夏の夢

@okataka

第1話

 僕はいつもグレゴールと一緒にいた。そのことを深く考えたことなんてなかったけれど、グレゴールが僕を受け入れてくれていたのだと思う。

 グレゴールはとても利口でとてもバカだった。「1+1=2」という確かな数式もグレゴールにかかると不確かなものになった。

「1つと1つを合わせると2つじゃないの?」

 先生は石ころを2つ両手に持ってグレゴールに示した。するとグレゴールは自分の0点のテスト用紙(彼はいつも0点だった)と僕の76点のテスト用紙をテープで張り付けて、

「1枚と1枚を合わせても1枚だよ。」と言った。

 先生は顔を真っ赤にして大きさが2倍になっていると理屈を述べたけれど、先生が押し付ける理屈よりも、グレゴールの屁理屈の方がより大切なように僕には思えた。


 グレゴールの家は農家で色々な野菜を作っていた。彼は2人兄弟で、お兄さんは名誉あるロッテンガムリン大学に奨励金をもらって15歳で進学した天才だった。グレゴールのお父さんとお母さんにとってお兄さんは自慢の息子だった。それをグレゴールがどう思っていたのか、自分をどう思っていたのかもうわからないけれど、僕は、世界で一番賢いのは、有名なグレゴールのお兄さんではなく、いつもクラスで一番テストの点数が良かったスコットでもなく、天文学者の娘で休み時間に天文図鑑をずっと眺めていたキャシーでもなく、いつもテストは0点のグレゴールだと思っていた。


 僕らはよく学校の裏の川で遊んだ。魚の手づかみは僕の方が数段上手だったけれど、釣りはグレゴールにかなわなかった。

「どうやったらそんな風によく釣れるんだい?まるで川の中の魚が見えているみたいだ。」

「僕は魚の気持ちを考えて釣りをしているのさ。」

「魚の気持ち?そんなのわかるの?」

「ほら、よく川を見てごらん。魚は見えないけれど川の流れはだいたい決まっているじゃないか。魚だってバカじゃないのさ。美味しいごはんが流れてくる場所を探して命がけの陣取りゲームをやっているんだよ。どこの陣地に居ればご飯をたくさん食べられるのか、そうやっていつも競争している。それが魚たちに取っては当たり前のことさ。その当たり前に逆らわずにいると、勝手に魚はかかってくれるよ。」

「確かに川は同じように流れているけれど、僕は魚じゃないんだから、どこが魚にとって有利な陣地なのかなんてわからないよ。」

「まぁ、そんなこともあるよね。」

 グレゴールはよくこう言って笑った。その顔を見ると僕もなんだかうれしくなって笑ってしまう。川の中の魚が見えていたわけではないけれど、グレゴールには、見えないけれど確かにあることがよく見えていたように思う。


 言うまでもないことだけれどグレゴールと僕はクラスでは浮いていた。僕は勉強することより、みんなと遊ぶことより、グレゴールに会うことが楽しかったし、そのために学校に通っていた。グレゴールは学校の成績なんかちっとも気にしていなかったわけだから二人が浮いてしまうのは当然だ。勉強が大好きなスコットはグレゴールのことが特に気に入らなかった。一緒にいる僕もよく嫌なことを言われた。

「グレゴール、どうしていつもバカなふりをするんだ。」

 スコットはよくグレゴールを叱った。

「僕はバカなふりなんかしていないよ、みんな僕がバカなことは知っているじゃないか。」

 グレゴールはにっこり笑う。

「グレゴール、僕は君が本当は僕と同じくらい優秀なことを知っている。君のお兄さんのように大学進学を考えてもいいくらい優秀だとね。その才能を無駄にするつもりなのか。優秀な人間は凡人と一緒にいるべきではない。それが社会のためでもある。」

 僕はスコットが嫌いだったけれど、グレゴールはスコットを面白がった。

「僕は大学に行くより家で美味しいきゅうりを作っていたいな。そっちの方が向いていると思う。勉強もきゅうり作りと同じように面白ければいいのだけれど。どのきゅうりが一番よく育つか、どうしたらおいしいキュウリができるのかという大切なことを、学校の先生も、お兄ちゃんも、上手に教えてくれたことがない。」

