第2話 ロンドン

一週間後、洋一のデスクの電話が鳴った。

「もしもし、津山さん、桂子です。」

「か、葛城さん。」

 洋一は一瞬戸惑った。たった一度だけ昼食を共にしただけでファーストネームで名乗られるいわれはない。桂子は驚いて声を失っている洋一に構わず、すぐに自らの用件を切り出した。

「ちょっと会って頂きたい人がいるのですが。」

「誰ですか。」

「ゴメンナサイ、電話では言えないわ。明日、外務省まで来て頂けないかしら。」

 外務省と聞いて洋一は驚いた。気象庁とはあまり縁のない役所である。しかも面談相手の名は電話では言えないという。余程のことなのであろうか。洋一は嫌な予感がしたが、断る理由もなかった。

 翌日、指定の時間に外務省を訪れた洋一は、受付で桂子の名を告げた。待つこと5分桂子が受付まで下りて来た。

「有り難うございます。来て頂いて。」 

 桂子は先に立って洋一を中へと案内する。エレベーターに乗り込んだ桂子は、素早く3階のボタンを押す。ドアが閉じるのを確認した桂子は改めて口を開いた。

「今日会って頂く方は、林田駐米大使です。」

 洋一はそれを聞いて仰天した。駐米大使といえば事務次官経験者の上がりのポスト、つまり外務省のトップ中のトップを極めた人物である。洋一のような下級官僚からすればまさに雲の上の人、顔を見ることすらない人間である。それが一体洋一に何用があるというのか。ピンポーンという音とともにエレベーターが3階で止まる。桂子はエレベーターを下りながらさらに続ける。

「大使は、今火急の用件で帰国されています。それと、今日ここで大使とお会いになったことはどうか内密にお願いします。」

 洋一は、内密と聞いてまた驚いた。何やら雲行きがますます怪しくなってきた。緊張の余り、歩みを進める洋一の足は石のように固くなっていった。大臣室、事務次官室、審議官室、次々と外務省幹部の部屋が続く。やがて2人は長い廊下の端の特別応接室の前に立った。ここは審議官クラス以上の外務官僚が外国の要人を迎えるための部屋であった。桂子は静かにドアをノックすると、素早く中に入る。洋一もその後に続いた。

「大使、津山さんをお連れしました。」

「いやー、済まなかったね。呼び出したりして。」

 洋一が部屋に入るや否や、大使は立ち上がって出迎えた。大使はやや小柄な体つきで、その柔和な表情からはとても外務省のトップを勤めた人物のようには見えなかった。大使は、洋一にソファに座るよう奨めると、自らも向かいの席に座った。桂子も速やかに脇の席を取る。

「早速だが、今日来てもらったのは、君の「氷河期」説とやらについて少し話を聞きたくてね。」

 何の前置きもなく、大使はいきなり本題を切り出した。

「氷河期、ですか。」

 氷河期と聞いて、洋一はまたもや仰天した。思わず桂子の方に視線を向けた洋一に対し、桂子は静かに頷いて見せた。

「そこにいる葛城君が面白い話をする人がいるっていうもんでね。それで私も是非一度聞いてみたいと思ってね。」

 洋一は一瞬にして大使がウソを言っていると思った。氷河期の話を聞いてみたいというのは分かる。でも大国の大使が、しかもこのような場所で隠密裏に話を聞きたいというのは、どう考えても不自然である。

「なぜ、そんな話を。」

 洋一は話を始める前に理由を尋ね返した。大使は、理由を聞かれて一瞬戸惑ったような表情をして見せたが、すぐに平静を装って答えた。

「いや、大したことではない。君も知っているだろう、この前の京都会議の結果を。私も勉強不足を痛感したよ。もっと勉強しないと、と思ってね。」

 なるほど、道理ではあった。アメリカの説得に失敗した責任の片棒は駐米国大使にもあるのかもしれない。しかし、洋一はまだ納得できなかった。地球温暖化の勉強なら、お偉い大学の先生はいくらでもいる。何も洋一のような若手研究員をわざわざ呼び付けるほどのことでもあるまい。しかし、今度は大使も考える暇を与えなかった。

