第7話 水先案内人

1週間後、茜が退院した。2人はその足ですぐに下田の魚市場を訪ねた。茜は病み上がりであったが、グズグズしている余裕はない。2人の行動が政府の知るところとなった以上、ことを急がないとどんどん窮地に追い込まれる。

「おや、あんた達はいつぞやの。」

 魚市場の仲買人が笑顔で2人を出迎えてくれた。肥料にしかならない海ナマズの腹を裂いて中味を持ち帰るなど常人のすることではない。顔を覚えられていてもおかしくはない。

「それで、今日は何の用だい。」

 仲買人は、今水揚げされたばかりの真鯵を発泡スチロールの箱に詰め込みながら、用件を聞き返した。

「もう一度海ナマズを分けて欲しいんですが。」

 茜は、その問い掛けに勢い込んで返事を返した。しかし、意外にも返ってきた返事は冷たいものであった。

「ああ、あれ。悪いけどもう水揚げできないんだ。」

 仲買人は気の毒そうに答えた。

「えっ? それってどういうことですか。」

「水産庁の方からお達しがあってさ、何でもあいつが有害魚に指定されとかで、肥料にすることは勿論、水揚げもダメだってことだ。」

 洋一と茜は唖然として顔を見合わせた。海ナマズがないと固形メタンのサンプルが入手出来ない。それが分かっていて敢えて水揚げを禁止したに違いない。締め付けはこんな果ての魚市場にも及んでいた。桂子の言葉は脅しなんかではなかったようである。

「1匹くらい何とかならないかしら。」

 茜は懇願するように頼み込む。

「無理だろうね。もともと肥料にしかならねえクソ野郎だ。それを水揚げして免許停止でも食らったら元も子もないで。どこの漁師も皆、網に掛かったやつは海の上でドボンさ。どうしてもって言うんなら、漁師に直接掛け合うしかねえな。」

 これ以上この人に頼んでも無理なようである。2人は断念して市場を後にしかけた。その時。

「あれ、あの人。昨日確か同じ電車に。」

 そう言いながら、茜が視線を向けたその方角に1台の乗用車が止まっていた。こんな朝早い時間に海辺の魚市場に乗用車が1台、どう見ても不自然である。その乗用車の脇に男が2人、何をするともなく下を向いて佇んでいた。尾行? 2人の背筋に一瞬の緊張が走る。2人は魚市場を離れて、急ぎ足で漁村の方へと向った。2人が後ろを振り返ると、何と先程の男どもも付けて来るではないか。

 2人は必死になって駆け出した。夜が明けたばかりの静かな漁村に靴音が高くこだまする。2人は迷路のような路地を息を切らせて走り回る。男達の靴音はもうすぐそこまで迫ってきていた。2人は思わず、路地裏に干してあった魚網をかいくぐって、一軒の家の裏庭に身を潜めた。その2人の目の前を男達は大慌てで駆け抜けていった。ぜーぜーと2人が肩で息をしながら身を潜めていると、ゴトゴトと裏庭の引き戸が開き、1人の老人が出てきた。

「どちらさんですかな。」

 2人はギョッとして顔を見合わせた。まずい。今、路地に出れば間違いなく男達に見つかってしまう。2人は凍り付いたようにその老人の顔を見詰めた。その時。

「ちくしょー。どこへ行きやがった。」

 路地の向こうから男達の罵声が聞こえてきた。もうだめだ、と思った瞬間、老人は2人に目配せした。2人は考える間もなく、老人の後に付いて引き戸の中へ飛び込んだ。間一髪、引き戸のすぐ外を男達の靴音が過ぎていった。2人は、ふっーという長いため息とともに、全身の力が抜けていくのを感じた。しばらくして、ようやく老人の存在に気付いた2人は、思わず立ち上がって会釈をした。

「す、すみませんでした。」

「いや、ええってことよ。」

 老人は、2人の挨拶に顔も上げず、淡々と網の繕いに精を出していた。皺枯れたその顔は、既に70過ぎかという年齢を感じさせた。2人は初めて漁師の家の中を見た。6畳ほどの納戸部屋には、壁一面に繕いの終わった魚網が掛けられ、天井裏には錆付いた漁具が無造作に積み上げられていた。長年の間に染み付いた魚臭いにおいが微かに鼻を突く。華やかな都会の魚市場を支えているのは、こうした裏寂れた漁師達なのである。