「じゃあ君は何のために学校に来ているんだ。」

「そんなのみんなに会いに来ているに決まっているじゃないか。スコットとこうやって話もできるしね。きゅうりはちょっと、無口で愛想がないから。」

 僕はそれを聞いて笑い出してしまった。スコットはそんな僕をギロリと睨んだ。

「僕は君のことを心配しているんだぞ。」

「それはありがとう。でも僕は毎日幸せに暮らしているよ。」

 スコットは顔を真っ赤にしていた。しかし僕はこの時内心ドキリとしていた。必ずやってくるけれど自分のことであって自分のことではないようなモヤモヤした未来が見えたような気がしたから。グレゴールは本当に農家を継ぐつもりなのだろうか。僕はスコットの言う通り凡人で勉強は好きではなかった。特技もなかった。みんなより多少優れている点といえば、垂直跳びの高さがクラスで2番目だったことと、魚の名前を誰よりも(グレゴールよりも)たくさん知っていることくらいだった。それから数日は真面目ぶって不確かな未来について考えていたように記憶しているけれど、すぐに考えることを忘れてしまった。片思いをしていたメアリーがアレックスと良い仲だという噂が流れてそんなことを考える余裕がなくなってしまったのだ。しかしこのモヤモヤした未来はこの時から僕の心の居候になった。


「街の光が届かない山の中で、空いっぱいに広がる星を見に行かないか。」

 グレゴールがこういって僕を誘ったのはその年の夏休みが始まってすぐだった。おじいさんが遠くの山の中で暮らしていて、そこから見る星がなんとも美しいからと。僕はすぐに行く決心をした

 出発はもう次の日だった。父さんと母さんにはかなり叱られたが、もう了解してしまっているから変更はできないと押し切った。おじいさんの家まではバスを乗り継いで山裾まで4時間、そこから自分の足で山を登って3時間というなかなかの行程だった。山裾に着いたとき、目の前にはただ緑の木立だけがあった。

「グレゴール、ここを登って行くのかい?」

「そうだよ。途中に綺麗な湧水もあるからそれを楽しみに進もう。これから最低3時間の行程だから急がないと日が暮れてしまう。日が暮れる前にはたどり着かないと何にも見えなくなってしまう。星は見えるからそれでもここに来た意味はあるかもしれないけれど。」

「いや、グレゴール、僕はできれば君のお爺さんの家で寝たい。」

「じゃあ、さっそく行こうか。」

 僕らはドンドン足をすすめた。木立の中を歩くことは気持ちの良いことだったけれど、2時間もずんずん歩けば疲労困憊。平地よりも涼しいとはいえ、夏の空気によって汗が溢れる。持ってきた水筒の水も空になって、口の中がからからに乾いたころに、湧水地点に到達した。この水の美味しいこと。べたべたのシャツを引き延ばすように大きく深呼吸した。澄んだ空気とは決して無味無臭ではないことを知った。当たり前の香りを軽やかに運んでくるものなのだ。僕の身体と心は澄んだ空気を親友のように歓迎していた。

「さぁ、もうひと頑張りしよう」

 それから1時間ほど山を登ると急に木立がなくなって大きな岩が現れた。そしてこの岩こそおじいさんの家だったのだ!確かにところどころに穴が空いていて窓がはめ込んである。

「すごいでしょう。岩アリの巣って勝手に僕は呼んでるんだけど。これ自体は遺跡なんだって。何千年も前に人が少しずつ岩を削って作ったんだってさ。」

 その岩の家は山の中腹の開けた場所にあって、そこからこれまで登ってきた山と向かいの山とがV字に山裾を成している。遠くに町の煙も見えた。グレゴールがその家のなかに入っていく。僕は恐る恐る後について行った。

「おじいちゃん、来たよ。」

 グレゴールのおじいさんは大きな人で、真っ赤な鼻をして、髭で口は見えなかった。髪は白髪がもじゃもじゃ生えていて、山男が説得力をもってそこに存在していた。部屋の中には銃などの狩猟用具、木で作られた籠などの入れ物、何に使うのかもわからない大きな機械が並んでいた。部屋の真ん中には囲炉裏があった。