「それで、君はどうして氷河期が来ると思うのかね。」

 突然聞かれて今度は洋一の方が戸惑った。しかし、そこは流石に自分の専門分野、洋一は順序立てて、氷河期が来るメカニズムについて桂子に説明したときと同じように説明した。逐一頷きながら聞いていた大使は、洋一が話し終わるのと同時に深いため息をついた。

「そうか不思議なこともあるものだ。地球の温暖化が実際は氷河期入りのトリガーになるとはな。そうか、我々は今とんでもない方向に向っているのかもしれないな」

 しばらく腕組みしたまま沈思黙考していた大使は、やがて徐に口を開いた。

「津山君と言ったかな。今日はどうも有り難う。とても面白かったよ。それと悪いが私とここで会ったということは内密にしてくれないか。」

 大使の口から再び「内密」という言葉が出てきた。洋一はもとより他人にしゃべる気はなかったが、何かとてつもなく大きな渦に巻き込まれていくような、そんな漠たる不安が心中を過ぎっていった。


 師走。成田空港出発ロビー。

「全日空201便ロンドン行きにご塔乗のお客様はゲート番号51番にお進み下さい。」

 ロビーにアナウンスの声が響く。ボーディングパスを握り締めた洋一の胸には期するものがあった。温暖化防止会議の決裂、氷河期到来の可能性、そしてあの大使との内密の面談、この二ヶ月程の間に起きたことが今洋一の頭の中でカオスとなって渦巻いていた。洋一は答えを求めてロンドン大学の恩師の元を訪ねることにした。ブラウン博士。ロンドン大学地球科学部の教授で、洋一が留学中に師事した人物である。

「よーいちさーん。」

 洋一が出発ゲートに進もうとした時、後ろで自分を呼ぶ声がした。振り返った洋一の目に飛び込んで来たのは勢いよく手を振る茜の姿であった。分厚いコートに身を包んだ茜は、息を切らして洋一のところに駆け寄って来た。

「ど、どうしたの。」

 洋一は目を丸くして訪ねた。

「今から、ロンドンに行くの。」

「う、うそだろー。」

 洋一はさらに仰天した。しかし、洋一は茜の手の中に自分と同じボーディングパスがあるのを発見して、茜が大真面目であることを知った。

「ケンブリッジ大学で海洋生物学の学会があるのよ。」

 しかし、洋一は茜の言葉が俄かには信じられなかった。こんな真冬に、しかもタイミングよくフライトが同じというのはどう見ても不自然であった。学会というのは嘘で、本当は自分を追いかけて来たのかもしれない。いやきっと、そうに違いない。でもまあいいか、1人よりは2人の方が旅も楽しいし、しかも相手が茜であればなお更である。そんな洋一の胸中を知ってか知らずか、茜は1人嬉しそうにパスポートを開いていた。

 12時間のフライトの後、2人は雪のヒースロー空港に降り立った。このところ温暖化傾向の続いていたイギリスでは10年ぶりの大雪であった。なるほど洋一の言うように寒暖の振幅は年を追うごとに大きくなっているようであった。

「ホテルはどこ。」

「予約してないの。」

 茜の返事に洋一はまたもや驚いた。茜は平然とスーツケースをゴロゴロ転がしながら、ホテルの予約カウンターへと向かう。しかし、しばらくして茜は困ったような表情をして戻って来た。

「空いてないの。この大雪でフライトのキャンセルが相次いで、どこも満員らしいの。」

 世界の金融都市ロンドンは決してホテルの数は少ない方ではなかった。一流ホテルから小さなB&Bまで、大抵は予約なしでも簡単に泊まることができる。しかし、今日は特別のようであった。緯度の高いロンドンもどうやら雪には弱い街のようであった。茜は困り果てて、空港の到着ロビーに座り込んでしまった。出鼻を挫かれた思いで、洋一はほっとため息をついた。ここに茜を置いてゆくわけにもゆかないし、どう考えても答えは1つしかなかった。

