深層海流

ツジセイゴウ

第1話 異変

「深度6千フィート、水温摂氏3度。」

 キャビンに数値を読み上げる大きな声が響く。船は激しくローリングを繰り返し、何かに掴まっていなければ投げ出されそうになる。

「予想外に低いな。」

 洋一はパソコン画面に映し出されるデータ表を覗き込みながら呟いた。津山洋一、28歳。気象庁地球環境局の副主任研究員として、地球温暖化の調査を進めていた。地球温暖化の問題が世間一般に広く知られるようになって久しい。二酸化炭素の排出が原因ではないかと言われてはいるが、本当のところはその原因は未だよく解っていない。影響するファクターがあまりに多すぎて、日本が世界に誇るスーパーコンピューターの全地球気候モデルをもってしても、正確な将来の予測は不可能であった。

「水温が低すぎる、何かの間違いじゃないか。」

「いいえ、計算は合ってるわ。」

 茜は自信たっぷりに言葉を返した。水島茜、26歳。東京海洋大学の大学院で海洋生物学の研究助手を勤めていた。今日は洋一の助手という名目で気象庁の海洋調査船「うみゆり」に乗り込み、小笠原海域に調査に来ていた。共に仕事をするようになって2年、2人はいずれからともなく互いに好意を抱く間柄になりつつあった。

「海水面の水温は25度。100フィートで0.3度として7度はないとおかしい。このデータはそれよりも4度も低い。深層海で何か異変が起きてるんじゃないか。」

 洋一は頻りと首を傾げると、素早くパソコンのキーボードを操作した。画面には水温分布を表わす赤や青の映像が輝く。その時。

「済みません。台風が近付いています。そろそろ引き返した方が。」

 操舵手の声が響く。

「分かりました。そうして下さい。」

 洋一の合図で、操舵手は大きく舵を切った。


 1ヶ月後、気象庁特別会議室。

「い、一体これはどういうことだ。」

 その場に居合わせた聴衆の口から重苦しいため息が漏れた。スクリーンには「過去三十年間の我が国近海の深層海水温の推移」と題されたグラフが映し出されていた。

「ご覧のように、我が国近海の深層海の海水温は過去30年の間に急速に下がってきています。それより以前のデータがありませんので、これがどういう意味を持つのかよくわかりませんが、普通は数千年単位でしか変化しないはずの深層海の水温がこのような短期間に2度も下がったのはやはり異常としかいいようがありません。」

 洋一がパワーポインタを操作すると、スクリーンの表示が変わって今度は日本列島とその近海を示した図が表われた。「我が国近海の深層海水温の分布」と題された地図には、色の異なる等高線のようなカラフルな模様が映し出されている。洋一は、その図を指し示しながらさらに説明を続ける。

「この黄色で示された海域は、深層海水温が八度以下の領域を表わしています。ご覧のように10年前に比べてもそのエリアの面積は約5倍に広がっています。明らかに我が国近海の海水温は下がっています。」

 洋一の声に聴衆たちの視線は一斉にスクリーンに向けられた。確かに黄色のエリアは、十年前は小笠原諸島近海のごく限られたエリアだけだったのが、直近では父島から八丈島付近にまで拡大していた。

「以上で報告を終ります。」

 洋一の合図で薄暗かった部屋に明かりが点り、聴衆一同は大きなため息とともに姿勢を元に戻した。

「で、この結果から何が解るというかね。」

 しばらくの重苦しい沈黙の後、楕円形のテーブルの中央に座っていた局長が口を開いた。地球環境局局長、気象庁の地球温暖化問題の最高責任者である。最近は環境省、外務省、農林水産省等、関係各省庁との間の連絡会等で超多忙な日々を送っていた。

「もう少し分析してみないと解りませんが、日本列島近辺は今後明らかに寒冷化の方向に向かうと予想されます。」

 洋一のその一言に室内にどよめきの声が上がった。

「バ、バカな。君、冗談も休み休みにしてくれたまえ。我々は今、地球温暖化をどうやって阻止するかを議論している。それが寒冷化に向っているだと。」

 局長は話しにならんとばかりに、テーブルの端を叩いた。

「確かに50年、100年単位で見ればそうかもしれません。でもさらにその先の数百年、千年を見通すと、地球全体は着実に氷河期に向って…。」

「ひょ、氷河期だと。は、話しにならん。とにかくこんな茶番劇はもう終わりだ。俺は忙しいんだ。」

 怒りを露わにして、局長はそそくさと席を立った。

「あっ、局長。ちょっとお待ちを。」

 慌てて後を追いかけたのは、課長であった。それに続いて、他の聴衆も次から次へと席を立ち始め、会議室には洋一が只1人取り残された。確かにバカ気た話しかもしれない。地球温暖化防止の国際会議が間もなく京都で開かれようとしていた。その矢先に地球の寒冷化の問題を議論するなど、ボタンの掛け違いも甚だしい。

