接木

鯖吉 葉脈

接木

「なぁさとる、それって何になるんだ?」頬杖を突きながら悪魔が俺に問う。


小学生の頃から、俺の頭の中には悪魔が巣食っていた。テレビで言われるような凶暴性や残虐性の比喩ではない、本物の悪魔だ。突然俺の部屋に現れたそいつはニムと名乗った。「暇だから人間を見に来た」とまるで死神みたいなことを言っていた。


どこへ行ってもついてくるし、家族にも友人にもニムは見えないらしい。気味が悪いのでこいつを追い出そうと必死に足掻いたが、最初の数ヶ月が限界だった。直接出て行ってくれと交渉しても意味はなかったし、家族に相談しても適当に流された後親戚の集まりで「悪魔が見えるらしいんです」と笑い種にされて終わりだった。「狼少年が蒔いた種は何百年経とうと子供おまえらを蝕み続ける。ガキがどんだけ苦しんで助けを求めたって大人にゃこれっぽっちも響かねぇよ。とっとと諦めた方がいいぜ」とニムは言い、その言葉を俺は受け入れてしまった。こうして幼く未完成だった俺の心に悪魔が根付いてしまったのだ。


悪魔と言えば魂と引き換えに何かをくれたりしそうなものだが、そういうのではないという。じゃあ何が目的なのかと聞いてみたが「特にない」と言っていた。本当に暇だから来ただけのようだ。ただ、俺がやることなすこと全てを不思議そうに見て「それはどういう意味があるんだ?」と聞いてきた。例えば美味しいものを食べている時は「どれだけ美味かろうが不味かろうがどうせ1時間後には忘れてるぜ」と言い、友人と遊んでいれば「こんな奴とつるんで何か得があるのか?」とケチをつける。「楽しかった思い出が残れば後で思い出して幸せになれるだろ」と言ってもよくわかっていない様子だった。ニムとの生活は続き、毎日のように「今してるそれって楽しいのか?」「それ何になるんだ?」と聞かれ続けた。一時期は鬱陶しくなり無視していたがいつまでも聞き続けるので諦めた。反対に「何をしたら楽しいと思うんだ?」と聞いたことがあるが、「こうしてここにいることが楽しい」と言っていた。


そんな風に自分のしたことの意味を問われ続ける生活を何年も続けるうちに俺の考え方は少しづつ変わっていった。ニムの言う通り、どれだけ美味しいものも食べてから1時間もすればどう美味しかったのかなんて思い出せなかったし、どんなに仲が良かった友人もこれ以上ないほど愛した恋人もクラスが変わったとか趣味が合わないとかそんな些細なきっかけで疎遠になっていった。その頃には当時の楽しさや喜びなんて心のどこにも残ってはいなかったし、却って傷跡になったものすらあった。


そういう喪失のたびにニムは俺に「あの時楽しかったんだからいいんだろ?」と言った。慰めのつもりなのか本気で言っているのかは知らないが、それを繰り返すうちに”今”楽しかったり嬉しかったりするということがどういう意味を持つのか俺にもわからなくなっていった。いずれ失うのがわかっている楽しさや喜びなんてすべて虚しいものだと感じるようになり、大学を出るころには喜びも楽しさも何かに期待する気持ちすらも無くなっていた。


そして社会に出てしたくもない仕事を”生きている”というだけでこなしているとき、ニムが口を開いた。今思えば大学に通っている頃からニムが俺に何かを問うようなことはあまり無くなっていた。


「なぁさとる、お前今幸せか?」「いや、別に楽しくないよ」「なんでだ?楽しかったことを思い出せば幸せになれるんじゃなかったのか?」「よくそんな昔のことを覚えてるな。人間はそんなに甘くなかったよ、一時の楽しさなんかじゃ腹は膨れない」「そうか、やっぱりそんなもんか。じゃあ本当に楽しいことを理に教えてやるよ」ニムは内緒話をするように顔をこちらに近づけ、気持ち小さな声で話を続けた。


「種を植えるんだ」「種?」「疑心の種だよ。相手が大事にしているものを見極めて、それが本当に大事なのか疑わせるんだ。そうすりゃじわじわ芯が歪んでって人生終わらせる奴らが見れて最高に楽しいぜ。しかも疑心ってのはちょっとやそっとじゃ枯れねぇから長く楽しめる」これまでになく感情を露わにしたニムに圧され、椅子から転げ落ちる。頬を伝っていた冷汗が衝撃で床に飛んだ。「なぁ、ニム。それって.…」「あぁ、ちょうどお前にやったみたいにだよ。あのくらいのガキの頃からやった方が芯まで根張るから面白れぇんだよな。もう俺がいちいち何か聞かなくても飯の味なんか楽しめねぇだろ?そんで二人目の彼女と別れたときの顔は何回思い出しても笑えるぜ。これが楽しかった思い出ってやつか.…って、聞いてるか?」ニムの話はもう全く耳に入っていなかった。こいつが俺のもとに来たのは俺の人生を歪めて楽しむためだったのだ。しかも暇つぶしのために。衝撃、怒り、絶望、どの感情を持つべきかすら分からず声も出なかった。


椅子から転げ落ちたままの俺を見下したままニムは続ける。「本当はネタバラシしないで何世代も楽しむやつなんだけどよ、ちょっと加減間違えたから次の所行くわ。この後ずっと何も楽しめないまま独りで死んでくのみるのも面白いけど、それだとあっという間に終わっちまうからな。まぁ、余生は楽しめるといいな」無理だろうけど、とつぶやきながらニムはどこかへ消えた。


ニムが消えてから数か月経った。奪われた日々を取り返すように必死に色んなことをしてみたが、何一つ楽しめるものはもうなかった。もういないはずのニムが耳の中で「それって楽しいか?」と囁いている。

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