 2人が一頻りお礼を言って、その場を後にしようとした時、ようやく老人が顔を上げた。

「まだ連中が外にいるかもしれないで。もう少しここに居なせー。」

 その言葉に、洋一は一旦引き戸に掛けた手を引っ込めた。

「お若いのに礼儀はようわきまえていらっしゃるの。余計なことかもしれんが、あっしみたいなものでよろしければ、お話をお聞きしやしょうか。」

 気難しそうな老人の顔に微かな笑みがこぼれた。2人は一瞬どうしたものかと顔を見合わせたが、しはらくして茜が先に口を開いた。

「私たち、わけあって海ナマズを探しているんです。でも魚市場では最近水揚げが禁止されたとかで。」

「ほうー。海ナマズをね。じゃが、あんな肥やしにしかならんような化け物を、またどうして。」

 老人は訝るような目線を茜に向けた。茜はどうしたものかと迷った。この年寄りに難しい話をしても恐らく分かるまい。ただ他に説得性のある理由もすぐには思いつかなかった。

「そ、それは。学術研究のためなんです。」

「学術?」

 案の定、老人は初っ端から理解できそうにもなかった。しかし、茜は怯まなかった。深層海流のこと、気候変動のこと、バクテリアのこと等、出来るだけ老人にも解るように言葉を砕いて説明を試みた。1人でも多くの人に今世界で起きかけていることを知ってもらいたいという一心からであった。

「そうですかい、そうですかい。難しいことはよう解らんが、確かにこのところめっきり魚の水揚げが落ちてましてな。特にわしらの一番の食い扶持だった鰯や鯵なんぞは、昔の半分も上がらんですよってに、漁師仲間も皆食うのに困っとりますわ。丁度その頃からですわ、海ナマズが網に掛かり始めたのは。」

 洋一と茜は、老人の話に驚いた。昔から日本の大衆魚として人気のあった鰯や鯵の水揚げが落ちている。地球規模の気候変動が、魚の水揚げにまで影響を及ぼし始めていたのである。老人は話を続ける。

「この海ナマズの肉は硬い上に臭いもきついんで、とても食えたもんじゃねえ。皆、ちっとは家計の足しにと思って、肥やしの業者に売っ飛ばしているのさ。まあ大した金にもならんけどな。それがついこの間、水揚げ禁止だとか。まったく国は、わしらみたいな者を見殺しにする気かのう。」

 2人は黙って老人の話を聞いていた。気候変動は漁師や農家など自然を相手に生計を立てている人々に多大の影響を及ぼす。いや漁師や農家だけではない、それはいずれ全ての人の食卓にも影響してくる。そんなことを知ってか知らずか、政府は地球環境までをも政争の道具にしようとしている。全く馬鹿げたことが、今この国で現実になろうとしていた。

「よろしければ、海ナマズ持って行きなされ。」

「えっ?」

 洋一と茜は老人がボソリと呟いた最後の言葉に驚いた。

「いくら水揚げするなと言われても、わしらも食い扶持が掛かってますでな。どこも内緒で業者に卸してるさ。業者の方も心得たもんで、週に一度は回ってきてくれるだ。」

 そう言いながら、老人はそっと裏庭の奥にある納屋の中に2人を案内した。薄暗い納屋の中は海ナマズ特有のムッとした臭いが立ち込めていた。老人がムシロのふたを巻き上げると、地面の下に掘り下げられたコンクリート製のいけすが現れた。暗くてよくは分からなかったが、少し濁りのある海水の中に死んだ海ナマズが数匹沈んでいるのが見えた。

 老人はヨイショとばかりに、大きな鍵の付いた銛をいけすに突っ込むと、グイッとばかりに海ナマズを引き上げた。見覚えのあるグロテスクな姿が浮かび上がり、吐きそうな臭いが辺りに立ち込めた。洋一は3ヶ月前のことを思い出して思わずもどしそうになった。一方の茜は、持ってきた鞄から解剖用キットを取り出すとすぐに作業に取り掛かった。10分も経たないうちに器用に魚のさばきを終えた茜は、この前と同じように胃の内容物をガラス製の採集瓶に詰め込んだ。その間、洋一の方はと言うと、またしても顔を背けたまま両手で口を押さえていた。