 洋一は力なく机の上に残された資料を一枚一枚片付け始めた。その時。

「とても面白かったわ。」

 洋一がふと見ると、淡いグリーンのスーツに身を包んだ女性が1人、小脇に配布された資料を抱えて立っていた。長身のその女性はゆっくりとテーブルを回り込んで洋一の前まで進んだ。年格好は30少し前、短く切った髪に、薄い化粧は一見してキャリアクラスの人間と見て取れた。

「あ、あなたは?」

「葛城桂子といいます。元々は外務省の者ですが、今官庁研修で環境省に出向中の身です。」

「そうでしたか。いや、お見苦しいところをお見せしてしまいました。」

 洋一は頭を掻きながら苦笑した。

「いえ、私にはとても面白いお話しのように思えましたが。よろしければ続きをお聞きしたいものですわ。」

 葛城と名乗るその女性は真剣な眼差しで洋一の目を正視した。

「そうですか。では。」

 そう言いながら、洋一は閉じかけた資料をもう一度開こうとした。

「こんなところでも何ですから、よろしければお昼でもご一緒に如何ですか。」

「えっ、お昼ですか。」

 洋一は初対面の女性からいきなり食事に誘われたこともあって返事に窮した。戸惑っている洋一を尻目に桂子はすでに廊下を歩き始めていた。人をリードするのが得意なのは外務官僚の常識なのであろうか。洋一は慌てて桂子の後を追った。

「ここなら静かで、ゆっくりとお話出来ますわ。」

 桂子は大手町のビジネス街にある『ボンソワール』というフレンチレストランにスタスタと入って行く。いつもは気象庁の職員食堂でしか食事をしたことのない洋一は、少し戸惑いながらも桂子に付き従った。恭しく出迎えたウエイターは2人を皇居側に面した静かな席に案内した。

「ランチコースのAにしてください。それとワインはシャンパーニュの白で。」 

 桂子は時折ここへ来るのであろうか、慣れた調子でオーダーを出す。

「わ、私も同じもので。それとワ、ワインは結構です。」

「あら、少しくらいよろしいんじゃありません。」

「いえ、午後にはまた別の会議がありますから。」

「お固い方でらっしゃいますのね。」

 桂子は右手を口に当てるとクスッと笑った。洋一は、慌てて傍らに置かれたグラスの水を口に含んだ。オーダーを取り終えたウエイターが下がっていくのを確認した桂子は、周囲を憚るかのように声を落として話を切り出した。

「先程のお話、氷河期が来るっていうのは本当なんですか。」

「いえ、私もまだ確信があるわけではありません。でもデータを見る限り地球全体が温暖化に向っているとは必ずしも言えないかもしれないのです。」

 洋一は話が自分の専門分野に及んだのを確認すると、自信を持って話し始めた。

「でも、世間では今地球温暖化が大問題になっています。現に来週から京都では温暖化防止に向けた国際会議が開かれるわ。」

 桂子は洋一の話が俄かには信じられないという素振りで尋ねた。

「確かに地球の平均気温は少しずつ上がってきています。しかし、それはほんのここ50年、100年の話です。もっと長いスパンで見た場合、地球は間違いなくまた氷河期に向かっているのです。今から1万2千年ほど前、最後の氷河期が終わり、今我々は間氷期という比較的温暖な時代にいます。でも、地球の長い、長い歴史を振り返ってみると、こうした温暖な時期の方がむしろ短くて、ほとんどの時代地球は氷河期の中にありました。過去50万年の間にこの地球は氷河期を実に5回も経験しているのです。」

 桂子は目を丸くして洋一の話に聞き入っていた。仮に氷河期が来るとなれば、全ては厚い氷に被われ、地球の半分以上は人の住めない土地になってしまう。温暖化どころの話ではなくなる。洋一はさらに続ける。