「俺のホテルしかないか、とにかくトライしてみよう。」

 2人は空港の地下からヒースローエクスプレスに乗り込む。この列車を使えば、空港からロンドンの中心パディントン駅まではわずか15分の道程である。パディントン駅に着いた2人は雪の降り積もったロンドンの街路をスーツケースを押してホテルに向かう。わずか3分ほどの距離であったが、2人がホテルに着く頃にはすっかり頭と両肩の上に雪が降り積もっていた。

「やっぱり空いていないって。でも俺の部屋をダブルに変更するなら何とかなるって。」

 フロントから戻って来た洋一は茜に交渉の結果を報告した。

「ゴメンナサイ、本当にゴメンナサイ。私のせいで。」

 茜は今にも泣き出しそうに肩を落とした。

「いいよ、運が悪かっただけさ。」

 洋一は茜を慰めながらも、一方で満更ではない気持ちであった。茜はわざとホテルを予約して来なかったんじゃないかという気がした。茜と一緒に仕事を始めて一年半、2人はもう全くの他人ではなかった。

 洋一の部屋は5階であった。2人は格子戸の付いた古ぼけた狭いエレベーターに乗り込むと5階のボタンを押す。2人は黙って点いては消える階の表示板を見つめていた。チンという音とともにエレベーターはガタンと止まった。2人はミシミシと音を立てる廊下を長々と下っていくと、ようやく目的の五○五号室の前に辿り着いた。重い木の扉を開くと、まず壁際の巨大なダブルベッドが目に飛び込んできた。ほの暗い室内灯に照らされた年代ものの調度品が怪しく輝いた。

 日本を出て15時間、日本時間ではもう翌日の明け方近かった。2人はベッドの端に腰を下ろして、やれやれという表情でホッと一息ついた。

「どうして僕がロンドンに行くって分かったの。」

 暫くの沈黙の後、洋一はさり気なく茜に尋ねた。

「一昨日、オフィスの方に電話をして。」

 と言い掛けて、茜はアッと小声を上げた。自分はケンブリッジに行くことになっていたのではなかったのか。

「ゴ、ゴメンナサイ、別に邪魔するつもりは。」

 茜は、嘘がばれてしまったことで、バツが悪そうに下を向いた。

「いいさ。1人よりは2人の方が。そう、いいに決まってるじゃないか。」

 洋一はそう言い掛けて、そっと茜の肩に手を伸ばした。その瞬間、茜の背中は待っていたかのようにビクンと波打った。男と女が1つ部屋の中で2人きり、もう2人を押し留めるものは何もなかった。2人は長旅の疲れを癒すかのように、どちらからともなくベッドに倒れ込んだ。


 翌日、2人はすっかり雪化粧したロンドンの街をロンドン大学へ向った。ロンドンにしては珍しい大雪であった。ラッセルスクエアの冬枯れした木々の枝には昨夜の吹雪で付いた雪の結晶がキラキラと輝いていた。2人は大学のキャンパスに降り積もった雪を踏みしめながら歩みを進めると、やがて「School of Global Science(地球科学部)」という表示の上がった建物の前に立った。

 優に100年は経っていると思われる赤茶けたレンガ色の建物はイギリス独特の重厚な雰囲気を醸し出していた。洋一は回転扉を回して中に入ると、先に立って歩き始めた。かび臭い木の廊下、怪しく光る大理石の階段、6年前と何も変わっていなかった。ここでは時間が止まっているように見える。洋一は大理石の階段を2階へ上がると、複雑に入り組んだ廊下を迷わず進んでいく。やがて2人は「Phd. Dr. D Brown(ブラウン教授)」という表札の上がった部屋の前に立った。洋一が軽くドアをノックすると、中からひょいと髭面の初老の紳士が顔を覗かせた。