「可愛い顔なさって、いや大したもんだ。」

 老人は、てきぱきとした茜の手つきを見て頻りと感心の声を洩らした。1人前の漁師ですら、この魚を扱うのは嫌いである。ましてや腹を裂いてなど、考えただけでもおぞましい。それをこの若い小娘はさっさっと済ませてしまったのである。老人は茜のことがすっかり気に入ったらしく、気難しそうな顔をぐしゃぐしゃに崩して茜の様子を見ていた。

「おんや、もうお済みかな。」

 茜が捌きの終わった海ナマズをいけすに戻したのを見て、老人は少し拍子抜けしたように尋ね返した。洋一と茜は、思わぬところで海ナマズに再会できたことで内心小躍りして喜んだ。まだ勝負は終わっていない。

「どうも、有り難うございました。」

 茜は笑顔で挨拶すると、漁師の裏庭を後にした。

「わしらに出来ることがあれば、いつでもまた来なせえ。」

 老人は別れを惜しむかのように不自由になった片足を引き摺りながら、路地裏まで2人を見送った。外はすっかり夜も明け、いつしか陽が高くなり始めていた。


 1ヶ月後。

「洋一、茜、すごいぞ、すごい発見だ。」

 電話の向こうのブラウン教授の声は興奮で上ずっていた。茜は大急ぎで例のレポートを仕上げると、洋一とも相談してロンドン大学のブラウン教授に相談を持ち掛けていた。日本政府は完全にアメリカ寄りであることがはっきりとした。加えて幻のバクテリア探しを始めた2人には徹底した妨害と監視の目が向けられていた。2人の力だけでは最早どうすることも出来なかった。

「これ以上の調査には深海潜水艇が必要なんです。」

「心配するな、俺に任せておけ。」

 教授の興奮はすぐには鳴り止みそうになかった。教授によれば、地球温暖化を防止するための切り札となる幻のバクテリアをイギリス政府も長年探し求めていたらしい。その世紀の宝の痕跡らしい情報が、こともあろうに今や敵国となってしまった日本からもたらされたのである。

「1ヶ月時間をくれ。」

 そう言い終わる間もなく、あっという間に教授の電話は切れていた。


「今年の夏もまた異常気象のようです。東京大手町の最高気温は今日で5日連続で40度を超えました。昨日も100人余りの人が熱中症で入院しました。内2名が死亡したとの情報が入っております。」

 お昼時、気象庁の食堂にあるテレビには、猛暑にうだる丸の内の様子が流されていた。画面には、流れ出る汗をハンカチで拭いながら横断歩道を足早に木陰に向って歩くOLの姿が映し出されていた。

 洋一は嘆息交じりに新聞を広げた。異常気象は日本だけではなかった。中国でも今年の夏は雨が少なく、100万頭の家畜が死んだと報じられていた。一方、ヨーロッパは100年ぶりの大洪水で多数の死者が出ていた。そればかりではなかった。アフリカでもロシアでも、そしてアメリカでも異常気象は伝えられていた。

 これまでは、エルニーニョとか特殊な要因のあった年だけ異常気象が起きていたが、最近は異常が異常でなくなるほど平年とかけ離れた気候が多くなった。平年の気温とは過去30年の平均値を取ったものである。その数字が傾向的に尻上がりになっていれば、過去の平均は最早今を映す鏡とはならない。このところ日本の夏の最高気温は毎年、平年値を2度以上上回る異常値が続いていた。

「それでは次のニュースです。今日午前、米国政府は横須賀に配備中の空母エンタープライズを出航させるのに先立ち、イージス艦の派遣を正式に日本政府に申入れしてきました。行き先は明らかにされていませんが、最近EU諸国との間での緊張が高まってきていることを背景にした措置と見られています。これまで地球環境問題では中立姿勢を示してきた日本政府ですが、このたびのアメリカの要請にどう応じるのかが注目されます。」