「今、地球の温暖化問題を扱っている学者たちのほとんどは大気の温度だけを計算に入れています。地球大気の熱効果は、まず太陽の光に始ります。太陽光が地面にあたるとそのエネルギーは熱に交換されます。そのかなりの部分が実は宇宙空間に放射されてしまうので、我々の住む地球は熱地獄になることはなく快適な温度に保たれているのです。しかし、地球大気の中に含まれる二酸化炭素やその他のいわゆる温室効果ガスがこの熱放射を妨げる、つまり温室のように熱が地球の大気圏内にこもってしまうことから温暖化の問題が起きるとされています。この辺りのことは、葛城さんとおっしゃいましたか、あなたも多分ご存知ですよね。」

 桂子は黙って頷いた。この程度の話であれば新聞などでもしばしば取り上げられている。理科好きな小学生なら誰でも知っているレベルの話である。洋一がさらに話を進めようとした時、ウエイターが前菜を手にして現れた。面白いところで話が遮られたので、少しムッとして桂子は椅子の背もたれに身を委ねた。

「スコットランド産のスモークサーモンのマリネでございます。」

 ウエイターが料理の説明をする。2人は仕方なく話を中断して、ナイフとフォークを手にした。洋一はウエイターが下がっていくのを確認すると、さらに話を続ける。

「しかし、地球の気候というのは私たちが考えているほど単純ではないのです。ご存知のように地球の表面積の約七割は海です。実は、私たちはこの海のことについてまだほとんど何も知りません。特に海が地球の気候に及ぼしている役割についてはほとんど解っていないと言っても過言ではありません。ましてや深層海流の役割については。」

「深層海流?」

 桂子はこの耳慣れない言葉を聞いて、思わず聞き返した。

「そう、深層海流です。深い、深い海の底、水深2千メートル位のところをゆっくりと流れる海の大河です。葛城さんも、小学校の理科の時間に『対流』のことは勉強されましたよね。お風呂を沸かす時、あるいはやかんでお湯を沸かす時、熱いお湯は上向きに流れ、冷たい水が下の方へ沈んでゆく。風呂ややかんの中の水はそうやってぐるぐる回りながらだんだんと熱くなっていく。地球も同じですよ。温かい水は上へ上がり、冷たい水は下へ沈む。南極や北極から流れ出た冷たい水は深い海の底へ沈み込み、海の底を這うようにして赤道付近まで流れていく。しかも何百年という時間をかけてね。」

 桂子は驚嘆した。一様にみえる海の水がこのような大きな潮流となって地球を循環しているというのはまさに自然の驚異であった。しかも何百年という気の遠くなるような時間をかけて。

「一番有名なのはグリーンランド沖の深層海流の沈み込みです。グリーンランドの沖合いは北極海から流れ出た冷たくて塩分を多く含んだ重い海水が巨大な滝のような流れとなって大西洋に沈み込んでいます。そこで沈み込んだ海水は大西洋を南下し、アフリカ大陸の南端を回り込んでインド洋に入り込み、最後は太平洋のど真ん中までやって来ます。何千億トンという海水がとうとうと海の底を流れ下るのです。今、小笠原近辺の日本海溝を流れている深層水は凡そ千年前にグリーンランド沖で沈み込んだものなのです。」 

 桂子は何やら胸が詰まる思いがして、そっとナイフとフォークを置いた。しかし、洋一の話はここでは終わらなかった。この後、桂子は仰天するような洋一の仮説を耳にすることになる。

「でも最近、この深層海流の流れが急速に弱まっているらしいという報告がなされています。つまり海という大きなお風呂の水が対流しなくなってきているのです。」

「それが止まってしまうと、どうなるんでしょうか。」

 桂子は心配そうに洋一の顔を覗き込みながら尋ねた。

「地球に大規模な気候変動が起きるのは間違いありません。ある地域は寒冷化し、ある地域はもっと暑くなる、つまり地域での気候差がさらに激しくなるということです。どこがどうということははっきりとは予測できません。今日でも世界の国によっていろいろな気候があります。暑い国、寒い国、雨の多い国、少ない国…。でもこうした違いは私たち地球気候学者から見れば大した違いではないのです。いえ、むしろその違いは小さいといえるでしょう。海が大循環をしてくれているからこそ、地域による気候の較差が平準化されているのです。世界の多くの国が、多少の難はあっても何とか人が暮せる気候を維持できているのはまさに深層海流のお陰なのです。」

