伊梨弥お嬢様の復讐譚

柒谷 寿

伊梨弥お嬢様の復讐譚(前編)

 南雀なんざく学園は、草井くさい財閥が運営する私立学園である。強大な権力を持つ草井財閥の裏では、ヤクザグループ「草井組」が暗躍しているという。


     ○


「南雀学園高等部三年B組の諸君、担任を務める大山おおやま國郎くにおだ。一年間よろしく頼む」


 始業の日早々、今年入った新任の先生が自己紹介をした。多少のクラス替えはあれども、大凡おおよそ見知った顔が見える。


「何あのちょび髭ハゲ、きもーい」


 語彙の乏しい女子のコソコソ話が聞こえる。が女子にイジられるのもよくあること。大山自身も恐らく気にしていない。


「早速出欠取るぞ。磯田いそた麻依まい

「はい」


 磯田麻依。明るい性格と運動神経が持ち前の、クラスの人気者だ。


草井くさい伊梨弥いりや

「はぁい」


 草井伊梨弥。理事長の御令嬢である。彼女の父親、乾一郎けんいちろうは、表の世界では一大財閥の社長、裏の世界ではここら一帯のヤクザを一代にして纏め上げた、草井組の組長である。彼女に歯向かった本校の学生は、皆始末されたとの噂もある。


桜庭さくらば遥香はるか

「はい」


 桜庭遥香。大人しそうに見える彼女だが、一言で言うと伊梨弥の犬。彼女と伊梨弥とは幼少期からの付き合いというのもあるが、いつもくっついて歩いて、言いなりになっている。


代田しろだかい

「はい!」


 代田海。中堅校の本校で成績上位に入る優等生で、俺の親友だ。


 彼等がこの一年、とんでもない事件に巻き込まれる事を、今は誰も知らない。


渡良瀬わたらせ光輝こうき


 おっと、俺の番が来たか。


「はい!」


     ○


 放課後。近所の喫茶店に現れたのは、草井伊梨弥と桜庭遥香だ。


「遥香、また同じクラスになったわね」

「はい、お嬢様。お役に立てること、光栄でございます」

「まあ、何か注文しましょ。遥香、貴女は何がいいかしら。好きなものを頼みなさい」

「ありがとうございます。では、ナポリタンをいただきたいです」

「いいわね。私もそうするわ」

「すみません、ナポリタン二つお願いします」


 やがてナポリタンが運ばれ、食べながらいつものように二人は取り留めのない話をする。しかし、遥香はいつもとは異なる雰囲気を伊梨弥から感じていた。


「お嬢様、今日はなんだか、その、いかがなさいましたか?」

「どうしたのよ、急に」

「いえ、いつもと雰囲気が違うというか…」

「あぁ、そうねぇ…」


 伊梨弥は少し考え込む。言葉を選んでいるような。そんな伊梨弥を、遥香は見つめる。


「遥香、代田さんって、なんかステキな人よね」

「お、お嬢様?」


 伊梨弥の意外な発言に、遥香は驚いた。


「失礼しました。代田さんですか?確か、あの痩せ型でメガネをかけた方ですよね?」

「そう。なんか、あの真っ直ぐな眼が、頭から離れなくて」


 伊梨弥は、海に恋をしていた。所謂一目惚れである。


「左様でございますか」

「何よ、嬉しそうな顔して」

「はい、お嬢様にそのような素敵な方ができたなんて、わたくし桜庭遥香、心から応援申し上げます」

「もう、すぐそう大げさになるんだから!」

「それにしてもお嬢様、このナポリタン、美味しゅうございますね」

「そうね。まあ、飲食店なるものが美味しいものを提供するのは当たり前のことなのだけどね」

「左様でございますね」


 二人は笑みを浮かべて、穏やかな食事の一時を楽しんだ。


     ○


「さて、始業から二週間。そろそろ新たな生活にも慣れてきた頃だろう。ここで、学級委員長を一人決めようと思う。立候補する者は挙手してくれ」


 担任の大山がそう言うと、二人の手が挙がった。草井伊梨弥と磯田麻依だった。


「他に立候補する者は居ないか?では、二人にはそれぞれ志望動機を発表してもらい、投票を行って決めよう」


 学級委員長の投票が始まった。伊梨弥は、小学部からの学級委員長の経験を強調し、その学級経営のノウハウが自分にあることを示した。対して磯田は、学級委員の経験はないが、最後の学年を良いものにしたい、と語った。


「何よ、あの小娘が。経験のない彼女に、私が負ける訳ないじゃないの」


 伊梨弥は、絶対の自信を持っていた。


     ○


「投票結果が出た。公平な投票に、みんな協力ありがとう。それでは結果だが、なかなかの接戦だったな。当選が17票、落選が15票だ。当選したのは……」


 相手もなかなかやるではないか、善戦を讃えよう。伊梨弥は余裕の笑みを浮かべていた。


「当選は、磯田だ。おめでとう。一年間頑張ってくれよ」


 拍手が起きる。その中に一人、伊梨弥だけ取り残されていた。


「え、は?何よ、それ。私が負けた?ふざけるんじゃないよ。大山先生?貴方、ご自分の立場、分かっていらっしゃるのかしら?」

「そう言われてもな。確かに、私は君の親御さんに雇われている身だが、これは学級を挙げての投票だ。どうすることも出来ない。それに、君のお父様は、何よりも不正を嫌うお方だ。こればかりはどうすることもできない」


 伊梨弥は唇を噛んだ。確かに、乾一郎は不正を忌避する。不正を働いたとしたならば、最悪勘当される事も考えられる。


「磯田さん、おめでとう」


 伊梨弥の耳に飛び込んできた言葉が、更に彼女に追い打ちをかける。声の主は、代田海だった。


(代田さんが、あの代田さんが、磯田を讃えている?)


