第6話 警告

そして、その日の夜のこと。

「いやー、大変なことが分かりました。昼間の事故ですが、何と申し上げていいか。その。」

 山口主任は洋一と茜を前にして、説明に窮したような表情をして見せた。その様子から2人は只事ではないという雰囲気を感じ取った。

「サ、サボタージュ(破壊工作)です。」

「サ、サボタージュですって?」

 茜が跳び上がらんばかりの声を出した。

「ええ、実はアーム格納庫に通じるシャフトのボルトが3本抜かれていました。本来なら8本あるはずのボルトが5本しかなかったんです。それでシャフトが水圧に耐え兼ねて亀裂が入り。後はご存知の通りです。」

「で、でも、事故ということも。」

 洋一は破壊工作があったということが未だ信じられないという様子で聞き返した。

「いえそれは有り得ません。ボルトは表と裏から二重に留めることになっています。自然に抜け落ちることなど考えられません。」

 山口主任には確信があるようであった。だとすると、一体誰が、そして何のために。

「とにかく潜水艇の損傷がひどくて、ここでは修理が出来ませんので一旦戻ることにします。」

 山口主任は気の毒そうに今後のことを話した。

「いえいえ、こちらこそ無理なお願いをしてしまったばかりに、済みません。」

 洋一は深々と頭を下げた。はっきりとは断言できなかったが、今回の破壊工作が自分たちの調査と関係があるような気がした。誰が妨害工作を行ったかは分からない。ただ、幻のバクテリアが見つかると都合の悪い連中がいる。「バクテリアが政治の道具にされかねない。」、洋一は、以前茜が言っていた言葉の意味がようやく分かったような気がした。


 洋一と茜が東京に戻って一週間後、再び世界に驚愕のニュースが流れた。

「イギリス政府は、昨夜ベルギーのブリュッセルで開かれました欧州首脳会議の席上で、地球温暖化が欧州地域の氷河期入りのトリガーになりうるという調査結果を報告しました。関係者によりますと、同様の調査結果は米国政府もかなり以前から認知していた模様で、今後EU諸国の米国に対する圧力がさらに強まることが予想されます。それではここで政治部の小島解説委員にお話をお伺いします。」

 カメラがぐいっと引かれて、画面の右半分に解説委員の姿が現れた。

「小島さん、地球温暖化が氷河期に通ずるというのは一見矛盾しているようにも思われるのですが、その辺りのことは如何でしょう。」

「はい、温暖化と氷河期、確かに矛盾しているように見えます。ただ、専門家によりますと、地球規模の気候変動は何百年単位でゆっくりと進んでいくとのことで、昨日今日の温暖化が数百年後の寒冷化を引き起こす原因になることも10分考えられるのです。EU諸国がこれまで地球環境問題にあれほどうるさく取組んできた背景には、数百年後の氷河期入りを阻止する狙いもあったものと考えられています。」

 小島委員は淡々と説明を続ける。洋一は息を呑んでこのニュースに聞き入った。無論2人には周知のことであり特段のビッグニュースでもなかったが、そんなことよりもこの事実がこのタイミングで発表されたことの意味を考えずにはいられなかった。それを察するかのように、テレビの報道は更に先に進んでいく。

「イギリス政府は何故今の時期にそんな発表をしたのでしょう。」

「はい、ご存知の通り、米国は半年前京都議定書への調印を拒否しました。それどころか最近の報告によりますと、二酸化炭素の排出を加速させているとのことです。このまま放置しておくと、ここ数十年の間に地球の温暖化はさらに進み、そしてその後はある年を境に急速に氷河期に突入すると予想されます。EU諸国としましては、今この事実を公にすることで、アメリカの身勝手を糾弾しようとの意図があるものと見られます。」