 今の世界の気候がまだ平準化された結果だって。桂子は耳を疑った。ロシアでは冬は氷点下30度まで下がる、砂漠の国では夏の日中の気温は軽く50度を超える。最近では日本ですら暑苦しい夏を経験している。しかし、この男はそれがまだモダレートだというのである。だとすれば、海の循環が止まれば一体どうなってしまうのか。桂子がその恐ろしい結末を聞く前に、少しばかりの猶予を与えるかのように、ウエイターがやって来た。

「本日のメインの舌平目のグリルでございます。」

 2人の目の前には、巨大な二枚重ねの皿に載せられたメインコースが置かれた。しかし、桂子は料理に手を付けずに、話を聞くために身を前に乗り出した。そしてそのすぐ後、洋一の留めの一言が発せられた。

「深層海流の流れが止まった場合、同時にメキシコ暖流の北上も停止すると予想されています。そうまさに大きな海の循環が完全にストップするのです。そうなれば、ヨーロッパの平均気温は約10度は下がるでしょう。ヨーロッパは夏でも寒風が吹き荒れ、数十年のうちに厚い雪と氷に覆い尽くされてしまうでしょう。今、ヨーロッパが緯度の割に比較的温暖な気候を享受できているのは、全てはこのメキシコ暖流のお陰なのです。」

「そ、それって、ヨーロッパに氷河期が来るということじゃ。」

「いえ、ヨーロッパだけじゃありません。ヨーロッパ大陸が雪で覆われた場合、太陽光は地面に吸収されず乱反射されてしまいます。そうなると今度は地球全体の気候にも影響が及んでゆきます。そして次第に気温が下がる地域が拡大して行き、最後は今の亜熱帯地域より緯度の低い場所を除けば、ほとんどが人の住めない世界になってしまうでしょう。私が先ほど『氷河期』と言ったのはそういうことなのです。」

 桂子は洋一の話を聞いて、気が遠くなりそうになった。地球が極寒地獄に覆われる日が来るかもしれないのである。自分達の世代はまず大丈夫であろう。しかし、孫の孫のそのまた孫の時代には随分と違った世界になってしまっているかもしれないのである。

「それで原因は解っているんでしょうか。なぜ深層海流の流れが止まってしまうのか。」

 桂子は興奮を抑えながら、やっとのことで質問の言葉を発した。

「地球の温暖化が原因ではないかと言われています。」

 桂子は耳を疑った。地球温暖化が氷河期の原因。地球が暖まっていることがどうして氷河期の原因になるというのか。頭の回転には自信のあったはずの桂子も、今度ばかりはこのきつねに化かされたような話に、頭の中がグルグルと混乱した。

「アッハハ、驚かれたようですね。でも事実なんです。地球が温暖化したことで北極圏の氷やグリーランドの氷河が大量に解け出しました。その結果、グリーンランド沖の海水の塩分濃度が下がり、深層海流の沈み込みかストップしてしまったのです。このまま放置していますと、早ければあと50年ほどで深層海流の流れは完全にストップしてしまう可能性すらあります。そうなれば海水全体の対流の駆動力が失われ、やがてはメキシコ暖流の北上もストップしてしまうでしょう。ヨーロッパの国々にとっては、氷河期の到来は差し迫った危機でもあるのです。」

 テーブルの上はいつの間にかデザートのシャーベットが置かれていた。桂子は話に夢中で自分がメインコースを食べたのかすらよく覚えていなかった。そんな桂子の顔をしっかりと正視して、洋一は話を結んだ。

「地球の気候はものすごくデリケートに出来ています。ごくわずかのバランスの崩れが後になって取り返しのつかない大きな気候変動に発展することも有り得るのです。『地球温暖化』というと、一般の人は地球全体の気温が上昇するものと思っておられるようですが、さらにその先でもっととんでもないことが起こる危険性もはらんでいるのです。」

 桂子はゆっくりと食後のコーヒーを口に含んだ。

「津山さん、今日は有り難うございました。とても有意義なお話でしたわ。」

「い、いえ、こちらこそ。私のような者の話に興味を持って頂いて有り難うございました。」

 洋一が恐縮している間にも、桂子はさっさと勘定書きにサインを終えていた。


 一週間後、京都国際会議場。

「レディース エンド ジェントルメン。本日この会議の議長を努めさせていただくことを大変光栄に存じます。皆様すでにご承知の通り、地球の温暖化は我々の予想を上回るスピードで進行しております。既にいくつかの国、地域におきましては熱波、干ばつといった異常気象、そして海面の上昇といった災害に見舞われております。今ここで我々に何が出来るのか、この疑問に対する答えを見出すことが切に求められており…。」