 おじいさんはとても小さい声でしゃべっているのか、その声を僕は全く聞き取れなかった。けれど、グレゴールにはきちんと伝わっていて、時折笑ったりしていた。僕にはそれが不思議でならなかった。

「今日は猪鍋だって。ついているよ。猪は捕まえるのが難しい。」

 ついているといわれたがこれから毎日猪鍋を食べることができた。この期間に僕は多くの重大な経験を積むことになる。この猪鍋はその象徴のように僕の記憶の中に刻み込まれている。

「今日は雲が出ちゃっているから星を見に行くとしても明日だね。」

 その日は猪鍋を食べるとすぐに寝ることにした。二人ともとても疲れていたということもある。岩の中の家は意外と涼しかった。蚊帳を張ってその中に布団を敷くのだけれど、蚊帳を張るのも初めてだったのでうまくいかず1匹の蚊が蚊帳の中に入ってしまって、二人で蚊を追い出すのに20分かかってしまった。蚊がいなくなってからは外から聞こえて来るカエルの声と虫の音を子守唄にぐっすり眠ることができた。


 翌朝は5時に目が覚めた。山全体から一斉に「ジャワワワー」という大きな音が響いていて、僕は飛行機が墜落してくる夢を見てしまって飛び起きたのだ。寝ぼけてはいても飛行機の音ではないことはすぐに分かった。しかし何の音だろう?雨の音にしては騒がし過ぎる。第一窓からは燦々と太陽の光が入ってきている。思案しているうちに耳が慣れてくると、「ジャワワワー」という音が「ニーニー」だとか「ジージー」、「ミンミン」、「ワシワシ」といった音の重なりであることが分かってきた。僕がごそごそするものだからグレゴールも目を覚ました。

「グレゴール、この音はなんだい?音楽隊でもいて朝になるとみんなを起こすために合奏する習慣でもあるの?」

「・・・音楽隊?あぁ、これは蝉だよ。僕らの街にはいないからね。わからなくて当然だね。それにしても音楽隊とは、やっぱり君は面白い発想をするね。確かに蝉の大合唱だ。」

 グレゴールは目をこすりながらゆっくり答えた。蝉時雨という言葉はもう少し大人になって知った言葉だが、この言葉を聞くと、今でもこの壮大な蝉の合唱が耳によみがえってくる。

「今日は蝉を捕りに行こう。そして、捕まえた蝉で音楽隊を作ろう。」

 グレゴールは僕をからかったわけではなく本当にそう思っている。蝉は僕の知らない多くの種類がいた。それを一つ一つグレゴールが説明してくれた。アブラゼミからはおしっこをひっかけられた。グレゴールはケタケタと笑った。クマゼミは大きすぎてじっと見つめられると気持ちが悪かった。ミンミンゼミが鳴き方も姿かたちも一番かっこいいと思った。ただ、ミンミンゼミはいつも高い木の上の方にいて1匹しか捕まえることができなかった。

「蝉は何年も土の中にいるのに、外に出て来たら1週間で死んでしまうんでしょう。それで悲しくて鳴いているのかな。」

 僕は学校で習った蝉に関する唯一と言っていい知識をひねり出した。

「メスは鳴かないよ。」

 それは僕の知らない新しい知識だった。

「メスは鳴かないの?」

「そうだよ。今君が捕まえているそのアブラゼミだって鳴いていないだろう。メスなんだよ。」

 僕はもう一度しっかりとアブラゼミを見つめ、少し振ってみたりした。確かに手の中で必死に羽をばたつかせはするけれど、全く鳴かなかった。グレゴールも蝉をじっと見ながらつぶやいた。