「オー、洋一、よく来た。さあ入れ入れ。」

 教授は懐かしそうに顔を崩すと、両手を大きく広げて2人を部屋の中に招き入れた。部屋の中は外と違って暖かに暖房が入っていた。一見して何十年も使っていると思われる調度品がどっしりと置かれ、壁一面に立て付けられた巨大な書棚にはびっしりと古ぼけた書物が詰まっていた。

「お久しぶりです、お元気でしたか。」

「ああ、絶好調だ。そっちも元気そうで何よりだ。」

 2人は両手で固い握手を交わした。

「こちらのレディーは?」

 教授は茜の方を振り向いて尋ねた。洋一は手短に茜のことを教授に紹介する。

「ふーん、要は君のフィアンセってとこだな。どうだ、図星だろう。」

 それを聞いた茜は顔を真っ赤にして俯いた。次の瞬間、3人は顔を見合わせて大笑いした。どうやら教授は一枚も二枚も上手のエンターテイナーのようであった。2人はすっかり打ち解けて、教授に促されるままソファに腰を下ろした。

「ティーにするか、それともコーヒーか?」

 教授はそう尋ねながらも、既にティーポットから紅茶を注ぎ始めていた。ここはイギリス、紅茶の国である。教授の部屋には最初からコーヒー豆はなかった。これも茶目っ気たっぷりの教授のジョークであった。教授は次々と2人の前にカップを差出すと、自らも巨大なマグカップに並々と紅茶を注いだ。

「洋一、君のレポートは読んだよ。全く同じだった。」

 教授は席に着くとすぐに本題を切り出した。今回の訪問に先立って、洋一は例の氷河期のレポートの概略を英訳してE-メールで教授に送っておいたのであった。教授は既に洋一のレポートを読んだようであった。しかし、洋一は全く同じと言われて驚いた。一体何と同じというのか。自分はあのレポートを盗作した覚えはない。それとも自分のレポートが誰かに盗作されたのか。

 教授はゆっくりと立ち上がると、大きなデスクの引出から一編のレポートを取り出して、読んでみろとばかりに、バサリと洋一の前に置いた。洋一は英文で書かれたレポートに目を通し始めた。傍らから茜も覗き込むようにしてレポートを読み進める。読み進める洋一の手は次第にワナワナと震え始め、目はカッと大きく見開かれた。茜も驚きの表情を露にしていく。

「一体これは何ですか。」

「あいつらだよ。あいつら、全てを知ってたんだ。」

 教授は興奮して呟いた。洋一はレポートの表紙を返して、出所を確認する。レポートのトップには「Strictly Confidential(厳秘)」というスタンプがでかでかと自らを喧伝するかのように押されていた。レポートのタイトルは、「Next Ice Age in Europe(ヨーロッパにおける次の氷河期)」とあった。内容はまさに洋一の書いた報告書と同じ、つまり地球温暖化がヨーロッパに氷河期の到来をもたらす可能性があるというものであった。

 しかし、洋一がもっと驚いたのは、そのレポートの日付と発行者の名であった。日付は1995年12月、発行者名は「米国中央情報局」とあった。一体これはどういうことだ。洋一のレポートよりさらに5年以上も前に、アメリカは既にヨーロッパの氷河期入りを予期していた。とすれば、温暖化防止条約に調印しなかったアメリカの意図とは?

「あいつらは我々を滅ぼすつもりだ。」

 教授は吐き捨てるように呟いた。

「信じられない。」

 洋一は絶句した。

「あいつらはもはやアングロサクソンじゃない。これは真の独立戦争だ。君も見ただろう。イラクに対するあの徹底した攻撃を。アメリカは自らが正しいと思うことは、世界中を敵に回してでも貫き通す。例えそれがヨーロッパだろうと同じことだ。」

 洋一はその瞬間、桂子の言葉を思い出していた。「アメリカは絶対に調印しない。」桂子は自信たっぷりにそう言い切った。恐らく桂子はこのことについて何がしかの情報を得ていたのであろう。自分が内密に駐米大使に呼び出されたのも、このレポートの真偽を確認するためだったのではないか。少なくともアメリカは五年も前からこのことを知っていた。知っていてわざと温暖化を押し進める道を選択した。その帰結がどういうものになるかを全て知り尽くした上で。  