 宝ゲ池にある国際会議場のメインホールは各国から集まった2千人を超すデリゲーションで埋まり、熱気に満ち溢れていた。演台には会議の議長国を勤める日本の環境大臣の姿があった。急速な地球温暖化の進行を止めるため、今回の会議では二酸化炭素の排出量の削減を義務づける京都議定書への調印が主要議題となる予定であった。

 メイン会議場に入り切れなかった代表団に混じって、洋一と茜は控え室のモニターテレビで会議の模様を見ていた。

「ねえ、この前のあの女の人、一体誰なの。」

 茜は声を潜めて洋一に尋ねた。

「女の人?」

「呆けたってダメよ。ほら一週間前、大手町のレストランで会ってたでしょう。それも2人っきりで顔を突き合わせてひそひそ話。」

 茜は少しムッツリとして詰め寄った。洋一とは、これまでお高いフランス料理店なんか一度足りとも行ったことはなかった。それが見知らぬ美女と2人っきりで食事となると、内心穏やかならぬものがある。

「何だ、君。見てたのか。あの人は外務省のキャリアで、別に怪しい人じゃない。この前の僕の話に興味を持ってくれて、それで…。」

「どうだか。やけに嬉しそうだったけど。」 

 茜は相変わらず不機嫌な口調で続ける。

「おいおい、君、まさかやいてんのか。」

「そんなんじゃないわ。」

「しっ。」

 茜の声に、周囲にいた聴衆から叱責の視線が向けられ、2人は思わず首をすくめた。


「このように、二酸化炭素の排出が温暖化の原因であることは明らかであります。今すぐここで排出量を規制しないと取り返しのつかないことになり…。」

 ビデオのモニター画面は何時の間にかゲストスピーカーの基調講演に移っていた。会場の熱気を避けるようにメインゲートの外に出た2人は、ゲート前でテレビ局の記者が立ちレポートをしているのに遭遇した。会議の模様を伝える原稿が次々と手渡される。記者は額に汗を光らせながら、刻刻と入る会議の様子を伝えていた。

「午前十時過ぎ、ここ京都国際会議場で地球温暖化の防止会議が始りました。今回の会議では、温室効果ガスの削減条約でありますいわゆる『京都議定書』に各国が調印することになっています。温室効果ガスの最大の排出国でありますアメリカは今のところ議定書には調印しない意向を表明しており、議長国であります日本が最後の説得工作を試みる手はずになっています。いわゆる化石燃料の最大の消費国であるアメリカがこの議定書に調印しなければ削減効果が限られるとして、すでにヨーロッパ各国からも強い不満の声が上がっており、議長国であります我が国は非常に難しい立場に立たされることになりました。果たして説得が成功するのか、予断を許さない状況です。以上、京都宝ゲ池の国際会議場からの中継でした。」

 原稿を読み終えた記者は汗を拭きながらプレスセンターの方へ戻って行った。


「どうしてアメリカは議定書に調印しないのかしら。」

 立ちレポが終わるのを見届けた茜は独り言を言うように尋ねた。

「経済への影響が大きいからだよ。アメリカは全世界の化石燃料の実に四分の一を消費している。平均的なアメリカ人1人が消費する石油の量は、日本の約2倍、アフリカなどの途上国に比べれば80倍近い較差だ。それだけ大量の化石燃料を消費することであの強い経済を維持しているんだ。仮にアメリカが議定書に調印することになればたちどころに彼らの経済は立ち行かなくなる。」

 洋一はゆっくりと踵を返すと、ゲートの方へと歩き始めた。

「随分と身勝手ね。だって議定書にはほとんど先進国が調印するんでしょう。なのに世界のリーダー役であるはずのアメリカが調印しないなんて。」

 茜は、小走りに洋一の後を追った。

「そう、そこがまさに最後の砦だ。もし調印しなければ、アメリカは先進諸国の中で孤立する。いくらアメリカでもそんな危ない橋を簡単には渡らないだろう。日本の説得工作もそのあたりがポイントだ。アメリカも結局は調印するんじゃないかな。」

