第9話 鯨信用金庫の稲荷さん
私の職場である「またたび商店」の定休日は月曜日だ。昨日、休日の私は一人暮らしの気楽さに任せて二度寝した。
······そして夜になって気づいた。夜になると不方さんの呪いが発動する事を。夜八時。隣の部屋に住む不方さんが帰宅すると、玲奈が申し合わせた様に現れ、私を不方さんの部屋に瞬間移動させた。
呪いにより私が乳児に見える不方さんは、満面の笑みで甲斐甲斐しく私の世話をする。哺乳瓶で粉ミルクを飲まされ、裸にされた後にお風呂で全身を洗われる。そして止めに紙パンツを履かされる。
字ヅラだけみると、どう見ても風俗店の乳児プレイだ。二度目の体験だったが、私は一向に慣れる気がしなかった。
あんな事やこんな事を私にしといて、不方さんは夜が明ければ何時もの無愛想顔だ。どう考えても納得出来ない。
「不方さん!私が貴方に片想いしているから我慢していますけど、あんな乳児プレイを受け入れる女性なんて他にいませんよ!!」
······なんて心の中で叫んでも、不方さんの前に立つと乳児プレイの影響で私の顔は赤面しっぱなしだ。
「金梨さん。レジをお願い」
私と不方さんは入荷した商品を蔵(バックヤード)に運んでいた。不方さんは店内のお客さんの動きを見逃さず、適確に私に指示を出す。
私は慌ててレジに向かい、二組のお客さんの会計を済ませた時だった。
「金梨さん!今日は特製弁当ある?」
明るくハキハキとした声が私の耳に届いた
。紺色のスーツを着た男性が私に手をふりながら近付けく。
短く切り揃えた髪。細身の身体に高い背丈
。人懐っこい笑顔の男性の名は稲荷孝(いなりたかし)さん。
稲荷さんはこの界隈町にある鯨信用金庫に勤める人だ。時間は丁度昼時。休憩時間にお弁当を買いに来たらしい。
私は複雑な気分だった。稲荷さんには恨みは無い。けど、この「またたび商」への融資を拒否した鯨信用金庫にはモヤモヤとした物が払拭出来なかった。
だが、私はやるべき仕事を優先させる。
「こんにちは。稲荷さん。今日はまだありますよ」
稲荷さんの言う特製弁当とは、社長婦人である小夜子さんが作るお弁当だ。料理上手の小夜子さんは、手作りのお弁当を週に数回、限定個数でお店に置いてある。
その美味しさに、このまたたび商店では密かに人気商店となっている。小夜子さんがお店に置くのはお弁当だけではない。
春には桜餅。夏には涼やかな餡蜜。秋には干し柿に干し芋。冬にはクリスマスケーキ迄作ってしまう。
ただ、この界隈町商店街には和菓子屋さん。洋菓子さん。お弁当屋さんがある。小夜子さんは本業のお店に迷惑がかからないように数を抑えて作る。
その限定個数がかえって人気を呼び、根強いファンがいるのだった。
「えー?今日は生姜焼き弁当かあ。私今、ダイエットしてるのになあ」
私が稲荷さんをお弁当が置いてある生鮮食品コーナに案内すると、稲荷さんの背後から女性が現れた。稲荷さんは振り返って声の主を見る。
「果歩?おいこら。文句言うなら食べるな。つーか買うな」
稲荷さんが女性を一喝する。長いストレートパーマ。白いシャツに黒いパンツ。完璧なメイクが施された可愛らしいこの女性の名は稲荷果歩(いなりかほ)ちゃん。
稲荷孝さんの妹さんだ。果歩ちゃんは私の二つ年下で界隈町の商店街にある美容室で働いている。
稲荷家の兄と妹は、蔵(バックヤード)から出てきた不方さんを見ると同時に声を上げる。
「おーい!不方!一緒に昼飯食べようぜ」
「不方さん!この兄貴は放っておいて一緒にランチしませんか?」
陽気に不方さんに声をかける稲荷孝さんは
、不方さんとは高校の同級生だったのだ。そして果歩ちゃんは私から控え目に見てもどうやら不方さんに気があるようなのだ。
「······他を当たってくれ。俺はまだ仕事中だ
」
接客すべきお客様。そして友人知人にも平等に無愛想を通す不方さんは、ダンボールを抱えたまま陳列棚に赴き、商品の補充を始める。
ダイエットを一時中断するのか、果歩ちゃんは小夜子さん手作りの生姜焼き弁当を購入し項垂れながら帰って行った。
······果歩ちゃんのハイヒールの音が寂しそうだったけど、私的には彼女に情けはかけられない。
何故なら、果歩ちゃんは不方さんを巡っての恋のライバルだからだ。最も、若さも可愛さも果歩ちやんにはまるで勝ち目はないのだけど(泣)
「金梨さん。華厳の大河が新装開店したって知ってる?店の人からサービス券貰ったんだ。今度飲みに行こうよ」
稲荷さんが帰り際に陽気に私を誘ってくれる。華厳の大河とは界隈商店街にあるチェーン店の居酒屋だ。私は曖昧な返事を返してレジを待つお客さんを案内する。
レジが途切れると、私は不方さんの隣に並び商品の補充を手伝う。今しがた出来た共通
の話題を私は早速使う。
「稲荷さんて本当に人当たりいいですね。友達も多そう。と、言うか誰でも誘いそうですね」
私が笑いながらそう言うと、不方さんは少し驚いた様な表情で私を見つめる。あ、あれ?私何か変な事を言ったかな?
「······金梨さん。気付いてないの?」
「え?な、何にですか?」
私が要を得ない表情をすると、不方さんは空になったダンボールを持ち立ち上がった。
「稲荷は軽そうに見えて根は真面目だよ」
不方さんはそう言い残して蔵(バックヤード)に消えて行った。え?な、何?今の不方さんの言葉ってどう言う意味なの?
「ごめんください」
私が必死に不方さんの残した謎解きをしていると、背後から男性の声がした。私は直ぐ様立ち上がる。
「は、はい。いらっしゃいませ」
私の前に立つ黒のスーツの男性は、礼儀正しく私に会釈する。
「社長はいらっしゃますか?私、鯨信用金庫の大仏(おおふつ)と申します」
七三に分けた髪。黒縁メガネをかける五十代に見える男性は、私に丁寧な口調でそう言った。
······鯨信用金庫。私の頭の中でそれは既にNGワードになっていた。それは、このまたたび商店の存続を賭けた権蔵社長の融資を断った信用金庫だった。
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