 20世紀、第二次世界大戦を境に世界のパワーバランスは完全にアメリカにシフトした。もはやヨーロッパは郷愁を誘う故郷でも庇護者でもなくなった。それどころか、独り立ちした子供に未だにうるさく付きまとう老親になりさがったのである。経済力はアメリカの5分の1にも満たないイギリスやフランスが未だに国連でも大きな発言力を維持している。世界のリーダーを自称するアメリカにとって面白いはずはない。冷戦構造が崩壊した今、アメリカにとってヨーロッパやNATOはもはや無用の存在となった。

 そして、時を同じくするように欧州諸国はアメリカに対抗するためEU統合の流れを加速させている。今後EUが競争相手として台頭してくる前に厚い氷の下に葬り去る方が懸命だと判断したとしても、おかしくはなかった。アメリカとヨーロッパが争う日が来る、洋一はあまりのおぞましさに背筋に冷たいものが走るのを覚えた。

「き、教授、一体どうすれば。」

「わしにもわからん。神に祈るしかなさそうだ。」

 洋一と茜は大きなため息をつくとともに互いに顔を見合わせた。ロンドンが厚い氷に覆われる日が来る。例え自分の代ではないとしても、自らが生まれ育ち、自らが愛した国が消えてなくなるのである。教授の顔からは先程の笑顔はすっかり消え失せていた。


 ロンドンからの帰国のフライト。

 長旅の疲れにウトウトし始めていた洋一と茜の耳に驚愕のニュースが飛び込んできた。

「昨夜、ブラッセルで開かれていましたEU緊急首脳会議において、ヨーロッパ諸国はアメリカに対して自動車や航空機を始め、温暖化ガスを排出する機器類の輸出を禁止することを決定しました。これは先の京都会議でアメリカが京都議定書に署名しなかったことに対する報復措置とみられています。今後、アメリカも対抗措置として同様の禁輸に踏み切ることが予想されています。」

 このニュースに機内のあちこちからも驚きの声が上がった。隣の乗客とヒソヒソ話を始めるビジネスマン、慌てて携帯電話のボタンを押す記者風の乗客、皆それぞれにこのニュースが今後の世界情勢にもたらす影響を測りかねているようであった。

「いよいよ始まったわね。それにしても性急ね。」

 すっかり眠気の吹き飛んだ茜も洋一に声を掛けた。

「京都会議が決裂した以上、ヨーロッパ諸国としては力づくで温暖化を阻止するしかないんじゃないかな。」

 洋一は、昨日のブラウン教授との会話を思い出しながら呟いた。あのCIAのレポートが教授の手元にあったということは、当然にイギリスの識者の間にも幅広く知られているはずである。いやイギリスだけでない、全てのEU加盟国の知るところとなったのである

「ヨーロッパの国々は必死だろう。何しろ自分達の死活がかかっているからね。」

「でも、アメリカも無茶苦茶ね。だって氷河期が来るとアメリカ自身も困るでしょうに。」

 茜は、アメリカが意図的にこの地球を氷河期に導こうとしていることの意味が、未だに飲み込めないでいた。

「いや実はそうとも言えないかもしれないんだ。」

「えっ、それってどういうこと。」

「気象庁の全地球気候モデルによると、ヨーロッパに氷河期が到来した場合、確かにアメリカにも寒冷化の波が押し寄せる。でもアメリカは巨大な国だ。南部から西部にかけて広がる広大な砂漠地帯は温暖多雨の気候に変化するのではないかという計算結果も出ている。」

 茜は信じられないという表情をして見せた。地球は巨大である。ある1つの地域の気候変動が別の地域には恩恵をもたらす可能性もある。気候を操作することが究極の最終兵器になりうるかもしれないのである。洋一は感慨深げにさらに続ける。