「君やヨハン先生は1週間しか生きられない蝉がかわいそうだって言うけれど、本当にそうなのかなぁ。メスは鳴きもしないんだから、きっと違う意味があるんだろう。」

「先生もそう言うんだからそうなんじゃないかな。僕だって、1週間しか生きられないと知ったら、蝉みたいに大きな声で泣いちゃうかもしれない。」

 グレゴールは少し考えてから答えた。

「そうか。君が言うならそうなのかもしれない。だけど、僕は、1週間しか生きられないとわかっていたとしても、真っ暗な土の中に一人でいるより、光にあふれた世界の窓をあけてみたいと思う。」

 グレゴールは続けた。

「土の中から出て来て、目の前に広がる新しい世界を、喜んで鳴いている、僕みたいな蝉も中にはいるかもしれない。」

 僕はもう一度考えてみた。蝉から不意に問われた生や死の意味について。

「ごめん、わからない。」

「僕にだってわからないさ。」

 グレゴールは笑った。僕は捕まえていたアブラゼミをぱっと離した。アブラゼミは勢いよく空へ登って行った。

「だけど、そんな蝉は他の蝉とは違っているから一人ぼっちの世界を生きているのかもしれないね。」

 グレゴールの言葉を聞きながら僕は蝉が消えた空をずっと追いかけた。その言葉と視線の先に僕だけの世界の入り口が確かにあったのだと思う。この時はまだ開くことはなかったけれど、確かに僕はその瞬間、思考の中で僕の世界を自覚していた。新しい何かを知ろうとするときには常に不安が付きまとう。この時僕は新しい自分の世界を確かに感じながら、この不安によって、この扉を開くことをおそらく本能的に拒否したのだ。

「グレゴール、僕は君と一緒にいるこの世界が面白いと思っているよ。」

 僕が急に真面目にこんなことを言い出すものだからグレゴールは少し驚いた顔をした。僕自身少しそんな自分に驚いていた。グレゴールはそれでもすぐに笑った。

「ありがとう。僕も君と一緒にいるこの世界を気に入っているよ。」

 僕が初めて自覚した僕の世界はグレゴールが導いてくれたものだった。自分の世界を自覚したと同時に、グレゴールの世界も確かに在るということを自覚した。グレゴールが孤独といった世界が、確かに在るのだという寂しさを感じていた。


 その日の夕方、星を見に行く算段を岩アリの巣の中で練っていた時、グレゴールが急に外をじっと見つめ始めた。窓からは西日が強く差し込んで、遠くに入道雲がドンと浮かんでいた。「ケケケケケー」とまた新しい蝉の声が聞こえてきたとき、すーと冷たい風が頬の横を流れて行った。

「どうしたの、グレゴール。」

「・・・・来る。」

 グレゴールは突然走り出すと靴も履かずに外に飛び出していく。僕はあわててグレゴールを追いかけた。

 グレゴールは岩の家から少し離れた断崖の先をめがけて走って行った。山肌は夕焼けに照らされ黄金に輝き、入道雲がすごい勢いでこちらに近づいてきて青から赤へと変わっていく空のグラデーションを鈍的に切り裂いていた。夕日は正面から僕らと山を照らしている。山向こうにはもう入道雲が落ちてきていた。僕は刻々と変わりゆく景色の美しさに目を奪われて一瞬足を止めた。その時、ビューっと冷たい重い風が強く吹き上げて、湿った土臭い匂いを運んで、僕を正気にもどした。僕は断崖の先端に足を広げてしっかりと立ち尽くしているグレゴールにゆっくり近づいた。入道雲がついに頭上に手を伸ばしてきてぱらぱらと雨の滴が落ちはじめたけれど、滴は夕日に照らされキラキラと輝いていた。

「グレゴール、家に入ろう。」

 グレゴールはじっと何かをにらんでいる。

「・・・・セシル」

 僕が反射的にグレゴールの視線の先に目を移した時、視界の隅ではもうそれを捉えていた。もやりとした薄黒い何か、うごめく影。もやもやとしたその空間を認識したと同時に、その空間がギラッと輝いて僕の目は眩んだ。それは雨粒の優しい光とは違う、暴力的な白い輝きだった。それは一瞬の出来事であったはずだけれど、僕のにはもう少し長い時間のように感じられた。真っ白なめまいを起こした僕は頭の中でそれが何なのかを確かに考えていた。グレゴールの言葉を繰り返していた。僕は怖いと思わなかった。美しいと思った。ボーっと眼の焦点があってきたときにはその空間にはもう何もなくなっていた。雨の滴が大きくなり、あたりの気温が急激に下がっていくのが分かった。僕は夢のような輝きから何とか正気に戻ってグレゴールの腕をつかんだ。