 洋一の脳裏にブラウン教授の顔が浮んだ。全ては教授の予想通りに物事が進展していた。アメリカは自らが正しいと思ったことは万策を尽くして実現しようとする、今や世界でアメリカの行動を阻止できる力を備え持つ国はなかった。アメリカは常に正義であり、アメリカは常に正しい道を歩んできた。国連という枠組みは既に形骸化し、国力が全てを決する時代に突入しようとしていた。

 アメリカとEU諸国の対立が明白になったことで、日本は極めて難しい立場に立たされた。「領土が倍になるぞ。」、洋一の頭の中に不遜な首相の声が響き渡った。日本は、米国とともに再び野心に満ちた道を歩み始めた。


 1週間後。茜の研究所。

「さてと、これでよし。」

 茜は大きな伸びをした。固形メタンの分析を終えた茜は、連日深夜まで1人研究所に残り、レポートの作成に追われていた。そのレポートがようやく今完成した。

 潜水艇の事故もあり、幻のバクテリアの発見は不首尾に終わった。しかも、山口主任によると、あの事故が原因で事態は極めてまずい方向に動いていた。潜水艇の事故当時、山口主任のチームとは何の関係もない2人が潜水艇に乗り込み、しかも本来の潜水目的とは関係のない調査をしようしていたことが関係当局の知るところとなってしまったのである。山口主任はその責任を問われて、海底地震の調査団から外された。幻のバクテリアを発見しようという洋一と茜の目論見は完全に頓挫してしまった。

 そこで茜は方針転換した。バクテリアの生きたサンプルを自ら探すのではなく、固形メタンの分析結果を公表することで、世界中の学者や研究者たちに幻のバクテリアの存在の可能性を告知しようと考えた。もし自力で幻のバクテリアが発見できれば、それこそノーベル賞級の大発見となるはずであったが、今は自らの栄誉よりも世界の安寧の方が遥かに優先する。茜のその判断は正しかった。

 茜は、パソコンからレポートの入ったロムディスクを抜き取ると、そっと鞄に仕舞い込んだ。壁際の時計を見ると、既に夜の11時を回ろうとしていた。夜の研究所はことの外暗い。省エネルギーへの配慮から、残業する者は自らのデスクの周辺以外の明かりは全て消すことが、研究所のルールで決められていた。昼間は何十人という研究員が忙しく立ち働くこのフロアも、不気味に静まり返っていた。茜のデスクの周辺だけはシーリングライトに照らされているが、その他は真っ暗である。わずかに非常口を示す緑色のサインだけが明るく輝いているのが見えた。

 茜がデスクに鍵を掛けようとしたその瞬間。

「あれ、誰かいるのかしら。」

 茜は微かな人の気配を感じて頭を上げた。不思議なものである。静かな夜の研究所に1人でいると五感が鋭敏となり、僅かな空気の動きまでも感知される。

「誰か、いるの?」

 茜は大きな声で叫んでみた。茜の声は広い研究所の中に微かにこだました。返事はない。ヒーンというパソコンの放熱音と、ブッブッという外電の印字音だけが暗い部屋のあちこちから伝わってくる。茜は、う空寒さを感じながらも、果てしなく続くデスクの間を縫うように研究所の奥へと進んだ。先程の気配は、確かに標本庫の方からあったような気がした。暗闇の中へと進む茜の心臓は既に早鐘のように打ち響き、手の平にはしっとりと汗が滲んできた。既に30メートルは進んで来たであろうか。明かりも届かなくなり漆黒の闇が襲ってきた。あと一息で壁際の電灯のスイッチに手が届くというところで、茜はいきなり後ろから何者かに後頭部を殴られた。振り返る間もなく、茜はその場に倒れ込み、そのまま意識を失った。