 とうとう来るものが来たか。洋一には日本政府が出すであろう答えは既に分かっていた。「領土が倍になるぞ。」という言葉が洋一の頭の中で何度となくこだました。


 1ヶ月後。

「洋一、準備が出来た。英国王立海洋アカデミーが潜水艇ヨークシャーの派遣を決定した。」

 電話の向こうに興奮したブラウン教授の声が響いた。いよいよイギリス政府が動き始めた。「俺に任せておけ」と言った教授の言葉に嘘はなかった。イギリス政府は宝捜しに本気である。洋一は嬉しさの反面、事の深刻さを改めて実感せざるを得なかった。その洋一の不安は的中した。

「空母バーミンガムの護衛付きだ。」

 何というものものしさか。たかがバクテリア一匹のために空母まで派遣するとは最早尋常ではなかった。イギリス政府は武力をもってしても幻のバクテリアを入手する気だ。

 他国籍の船が理由もなく日本の近海をうろつけば、当然海上保安庁の知るところとなる。下手をすればイギリスの海洋調査船が臨検、拿捕されかねない。そうなれば折角手に入れたバクテリアも日本政府の手に渡り、二度と小笠原海域には立ち入ることも出来なくなるであろう。あまりに当然といえば当然の手配りであったが、洋一は自分が予期せぬ軍事紛争に巻き込まれていくような不安と緊張を覚えた。

「じゃが1つ問題がある。水先案内人だ。」

「水先案内人?」

「そうだ。我々は小笠原の海が初めてだ。誰かガイドしてくれる人間が必要だ。」

 水先案内人と言われて、洋一は当惑した。確かに地球の反対側から来る人間にとって小笠原の海は広い。いくら固形メタンのサンプルを入手したといっても、実際に生きたバクテリアを探すのはその比ではない。闇雲に探し回れば何年かかるかさえ分からない。そんな時間的余裕はない。しかし、水先案内人とは一体どういう人を指すのか。洋一が考えあぐねていた時、教授が一言ヒントをくれた。

「そうだな、例えば漁師とか。」

 漁師? そうか確かにそうかも知れない。漁師であれば地元の海は当然に知り尽くしている。潮の流れ、天候、暗礁の位置、魚の動き等、誰よりも詳しいはずである。漁師、漁師。洋一が考えあぐねている間にも、電話の向こうで教授は最後の言葉を口にしていた。

「当方は1週間後に出航する。洋一、じゃあ1ヶ月後に会おう。小笠原でな。」

 洋一が返事をする間もなく電話はもう切れていた。


「危険すぎる。だって一度きりしか会っていないのに。どんな人かもわからない。」

 洋一は目を丸くして反論した。

「でも他に手はないわ。私たちの親類や知人に漁師なんていないし。」

 茜は、先日下田で会った老漁師のことを思い出していた。洋一から水先案内人探しの話を聞いて後、色々迷いもあった。事が事だけに出来る限り信頼のおける人物を、しかも全ては隠密裏に運ばなければならない。漁協なんぞを通して公に募集できるような類の話でもない。

「山口君はどうだろう。彼なら小笠原の海はよく潜ってるし。」

「駄目よ。この前私たちが大迷惑を掛けてしまったんで、あの方もきっと政府から目をつけられてに違いないわ。これ以上の無理は言えないわ。」

 洋一はまだ納得出来ない様子であった。

「でも、あのおじいさんじゃなあ。もう80近いんじゃないか。」

「あの人は無理でも、きっと息子さんとかお孫さんとかがいらっしゃるはずよ。とにかく行ってわけを話せば分かってもらえるわ。」

 茜には説得できる自信があった。地球規模の異変は漁師自身が肌で感じ取っているのは間違いない。この前も鰯や鯵の水揚げが落ちていると言っていた。少なくとも興味は持ってくれるはずである。


 翌日、下田漁師村。

「駄目だったら駄目だ。そんな危ねえ仕事にどうして俺達が行かなきゃいけないんだ。」

 がっしりした体格の40過ぎの男が大声を張上げた。傍らでは先日会ったあの老人が腕組みをしたままその男を睨み付けていた。2人はその日初めて老人の名を知った。名は源吾といい、歳は76、小笠原の海では幼い頃より50年以上も漁師として働いてきたという。10年前に漁に出た際にしけに遭って片足を不自由にしてしまって後、漁の仕事は専ら息子の健三に任せていた。大声で反対したのは、この健三という男であった。