「グレゴール家に入ろう。」

 グレゴールの腕を引っ張るとグレゴールは力なく僕に従ったけれど、ずっとさっきのあの空間を睨み続けていた。岩の家に入る前に僕らは豪雨に包まれてしまった。僕はグレゴールの腕をギュッとつかんで絶対に離すまいと思った。


 岩の家からおじいさんが飛び出してきて僕らを大きな腕で捕まえると、風呂場に連れて行って風呂桶の中に投げ込んだ。僕はもうなにがなんだかわからなかったけれど、熱いお湯をかけられるとはじめて自分の体がひどく冷えていることに気が付いた。それはグレゴールもおんなじだった。二人ともガタガタと震えていた。おじいさんは無言で熱いお湯を僕らにかけ続けた。どのくらいの時間だったのだろう。少しずつ寒さは和らいでいった。

 お風呂から出るとホットミルクをおじいさんが淹れてくれた。甘い香りがした。はちみつが入っているようだった。僕らは黙ってホットミルクを飲んだ。雷鳴が家中に響いて、落雷によって度々地面が揺れた。


 ホットミルクを飲み終わり猪鍋から湯気が立ち始めたとき、おじいさんがグレゴールに話しかけた。

「だーだらとめなんて・・・セシルのめえええええとらくれする」

「・・・・」

 おじいさんは猪鍋をかき混ぜた。猪肉と味噌の香りが部屋の中を満たしていく。

「おじいちゃん、僕は今日、繋がることができたように思う。」

「ぼろろろふるげらぽろーち・・・・」

「僕、やっぱり行ってみたい。」

「・・・・」

 おじいさんの声を始めて聞くことができたけれど、言語として聞き取ることはできなかった。それでも、単語からもセシルのことを話していることだけはわかった。

 僕はこの日初めてセシルを感じた。あの美しい輝きは『セシルの涙』だったのだ。ギラッと暴力的に輝いた『セシルの涙』が頭に浮かぶと僕の身体はまたカタカタと震えだした。おじいさんは素早く猪鍋を僕に渡した。僕は震える手で猪肉を口に運んだ。今度はすぐに震えは落ち着いた。

「近づきすぎたんだよ。でも、すぐによくなる。」

 グレゴールは言った。僕は無言で猪鍋を食べた。外からはカエルの声が響きはじめ、虫の音も帰ってきていた。


 みんな知っている神話。刹那の女神セシルは昼と夜の神様から生まれた。昼でもない夜でもない時がこの神様の居場所。だけど、昼の神様と夜の神様はこの世界を二人で包んでいたから、セシルは生まれたときからこの世界に居場所なんてなかった。セシルはいつも泣いていた。世界を見たいと夢見ていた。そんなセシルをかわいそうに思った昼の神様と夜の神様は、夕暮れ時に二人が交代する刹那の時間をセシルのために空けることにした。ほんの一瞬の時だけれど、その時だけセシルは自由に世界を見ることができた。『セシルの涙』はセシルが刹那の時間の終わりを惜しんで流す涙。

 夕暮れ時に強烈な白い光が発生する、不思議な現象は時折起こる。それがなぜ起こるのかはまだ解明されてはいないけいれど、こういう現象を昔の人も不思議に、面白く、意味ありげに感じて、色々な神話を残したのだろう。『セシルの涙』もそういう神話だとこの時まで思っていた。そしてこの神話はこのように結ばれる。