「ああ、よかった。気がついたか。」

 茜は朦朧とした意識の中でその声を聞いた。ハッとして目を開けると、白っぽい天井がボンヤリと目に入り、その隣におぼろげな人影が浮んできた。

「ここは、どこかしら。」

 ベッドの上に起き上がろうとした茜は、しかし、ズキリという激しい痛みに顔を歪めた。

「まだ無理だよ。おとなしく寝てなきゃ。」

 洋一は起き上がろうとする茜を制しながら、自らもベッド脇の椅子に腰を下ろした。

「昨日の夜だよ。研究所の警備員が倒れている君を発見したのは。」

 警備員? 研究所?…、しばらくして茜の脳裏にようやく昨夜の出来事が蘇ってきた。真っ暗な研究所の中で何者かに襲われて…、その後のことは何も覚えていない。一体何があったというのであろう。

「警備員が午前零時の巡回の途中に君を発見して、それですぐに病院に。」

 洋一はさらに説明を続ける。

「どうやら何者かが研究所に忍び込んだらしい。そこを君に発見されたんで、いきなり。とにかくよかった。命に別状はないそうだ。1週間もすればよくなるだろうって。」

 洋一はホッと胸を撫で下ろすかのように説明した。しかし、茜の不安は消えなかった。

「泥棒が? でも一体何をしに。あんなところに金目の物なんて何もないはずだけど。」

 茜の問い掛けに一瞬洋一の顔が曇った。洋一の顔には明らかに迷いの色が浮んだ。その瞬間を、しかし、茜は鋭敏な感覚で捉えた。

「ひょっとして。」

「そう、そのまさかだよ。盗まれたのは、固形メタンのサンプルだった。」

 茜は、ああやっぱりという表情で枕に顔を突っ伏した。

「今朝、研究所の人が出勤してきて調べたところ、標本庫の扉が破られていて、例のものがなくなっていたそうだ。」

 しばらくして、茜は再び顔を洋一の方に向けた。

「でも、おかしいわ。あそこに固形メタンのサンプルがあるって知っていたのは、洋一と私、それと研究所の中のごく限られた人だけ。」

 そこまで言い掛けて、茜はアッと小声を上げた。

「そう、君の推察の通りだよ。犯人は研究所の中にいる。それもかなり近しい人だ。」

 茜は、自分が今進めている研究のことを知っている同僚の顔を1人1人思い浮かべた。チームリーダーも含めてせいぜい10人という数であろう。その中に犯人がいる。茜は信じられないという表情をして見せたが、気を取り直して話を続ける。

「でも、大丈夫。固形メタンの分析は終わったわ。それにレポートも。」

 と言い掛けて、茜は再びアッと小声を上げた。

「先輩、悪いけど、私のバッグ。」

 茜はそう言いながら上半身を起こそうとして、再び頭に走った激痛に顔を歪ませた。

「ああ、寝てなきゃ。バッグってこれのこと?」

 洋一は再び茜を制しながら、ベットの脇机の上に置かれていた赤い色のハンドバッグを差出した。茜はバッグを受取るや否や、大慌てで中を弄り始めた。

「ない、ないわ。ディスクがない。」

「ディスクって?」

「固形メタンの分析結果のレポートよ。昨日の夜それを保存したCDをこのバッグに入れたの。家に持って帰って読み返そうと思って。」

 茜の顔色はみるみる蒼ざめていった。

「と言うことは、それもやられたっていうことか。」

 洋一は大きな落胆のため息を漏らした。固形メタンのサンプル、それに出来上がったばかりのレポート、確かに近しい人間にしか知る術のないものばかりであった。この前の潜水艇の事故といい、今回の事件といい、明らかに2人の調査を妨害している人間がいる。それも1人や2人ではない。複数の人間が2人の行動を密かに監視している。2人は背筋に冷たいものが走るのを覚えて絶句した。

「でも、レポートのバックアップはハードディスクの中にも残っているんだろう。」

 洋一は何とか茜を励まそうとするが、見通しは暗かった。

「だと、いいけど。」

 茜は諦め気味に呟いた。仮に研究所の中の近しい人間が犯人だとしたら、茜のパソコンも破壊された可能性が高い。いやそれに間違いないであろう。これはただの妨害工作ではなさそうだ。幻のバクテリアが世の知るところになると都合の悪い連中、それもかなり高いレベルの人間が介在しているのは間違いないようであった。