 この健三の一言で、親子の間で激論が始まった。どちらも海で鳴らした男達である。どこからこんな大きな声が出るのかと思うほどの地声で、口角に泡を飛ばしながら怒鳴りあった。

「だども折角こうやって遠いところを来てくだすったんだ。おめえだっていつも小笠原の海が変だ、何かおかしいって言っているでねえか。おめえが行かないならおらは1人でも行くぞ。」

「馬鹿な、もう10年も船に乗ってねえのに行けるわけがねえ。」

「馬鹿にすんのか、こいつ。こう見えても若い頃は帝国海軍の航海士だったんだぞ。おめえなんか俺の足元にも及ばねえ。引っ込んでろ、この雛っ子が。」

 2人は今にも掴み合いを始めそうな気配で罵り合った。散々罵り合った挙げ句、息子の健三は土間に置いてあったバケツを力任せに蹴り上げると、プイッと外に出て行った。やっぱり無理だったか。洋一と茜は半ば諦め顔で、大きなため息をついた。

「すいません。頑固な野郎で。」

 源吾爺さんは本当に済まなさそうに頭を下げた。

「い、いえ。こちらこそ無理なお願いをしてしまって、返ってご迷惑を。」

 2人は申し分けなさそうに頭を下げると、源吾爺さんの家を後にしようとした。しかし、源吾爺さんは2人の背中に向って懇願するように叫んだ。

「お願いです。あっし1人でも連れていってやって下せえ。決して足手まといにはなりやせんから。」

 見ると、源吾爺さんは不自由な片足を引き摺りながら2人の後に食い下がってきた。洋一と茜は顔を見合わせた。水先案内人は喉から手が出るほど欲しかった。しかし、こうした老人を危険な目に巻き込むわけにはゆかない。思案している2人に源吾爺さんはさらに懇願を続ける。

「あっしは小さい頃から船に乗るのが好きでやんした。若い頃は軍艦に乗って小笠原の海を駆け回り、戦争が終わってからは漁師になって50年も働いてきた。あっしは本当に海が好きなんです。その海が今、わけの分からんことになりかかっとる。難しいことはよう解りませんが、皆昔のような海に戻って欲しいと思っていやす。丘に上がった漁師がどんなに惨めか。足さえよけりゃ、まだまだ若いもんには負けやしません。この年寄りがどなたかのためにお役に立つのなら、死んだって構わねえ。」

 源吾爺さんの目は真剣だった。魚市場に「大漁だ、大漁だ」という威勢のいい声が聞かれなくなって久しい。昔のよかった時代は二度と戻ってこない。それは単なる孤独な老人の郷愁ではなかった。この老人はそうした地球規模の異変を肌で感じ取っていた。

「よ、よろしくお願いします。」

 洋一と茜は深々と頭を下げた。


「イギリスの空母バーミンガムがシンガポール港に入りました。行き先は不明です。」

 総理執務室に佃防衛庁長官の声が響いた。

「ふーむ、一体どこへ行く気だ。イギリスの空母が極東地域まで出動してくるなんて珍しい。」

 首相は腕組みしたまま考え込んだ。

「恐らく対抗措置かと。」

「対抗措置?」

「はい、アメリカは既に空母インディペンデンスを北大西洋に配備しました。そしてわが国もそれに追随してイージス艦を派遣しています。このままでは軍のバランスが保てません。喉元に刃を突きつけられれば当然刃を突き返す、これが有事の鉄則です。」

 佃防衛庁長官は淡々と説明を続ける。

「ふーむ。そういうものか。だが、用心するに越したことはない。引続き動きはウォッチしておいてくれ。ところで例の件はどうなった。」

「例の件?」

「そうだ、バクテリアだよ。幻のバクテリアとかいったかな。あんなものが明るみに出てくれば、我々の目論見は全て水の泡に帰する。」

「そちらの方は我々にお任せを。」

 脇から海上保安庁長官が口をはさんだ。

「例の深海魚の水揚げは全面禁止いたしました。それと全ての深海潜水艇の方も海上保安庁の指揮下に置きました。潜水艇がなければ誰も手も足も出せませんよ。」

 長官は自信たっぷりの笑みを浮かべた。


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