「どんなに『セシルの涙』が美しくとも、決してその涙に触れてはならない。触れればセシルの世界に連れて行かれて二度と戻ることはない。」


 空から雲がいなくなるとそこには満点の星空があった。

 草の上に寝転がると目の前に無数の星が広がった。天の川が流れ、星のまたたきがまぶしく感じられた。

「ベガ、デネブ、アルタイル・・・夏の大三角形でしょう?」

 グレゴールに聞いた。

「そうだね、今日は本当に星がきれいだ。」

「雨が空の塵を落として行ってくれたおかげだね。天の川なんて、僕、初めて見たよ。空にはこんなに沢山星があったんだね。」

「あ、流れ星。」

 スーッと青白い線を残して、流れ星は消えていった。

 二人で黙って星を見た。『セシルの涙』を思い出したけれど体は震えなくなっていた。

「織姫も彦星も、天の川を毎日渡っちゃえばいいのに。」

「グレゴール、川を渡ってしまったら神様をもっと怒らせちゃって、一生会えなくなるかもしれないじゃないか。」

「でも1年に1回しか会えないなんて、悲しくて仕事なんてできなくなるよ。」

「じゃあ、どのくらい会えればいいのさ。」

「できれば毎日会いたくないかい?君だってメアリーには毎日会いたいだろう?」

 突然の投げかけに僕は戸惑ってしまった。

「ハハハハハ」

 グレゴールの笑い声は遠くまで澄んで響いた。

「君がメアリーのことを好きなことくらい、君を見ていればわかるに決まっているじゃないか。」

 夜でよかった。僕の顔は真っ赤になっているはずだから。耳の先までほてっている。

「・・・メアリーも気が付いているのかな。」

「それはわからないけれど、告白してみる気はあるのかい?」

「うーん、わからない。好きだけれど、どう言ったらいいのか、色々壊したくはないんだ。」

「織姫と彦星も君とメアリーの様なものなのかな。」

 僕はベガとアルタイルを交互に見比べた。カササギが渡すには天の川はあまりに大きな川に見えた。メアリーが居るとうれしい気持ちにはなる。笑顔のメアリーは誰よりも可愛いと思う。メアリーに触れてみたくなることもある。けれど、毎日ずっと一緒に居ることを願っているかと言われると、少し自信がなくなった。

「グレゴールは好きな人、いないの?」

「僕は、ずっとずっと片思いをしている。」

 自分で聞いておきながら全く予想していない答えだった。クラスの中にグレゴールと仲が良い女の子はいなかったし、僕がメアリーの前に行くと緊張してうまく話せなくなるような、グレゴールの特別な素振りを見たこともなかった。

「・・・メアリーじゃないよね?」

「ハハハハハ」

 またグレゴールの笑い声が響いた。

「メアリーのこと嫌いではないけれど、君のライバルではないよ。」

「それじゃあ誰なのさ、僕だけが君から笑われるのはフェアじゃないと思う。」

 僕は少し腹を立ててみせた。グレゴールと女の子の話をするのは初めてだった。グレゴールに好きな人がいるということ、その子が誰かということを聞かずにいられなかった。

「初めて会った時からずっと思い続けているんだけれど、なかなかうまくいかない。」

「クラスの子なの?」

「いや、どこにも入れない子なんだと思う。」

「どこにも入れない?」

「実は、僕はその子のことよく知らないんだ。会うのはいつも一瞬で、すぐに消えてしまう。でも初めて会った時からその美しさに心を奪われてしまった。いつか涙の訳を聞いてみたいと、ずっと思っていた。」

 僕の頭の中に白く輝く涙が浮かんだ。

「セシル」

 グレゴールはじっと空をみている。

「今日、僕はやっとセシルとつながることができた。」

「触ったの。セシルに、涙に。」

 僕は飛び起きた。

「触らせてはくれなかった。いつものように涙を流して消えてしまった。」

「つながったって何?おじいさんともそういう話をしていたんでしょう。」

「君、おじいちゃんの声が聞こえたの?」

 今度はグレゴールが飛び起きた。

「え、何を言っているのかはわからなかったけれど、声は聞こえたよ。」

「そうか・・・」

「グレゴール、教えて、セシルって一体・・・?」

 温かい風がさらりと二人の間を流れていく。いつのまにか虫の鳴き声は止んでいた。

「セシルは、僕らが今いる世界とは違う世界にいる。この世界とあっちの世界の間がどういう具合になっているのか、道みたいなものがあるのか、そういうことは全くわからないけれど、二つの世界がつながるところにセシルは現れる。」