 伊梨弥は、すっかり狼狽えてしまった。


     ○


「遥香」

「は、はい、お嬢様」


 鬼のような剣幕の伊梨弥に、遥香は怯えながら返事をした。


「放課後、いつもの喫茶店に行くわよ」

「かしこまりました…」


     ○


「何よ、あの磯田って女は!」

「お嬢様…」

「分かってる?次は無いのよ、次は!どうして、私があんな小娘なんかに…。しかも、代田さんまで、あんな女に惑わされて…」

「お嬢様!!!」

「ひっ!」


 遥香は、思わず伊梨弥に大声を出してしまった。ウジウジとしている伊梨弥は、自分が知っている伊梨弥ではない。彼女が自分の理想の彼女ではない事が許せなかった。

 この時の遥香の発言がこの後の悲劇の発端になることは、今はまだ誰も知らない。


「失礼。お嬢様は、立派なお方の御息女でいらっしゃいます。お父様は、賢さと強さを併せ持つ、そんなお方の御息女でいらっしゃるのではないのですか?」

「それが何よ。今更そんな事…」

「そのようなお方の御息女たる者、そんな弱気で良いのですか?お嬢様は、草井伊梨弥様は、それで良いのですか!!!」


 伊梨弥はハッとした。これで終わっては、組長の娘ではない。ここから、敗北から、また始まるのである。


「これで終わりじゃない。まだまだこれから」

「その通りです、お嬢様」


 伊梨弥は、口許を吊り上げた。


「ここからよ。ここから始まるのよ。私の」


 復讐が。


     ○


 数日後。放課後、麻依は教室の清掃をしていた。


「遥香、作戦決行よ」

「はい、参ります」


 遥香は教室へ入っていった。


「あら、桜庭さん」

「あら、磯田さん。忘れ物しちゃって。あーあったあった。それでは失礼します」


 遥香は、床に置かれた水の入ったバケツを蹴飛ばした。水が麻依にかかった。


「あーもう、私ったら!」

「きゃぁ!!!ちょ、ちょっと!桜庭さん!」


 伊梨弥が教室に入ってくる。


「遥香、まだなの?貴女遅いわよ」

「あ、お嬢様、失礼しました。すぐに参ります」

「ちょ、待ちなさい!桜庭さん!」


 麻依を無視して、伊梨弥と遥香は教室を出て行った。


「し、代田さん?!」


 廊下に出た二人は、突然現れた海に驚いた。海もまた、忘れ物を取りに来たのである。


「へ!?ああ、草井さんと桜庭さん。何かありましたか?今悲鳴が聞こえた気がしたんですけど」

「こら!桜庭さん!待ちなさい、貴女!」

「ちっ!遥香、行くわよ!」

「はい、私達はこれから用事があるので、失礼します」


 二人はそそくさと走り去っていった。


「なんだあれ?って、磯田さん!?濡れてるじゃないですか!どうしたんですか!?」

「代田さん!桜庭さんは?」

「桜庭さんは、草井さんと一緒に帰っていったけど…。もしかして彼女たちが?」

「うん。桜庭さんがバケツに足をかけてひっくり返してしまって」

「いやはや、これは大変な事になってるな。よし、俺が片付けておく。保健室行って着替えて、帰っていいよ」

「え、でも…」

「平気平気。にしても、本当に感じ悪い奴らだな、あの二人」

「代田さん、ありがとう」


 麻依は、胸の奥が暖かくなっているのを感じながら、保健室へと向かった。


     ○


 喫茶店にて。


「お嬢様、大変申し訳…」


 ダンッ!!!


「申し訳ございません?ふざけるんじゃないよ!代田さんにあんなの見られたなんて、彼からの私の印象が…。本当、どうしてくれるのよ……」


 そのまま伊梨弥は泣き崩れた。


「今件は本当に申し訳ありませんでした。私にもう一度チャンスをお与えください。きっと、お嬢様のお手を汚す事無く、彼女に制裁を与えましょう」


 伊梨弥はゆっくりと貌を上げる。


「今度は失敗は許されないわよ」

「承知の上でございます」


 遥香は生唾を飲んで応答する。


「頼んだわよ。私には貴女しかいないんだから……」


     ○


「磯田さん、プリント配るの手伝うよ」

「あら、代田さん、いつもありがとう」


 事件の後から、海と麻依はよく話すようになった。もっとも、海は麻依の好意にはまだ気付いていないが。海がただお人好しなだけなのだが、そんなところが麻依は好きなのであった。


「きゃっ!」

「麻依、大丈夫か?誰だよ、扉に黒板消し挟むなんて、古典的な悪戯するのは」


 麻依への嫌がらせは、相変わらず続いていた。遥香と、そのお取り巻きによるものである。しかし、海も麻依も、大ごとにしたくなかったため、黙っていた。伊梨弥の権力で始末される事を恐れていた為だ。

 もちろん、度重なる嫌がらせを、海は快く思っていなかった。俺が磯田さんを守らなければ、そう思っていたのだった。


「さて、次の教科は……ん?」


 机の中に何か入っている。


「手紙?なんだろ」


 小さな封筒が入っていた。何となく誰かに見られたくなかったので、それをポケットに忍ばせ、トイレに直行する。個室に入り、開封すると、それは伊梨弥からだった。


 ─────────────────────────────

 代田海さんへ


 今日の放課後、以下に示す場所に来てください。

 話があります。

 貴方にとってきっと大事な事なので、忘れず来てください。


 草井伊梨弥

 ─────────────────────────────

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