 洋一は、アメリカの調印についてまだ楽観視していた。いくら世界の超大国といえども、その辺りの分別は残っているはず。アメリカはギリギリまで粘って少しでも有利な条件を引き出そうとしているだけかもしれない。しかし。

「それは、どうかしら。」

 その声に2人が振り向くと、そこには桂子の姿があった。

「か、葛城さん。」

 洋一は思わぬ場所で桂子にあったことに驚いた。桂子は環境省のデリゲーションの一員として今日の会議に随行して来ていたのである。桂子はゆっくりと2人のところに近付いてくると、さらに話を続ける。

「私は、アメリカは調印しないと思うわ。アメリカは実利を追求する国。自らが正しいと信じることは、たとえ世界中を敵に回しても貫き通す。それがアメリカという国よ。イラクを攻撃した時もそうだった。世界の反対を押し切って、単独でも攻撃するとまで宣言した。」

 桂子は自信たっぷりであった。縁無しの丸い眼鏡の奥にある瞳がキラリと輝いた。その目は自信に満ち溢れていた。

「どうしてあなたにそんなことが言えるの。そのアメリカを説得するのがあなた方の役目でしょう。まだ交渉も始っていないのに、どうしてそんなことが。」

 茜は即座に噛み付いた。桂子の自信に満ちた断定的なもの言いも気に食わなかったが、何よりも自分以外の女性が洋一に近付くことが不愉快でならなかった。

「この方は?」

 一方の桂子はじろりと観察するように茜の顔を睨み付けた。

「水島茜君だ。今東京海洋大学で海洋生物学の研究をしている。」

 洋一は桂子に茜を紹介した。桂子は軽く儀礼的な会釈を交わすと、話を続ける。

「水島さんね、よろしく。外交の世界は時として世の中の常識が通らないことがあるの。皆が最善と思っていることでも、国益が絡むと全く反対の結論を下すこともあるわ。残念ながら事務レベルではもう答えは出てるの。」

 桂子は改めてきっぱりと言い切った。アメリカを説得するための外交交渉は半年も前から続けられて来た。各国の首脳が国際会議の席に着くときには、大抵の場合もう答えは出ている。いくら日本が頑張っても、余程のことがない限り逆転はありえないのである。外務省のキャリアとして外交の修羅場を経験して来た桂子にとって、その辺りのことは百も承知していた。


「話にならん。」

 激しくドアの開く音に続いて、顔を強張らせた代表団がゾロゾロと廊下に出て来た。彼らは一様にドイツやフランスなどヨーロッパの国々の国旗の付いた名札を胸にしていた。

「ちょっと待って下さい。」

 その一団を追いかけるように2人の日本人が走り出て来た。どうやら事務局を勤める環境省の担当者のようであった。洋一と茜が、恐る恐る扉の中の様子を伺うと、後に残された3人のアメリカ人らしい代表団が何やら小声でヒソヒソと話を続けていた。

「うまく行かなかったのかしら。」

 茜は洋一の耳元で呟いた。辺りの張り詰めた空気が、交渉の難しさを物語っているようであった。やはり桂子の言うとおりなのであろうか。確かに交渉は大詰めを迎えていた。京都議定書は2012年までに温室効果ガスの排出量を1990年比、6~7パーセント削減するという内容であった。EU各国と日本は既にこの議定書に調印する意向を表明していたが、唯一アメリカだけがまだ調印を拒んでいた。

 そして、会議が始まって3日目の夕刻。

「日本の懸命の説得工作にもかかわらず、最大の温室効果ガスの排出国であるアメリカが結局議定書に調印しないまま温暖化防止会議は閉幕することとなりました。」

 テレビ画面には交渉の決裂を伝えるレポーターの姿があった。

「やっぱりダメだったか。」

 洋一と茜は、この模様をロビーのテレビで見ていた。その場に居合わせた各国の代表団からも大きなため息が漏れた。長年かけて交渉を続けてきた条約に大きな風穴が開いてしまったことに対する失意の念だけが空しく残った。アメリカ抜きでは果たして温室効果ガスの削減にどれほどの効果が上がるというのか。その答えは何世代も後の子孫にしか分からないのかもしれない。

 しかし洋一には1つ気になることがあった。「アメリカは絶対に調印しない。」、桂子はなぜあそこまでハッキリと断言し切ったのであろう。何かある、桂子は何かもっと重要なことを隠している。洋一は心にわだかまりを抱いたまま京都を後にした。


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