「世界と世界をつなぐ?」

「セシルは刹那の世界への入り口にいるんだ。」

「入り口?」

「セシルに触るということは、刹那の世界への扉を開くということなんだと思う。」

「セシルとつながるということはその扉を開いたってことではないの?」

「今日僕はセシルが現れる場所が分かった。これまでそんなことなかったんだ。確かに何回も僕はセシルと会っているけれど、いつも唐突で・・・。それが今日はセシルの方から、声が、確かに声が聞こえたんだ。僕の名前を呼ぶ声が。」

「僕には、何も聞こえなかった。たまたまなんじゃない?」

 グレゴールは首を振った。

「僕は確かに今日、セシルとつながった。」

「セシルは他に何か言っていたの?」

「・・・・何も。だけど、やっぱり僕は刹那の世界に行ってみたい。わからないことをわからないというのは簡単だけれど、僕はどうしても知りたい。一度は触れてみたい。セシルに、新しい世界に。」

「刹那の世界にいって、帰ってこられるの?」

「それは、わからない。」

 また虫が鳴き始めた。僕らは黙って空を見上げていた。空は高く、星は近く、僕らは今をきちんと共有していた。昼間感じた不安がまた僕を襲ってきた。今のグレゴールの話をそのまま信じるほど僕の理性は柔軟にできていなかった。しかしグレゴールが嘘をつく様な人間でないことはよくわかっていたし、今日僕が確かに体験した事実を理性は心得ていた。だから僕の理性はグレゴールの言う世界を信じるかわりに僕の世界を目の前にぶら下げて見せたのだ。

「グレゴール、君は一人の世界にいるの?」

 僕はこの時、僕の世界の扉を開けた。

「僕の世界にはグレゴールが居る。それなのに君の世界には、僕は居ないの?昼間の蝉のように、君は一人ぼっちなの?」

 視界がぼやけて行く。涙が溢れて止まらなくなった。僕はグレゴールに背を向けて草の上に座った。

「一人じゃない。うん、確かに僕は一人じゃない。君が僕の世界にも居てくれる。そしてきっと君と僕だけの世界もあると思う。今、きっとその世界に僕らは居る。だけど、君の世界に僕が居るとしても、君の世界にはきっともっと大切な何かがあるはずなんだ。その世界の核のような、君をそのまま証明してくれるような何かが。」

 グレゴールはもう僕らの世界から旅立とうとしている。グレゴールはきっとセシルに触る。それがいつかまではわからないけれど。きっと遠い将来のことではない。僕の胸にはたださみしさがこみあげてきた。僕はまた寝転がって星を見上げた。

「グレゴール、いつかきっと、刹那の世界がどんな世界なのか教えてくれないか。」

「君にはきっと、必ず。」

「約束だよ、グレゴール。」

 僕らは星を堪能したあと、岩の家に戻る途中の小川で乱舞する沢山のホタルをみつけた。二人でその蛍を追いかけた。点滅する無数の光はやがて少しずつ数を減らしそれぞれに散っていった。

「世界は、とてもきれいだ。」

 僕は大声で叫んだ。

 岩の家の前でおじいさんが火を焚いていた。イワナ、アマゴ、マス、ウナギ、ドジョウ、ナマズが燻されていた。おじいさんの声はまた届かなくなっていた。グレゴールにだけわかるその声を不思議に思うこともなくなった。

 その夜も沢山話をしたはずだけれど内容は記憶にない。きっとたわいもない、いつものおしゃべりだったのだと思う。だけどこの夜は、これまで生きてきた中で最も清らかな夜だった。


 翌日、家に帰る準備をして最後の猪鍋を食べた。僕が猪肉をうまいうまいと沢山食べたものだから、おじいさんが猪肉の燻製を持たせてくれた。最後にグレゴールと僕は蛍が舞っていた小川へ出かけた。魚を取るための罠を仕掛けておいたのだ。しかしそこにかかって居たのは小さな石亀だった。ちょっととぼけた目をした亀を見て、僕とグレゴールはなんだかおかしくて一緒に笑った。亀はびっくりして首をひっこめた。