「しかし地球って案外もろいものだね。昔から人は自然の驚異に脅かされて生きてきた。そう、人はまさに神が作った環境をひたすら受入れるしかなかったんだ。それがこんな形で自らの手で自分達の住む世界を変えて行こうとするだなんて。もう後戻りは出来ないものなのかな。」

 洋一は大きくため息をついた。茜はしばらく中空を見つめていたが、やがてポツリと思い出したように呟いた。

「1つだけ方法があるわ。いえあるかもしれない。幻のバクテリアよ。」

「幻のバクテリア?」

「そう、今から2億年程前にこの地球に大量絶滅をもたらしたとされるバクテリア。」

「大量絶滅?」

 古生物学は洋一の専門分野ではなかった。洋一は、茜の次の言葉を待った。

「今から2億年以上も前、古生代と呼ばれていた時代には、地球の大気中の二酸化炭素の濃度は約二千ppm、現在の約五倍以上あったと推定されているわ。地球は今よりもはるかに温暖で、地表面の90パーセント以上が浅い海で覆われていた。この海の中では、ほら洋一も知っているでしょう、アンモナイトや三葉虫など奇妙な形をした生き物が一杯泳ぎ回っていた。そんな繁栄の時代が1億年近くも続いた。でもある日突然そうした生物種の95パーセントが死に絶えてしまったの。それが大量絶滅よ。」

「ど、どうしてそんなことが。」

 洋一は信じられなかった。1億年も繁栄を続けて来た生物群がそんなわずかな期間に絶滅してしまうことが本当に起こりうるのだろうか。茜は、話が自分の専門分野におよんできたことで、さらに饒舌になって続ける。

「いろいろな説があるわ。小惑星が地球に衝突して一気に寒冷化が進んだとする説、恐竜などの爬虫類にとって代わられたとする説。でも、最近幻のバクテリアが関与していたのではないかという新説が出てきた。このバクテリアは海水中に溶けた二酸化炭素を直接固形化する性質を有していたの。普通そう類などの植物プランクトンは光合成により二酸化炭素を酸素に変える。でも、このバクテリアは化学合成により二酸化炭素を直接固形メタンに変えてしまうの。光も必要としないわ。その変換効率たるや通常の光合成の約千倍はあったと推定されているわ。このバクテリアが急激に繁殖した結果、地球大気の二酸化炭素濃度がわずか数十年ほどの間に一気に10分の1程度まで下がってしまったの。そして地球に急激な寒冷化が起き、この寒冷化に着いていけなかった生物群が絶滅した。最近、古生代の地層からこのバクテリアの痕跡らしい化石が見つかって、一気に有力な説となったのよ。」

 洋一は驚嘆した。顕微鏡でしか見ることの出来ないような微生物がこの地球の気候を変えてしまう。それもごく短期間のうちに。もしそんな夢のようなバクテリアが本当に存在すれば、地球温暖化の問題などたちどころに解決する。

「それで、そのバクテリアはどうなったの。」

「それがよく分からないの。恐らく二酸化炭素濃度の低下とともに徐々に死に絶えたのだと思うわ。」

 そうかもしれないと洋一は思った。何しろ2億年以上も昔の話である。あまりにも時代がかけ離れ過ぎている。

「でも、わずかにその子孫が生き延びているという人もいるわ。バクテリアの中には何億年も生き延びて現在も地球に棲息しているものもいる。ひょっとすると…。」

「さ、探そう。その幻のバクテリアを。何としても探すんだ。」

 洋一は咄嗟に叫んでいた。このまま手をこまねいていれば、いずれアメリカとヨーロッパは衝突する。氷河期どころではない凄惨な戦いが始るかもしれないのである。

「でも、どこを探せばいいの。全く手掛かりもないのよ。宝島の宝探しにだって地図はあったわ。それすらないのよ。」

 茜の言う通りであった。手掛かりもなく闇雲にこの広い地球を走り回ってもそれは時間の無駄であった。しかも、幻のバクテリアが存在しているかどうかすら、定かではないのである。2人は途方に暮れた。


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