞄と共に紗枝の隣に座った。


「とりあえず、これ」


 紗枝は白いタオルを顔に押し付けられた。タオルから柔軟剤の華やかな香りがする。一年生の時から馴染みのある妙子の匂い。

 

紗枝は気付かれないように素早く目元を押さえ、タオルを妙子に投げ返した。


「お、もう元気そうじゃん」

「余計なお世話だし。大体、さっきの変な台詞なに? 未来がどうのって」

「テキトーに言ってみただけ」


 妙子は声を立てて笑っている。


「宇津木は何で学校いんの? 補習ないでしょ」

「ほら、私は生物部だから。いろいろ面倒みないと、ね」

「ふうん」


 紗枝は全身で大きく伸びをした。試合用にきつく結んだ髪をほどく。


「私ね、チーターって陸上部のみんなに陰で言われてんの。ウケるでしょ?」

「神木は手足が長くて優雅に走るだろうから、ピッタリじゃん」

「違うよ。ゴール手前で失速するから、四百メートル持たないからってこと」


 紗枝は片方の口角だけを上げて笑った。

 どうしてもラスト百メートルは息が続かずに脚が重くなる。今日の三位もそれが原因だった。


「私は好きだけど、チーター」

「宇津木に好かれても意味ないし」


 妙子の真剣な眼差しが紗枝に向けられた。


「一番じゃなくても、まっすぐ前に鋭い視線を飛ばして、暑い日も寒い日も、誰よりもひたむきに頑張ってる姿、私は好きだけどな」


「……ありがと」


 紗枝は俯きがちに答えた。

 白いシューズで地面を擦ると砂埃が舞った。紗枝は砂でも入ったかのように、目をつむって涙を拭った。


「よしよし、これで今日の目標は達成っと」

「なにそれ、どーゆーこと」

「生き物の面倒をみるのが仕事だからね。チーターの一匹や二匹、お手のもの!」


 紗枝は顔を上げて妙子に睨みをきかせた。


「まずい、肉食獣が怒った!」


 妙子はベンチから立ち上がり走り出した。


「ちょっと! 待て、妙子!」と紗枝は言った。

 ほのかに明るさを含んだ楽し気な声だった。

 

 いつかと同じ、希望を追いかけるように、紗枝は走り出した。

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