*8

 よくある恋愛小説だった。


 同居しているいとこ、ソウスケに恋をする女子高校生のウサギ。気持ちを内に秘めながら兄と妹のような関係で過ごす。小説家のソウスケはパニック障害を抱えながら家の中でひっそりと過ごして仕事をする。最初のころは必死に治そうと頑張っていたウサギも、諦めて静かな日々を過ごしていた。毎日平和だった生活に亀裂が走ったのは突然のことだった。自分のことをソウスケの彼女だというアサミが現れる。焦ったウサギは─


「ただいま」


 玄関から聞こえた拓巳の声ではっと我に返った。


 文庫本を読み耽っていた菜月は急いでソファーから立ち上がる。洗濯は干したまま、夕飯の支度だってなにひとつできていない


「菜月?」


 リビングの明かりをつける拓巳。急に照らされる光に菜月は顔をしかめた。


「ごめん、本に夢中になってて。ご飯の準備できてない」


「……そうなんだ、珍しいね。いいよ、近くに中華料理屋があるからそこでよければなにか買ってくるよ」


「あっじゃあレバニラがいいな」


「レバニラ? そう、まあいいけど。他には? ご飯ものとか」


「小籠包とか餃子みたいなつまめるものがあればいいかな」


「わかった」


 待ってて、そう言って踵を返す。玄関の扉が閉まる音が聞こえたと同時に、菜月はソファーに沈み込んだ。


 ひどく重い体はきっと久々に日差しを浴びて長く歩いたせいだ。暑くはなくともじんわりと汗をかいたのだから、運動したのと同じようなもんだ。どくどく、と心臓が波打っていた。勢いよく立ち上がったせいで脈が乱れたのだろうか。


 心臓が落ち着いてから洗濯物を取り込み、たたんでいると拓巳が帰ってきた。片づけを終えて食卓の椅子に座る。プラスチックのふたを開けるとおいしそうな香りがふんわりと上る。ゼリーでは物足りなかった菜月の腹が鳴った。


「いただきます!」


「菜月さ、仕事したい?」


「えっ?」


 唐突な問いかけにレバニラを口に運んでいた箸が止まった。目の前の拓巳は炒飯を食べながら視線を横にずらす。そこには菜月が昼間もらってきた求人誌がおきっぱなしになっていた。まるで拓巳に見せつけるかのようにおかれている雑誌。軽く見たあとすぐ捨てようと思っていたのに、拓巳に言われるまで持って帰ってきていたことすら忘れていた。


 条件付きとはいえ外出の許可が出たばかりの菜月に、働くという行動を拓巳が許すわけがない。菜月自身、自分がどのくらいの時間なら体に負担なく働けるのかわかっていない。けれど、もしかしたらチャンスなのかもしれない、と口を開いた。


「すぐじゃないけど、いずれは」


「お金足りない?」


「違う、そうじゃなくて。ただ、なにもかも甘えているのはなんだか悪い気がして」


「最近は家事をやってくれてるじゃん。俺だって菜月に甘えてるよ」


「全部はまかせてくれないでしょ? 買い出しとかお布団干すのも。少しでも動く習慣をつけたいなって思って。それで、短時間でもいいから働けたらいいな、なんて」


「……いいところあったの?」


「駅前に本屋があってね─」


 募集していただろうか、ふと言葉が途切れた。文庫本に夢中になってまだ一ページも見ていない。店舗に張り紙がしてあったのをぼんやり覚えているが、それがなんだったのかは思い出せない。


 拓巳が求人雑誌をめくり、「これか」とつぶやいた。


「……。まあ、いいんじゃない? 時間は少し遅いかもだけど八時には終わるなら。駅の中にも本屋あるからこっちは閉まるのが早いのか」


「いいの?」


「もう少し体力戻ったらね」


 よかったと胸を撫で下ろして笑う菜月。その姿に拓巳は違和感を覚えた。拓巳が心配するといっても、自分が働くのであれば自由に選んだっていいはずだ。体に負担がかかりそうな職場を選んだのであれば、そこで働きたい理由などを話して拓巳を納得させる必要がある。けれど本屋なんて激しい運動をするような場ではない。駅の中の広い店舗ならまだしも、菜月が言った駅前の本屋はこじんまりとしている。


 拓巳は少し菜月に厳しくし過ぎたのかもしれない。


「おいしい?」


 にこにこと笑ってうなずいた菜月。レバニラが入っていたプラスチックの容器は空になっていた。

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