 3日後、洋一は大手町の気象庁に戻った。わずか二週間ほど離れていただけにもかかわらず、随分と中の雰囲気が変わったように思えた。例のニュースが流れて後、気象庁への人の出入りが倍加した。事の真偽を確かめようとする政府関係者、大学の専門家、そしてそれらの後を付け回すマスコミ関係者等々、さまざまな人がエレベーターホールを往来した。洋一は行き来する人の流れを避けるように、エレベーターに乗り込もうとした瞬間、フイに後ろから声を掛けられた。

「津山さん、お久しぶりね。」

「か、葛城さん。」

 洋一は突然の桂子の登場に少し驚いた様子で立ち止まった。その間にも、エレベーターの扉が閉まり、洋一は一階のホールに1人取り残された。

「津山さん、大変でしたのね。お怪我はなかったかしら。」

 洋一が1人になったのを確認すると、桂子は洋一の耳元で囁いた。

「け、怪我って?」

「あーら。おとぼけになって。潜水艇のことよ。大変でしたのね。」

 桂子は不遜な笑みを浮かべて、洋一を柱の陰に導いた。

「ど、どうして、そのことを。」

「あーら。私は何もかもお見通しよ。潜水艇の事故のことも、それにバクテリアのことも。」

 洋一は顔から血の気が引いていくのを覚えた。潜水艇の事故といい、固形メタンの盗難といい、偶然とは思えない事件が相次いでいた。しかし、その仕掛人が葛城桂子であったとは全く予想だにしていなかった。桂子は洋一とは目を合わさず、斜め向かい視線を向けながら話を続ける。

「そろそろお諦めになったら。いるかいないか分からない、そんなものを血眼になって探すことにどんな意味があるのかしら。そんなことより私と一緒にいらして頂けない。わが日本国には、まだまだあなたを必要としている方々が大勢いらっしゃるのよ。」

 桂子の目は明らかに誘惑の色に満ち溢れていた。洋一の脳裏には、再び先日の首相との面談のことが浮かび上がった。自分を必要としている人間がいるというのは、恐らくああいう野心に満ちた輩のことであろう。洋一は自らの運命が既に大きな政治の渦の中に巻き込まれていくのを感じずにはいられなかった。

「ば、馬鹿な。馬鹿げている。日本もアメリカも間違っている。皆、間違った道に歩もうとしている、そのことに気が付いていないだけなんだ。」

「あーら、それはどうかしら。今じゃ、アメリカの右に出る国は世界中どこを探しても見当たらない。アメリカが全てなのよ、何もかも。アメリカの考え方が世界のスタンダードであり、アメリカが世界の中心であり、アメリカが世界の正義なのよ。悔しいけど。もう何者もアメリカを止めることは出来ない。だとすれば、アメリカに着いていくしかない。それが唯1日本が生き残ることのできる道なのよ。そうは思いません。」

 桂子は一気に自説をまくしたてた。やはり、と洋一は思った。桂子は自分たちとは違う世界に住む人間なのだ。何が国益に叶うのか、スタンダード自体も全く異なってしまっている。これ以上議論しても無駄のようであった。

「帰ってくれ。二度と僕の間に姿を見せないでくれ。」

 洋一は壁に向ったまま吐き捨てるように呟いた。桂子は、洋一の言葉には答えず、代わりに意味深な最後の言葉を残した。

「いいわ。分かったわ。でも津山さんもせいぜい身辺にはお気を付けなさって。政府はあなたが思ってるほど甘くはないわ。これは私の本心。あなたのような人をこのまま失いたくはないの。」

 桂子は、そう言いながらそっと洋一の肩に手を掛けようとした。洋一はその手を振り払うかのようにエレベーターに乗り込んだ。

 

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