「とてもいい日だよ、グレゴール。」

「そうだね。気持ちのいい日だ。」

「亀には災難な日だね。」

「そんな時もあるさ。」

「またこういう日があるといいのだけれど・・・」

 僕らは昨日星空を見ていたように、青い空を見上げた。

「今でもこの空には無数の星が輝いているんだよ。僕らには見えないだけで。」

 グレゴールは言った。

「見えていないだけで、ちゃんとそこにある。」

 しばらく二人で空を眺めた。トンボが飛んでいた。セミも鳴いていた。川の水は冷たかった。草の香りは爽やかで、容赦なく照らす太陽の光で汗がにじんだ。僕らは僕らの世界の中にいた。「行こうか」と僕がグレゴールに言った。グレゴールも「行こう」と言った。二人で走って岩の家に戻った時には、おじいさんはもう家にいなかった。どうやら狩りに出かけてしまったらしい。猪肉の燻製を二人でかじりながら山を下った。バス停に着くころには燻製はなくなってしまった。アスファルトの焼ける匂いを久しぶりに嗅いだことで吐き気がしたけれど、すぐに慣れてしまった。それから4時間のバスの中、僕はずっと寝ていた。疲れていたのかもしれない。たまにバスが揺れて目を覚ましたけれど、グレゴールはずっと何かを考え込むように外を見ていた。それは僕にはどうしようもないことだとわかっていた。僕は僕で、僕の世界の核を見つけ出さなければならないと思った。僕だけの何かを。


 グレゴールと過ごした山の中での経験が僕に世界というものを意識させたことで、世界を知りたいという欲望がムクムクと湧き上がった。夏休みが終わって僕とグレゴールは変わらず仲が良かったけれど、一緒に魚釣りをしたりすることはなくなってしまった。僕は休み時間に図鑑を開いてみたり、本を読んだりしていたし、学校が終わると一人で色々な生物を探しに出かけるようになった。いつの間にか一人でいることが当たり前になっていた。グレゴールが導いてくれた僕の世界に夢中に突き進むうちに、僕は僕の中に僕だけの居場所を見つけていた。グレゴールはこれまでと変わらないようにしていたけれど、窓の外を見つめることが多くなった。それに気付いていたのは、たぶん僕だけだと思う。

 そしてグレゴールは突然学校に来なくなった。僕は先生やクラスメートから「グレゴールは大丈夫だろうか」と尋ねられたけれど、「グレゴールなら大丈夫だよ」と答えた。何が起こったのか、僕にはわかっていた。グレゴールが学校に来なくなった前の日は夏に逆戻りしたような猛暑でひどい夕立が降った。

 グレゴールが行方不明になったと正式に知らされたのはグレゴールが居なくなって1か月くらい経った時だった。正式にというのは、僕らの小さな町ではすでに失踪事件として大方噂は広がりつくしていたのだ。僕は多くの大人たちから何かなかったか尋ねられたけれど、「わかりません」と伝えた。それは決して嘘ではなかった。グレゴールがいなくなってもさみしくはなかった。いなくなったと思っていなかった。青空の中の星のようなもので、グレゴールはグレゴールの世界を生きているのだと確信していた。


 月日は流れて、グレゴールが導いてくれた僕の世界には今もやっぱりグレゴールが居る。そしてきっとこれからもグレゴールは僕の世界に居続けると思う。グレゴールは僕の世界の核があると言ってくれたけれど、まだ僕はその核というものを完全には見つけ出すことができずにいる。でも、その探索の過程で僕は色々な人に出会い、考え、行動することで、僕だけの物語を紡いできた。時折、グレゴールの物語はどんなだろうかと考える。僕の物語はあの時の星やホタルのような美しい物語ではないけれど、いつか僕はグレゴールに僕の物語を最初から語ってみたいと思っている。そして何より僕がグレゴールの物語を聞きたいと思っている。グレゴールが約束してくれたから、きっと僕らはまた会える。いつか暑い夏の日の夕立が僕らを繋いでくれるのだと信じている。

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