第3話:私のお兄様1

 エヴァンは、私の本当の兄ではない。


 5歳までの私の記憶はあまりない。

 両親の顔を見ることも滅多になく、いつも一人で、誰から話しかけられることもなく、ただただ日々が過ぎていった。

 笑いたくても一緒に笑ってくれる人はおらず、無表情に部屋の隅に人形のように立っている侍女がいるだけ。


 たまに乳母が「教育」にくるけれど、姿勢が悪いだとか、お行儀が悪いだとかいうだけで、どうすれば良いかは教えてくれない。

 貴族令嬢なのだから知ってて当たり前、できて当たり前、というのだ。


 そのうち私は乳母を嫌い、彼女が部屋に来ると怒り狂った。

 文句しか言わないのならそばに来るな、と泣き喚き手当たり次第のものを投げつけた。


 憎らしい乳母はお母様やお父様に告げ口し、おかげで私はお仕置きだと陽の入らない暗い部屋に閉じ込められ、ごめんなさいをするまで出さないと言われた。


 私は悪くない。


 当然、絶対に謝らないから!と意地を張って謝らなかった。

 お腹が空いても我慢して、トイレも部屋の片隅で済ませてやった。

 朝と夜の境界がなくなって意識が朦朧として、横になったまま涙を流した。


「みんな、みんな大嫌い!みんな死んじゃえば良いんだ!」


 温かい美味しそうなスープの匂いに意識を引っ張られて目を覚ますと、私はベッドに寝かされていて、知らない男の子が私を見下ろしていた。


「悪いことしたら、意地張らないで謝らないとダメだぞ」


 ホッとした顔で眉を下げ、淡々とその子は言った。


「悪いことなんてしてないもん!悪いことしたのは乳母だもん」


 こいつもメイドや乳母の味方かとカッとなって涙目で怒り散らしたけど、その子は首を傾げて私を見つめてこう言った。


「乳母に何されたんだ?」


 私はずっと我慢していたことを全部告げ、泣き喚いた。

 悪いことなんかしてない。何が悪いのかさえ、わからないんだから。


「そうか、それは乳母が悪いな」


 その子が言った。それから頭を撫でられて、鼻をかめとハンカチを鼻に押し付けられた。


 私は言われる通り鼻をかみ、その子の顔を見た。

 くすんだ金髪が顔にかかり、あまり手入れはされていないようだ。


 使用人の子供だろうか。


 大人じゃない誰かと喋ったのは初めてで、私が興味深そうに彼の髪をそっと掻き上げると、その手を嫌がるわけでも止めるわけでもなく、その下からはとても綺麗な空の青よりも深い青い瞳が私を見つめていた。


「あなた、綺麗なお目々ね」

「そうか」

「お名前は?」

「エヴァン」

「私、アルヴィーナ」

「アルヴィーナか。俺はお前の兄貴だ」

「あに、き?」

「そうだ。これからは俺がお前の家族だからな。一緒に遊ぼう」

「アルと遊んでくれるの?」

「遊ぶだけじゃないぞ。勉強もしなきゃ賢くなれないし、いっぱい食べなきゃ大きくもなれないからな」

「一緒に?」

「一緒にだ」


 私はドキドキして、嬉しくてこくこくと頷いた。


「お前、三日間何も飲まず食わずで物置で死にそうだったんだ。だからこれからは俺と一緒に遊んで、食べて、元気になろうな?」

「わかった。エヴァンと一緒になんでもする」


 それからエヴァンは、どこに行くのにも私を連れていってくれた。一緒に街に行って買い物もしたし、木登りもした。リンゴの木を見つけて、この実が赤くなったら食べれるんだぞと教えてくれた。エヴァンは魔法を使うのが得意で、水を出して虹を作ったり、風をおこして池で草船を泳がせたり、火を起こしてマシュマロという甘いお菓子を焼いてくれたりした。


「大人には内緒な」

「うふふ。アルとエヴァンの秘密ね!」



 でも、エヴァンが私と四六時中一緒に遊んでくれたのは、学園がお休みの間だけだった。エヴァンが学園に通っていることを知り、私はエヴァンと離れるのが嫌で一緒になって勉強をした。もちろん15歳のエヴァンと5歳の私では理解度が違う。さっぱりわからなくて、癇癪を起こした。


「学園なんて行かなくても良いでしょ!エヴァンは私と遊ぶの!」

「勉強しないと馬鹿になるんだぞ?」

「バカでも良いもん!」

「よくないよ。バカには仕事がない。仕事がないと金もない。金がないと、遊ぶ暇も美味しい食べ物も無くなるんだ」

「えっ……?」

「俺はバカだったから貧乏だったんだ。親父様が拾ってくれて、いっぱい勉強させてもらって学園に通えるようになった。だからアルも賢くならないとダメだ」

「エヴァンもバカだったの?」

「そうだ。だからいっぱい本を読んで字を覚えて、計算も練習してお金も数えられるようになった。別の国はこの国と違う言葉を話すから、外国語も覚えて、親父様の商会の助けもできるようになった。アルも賢くなったら俺と一緒に外国に行けるかもしれないぞ?」

「エヴァンと一緒に?」

「そうだ。楽しそうだろ?」

「う、うん!アルもいく!勉強する!」


 エヴァンは毎日学園から帰ってくると、何があったか話してくれたり、私の勉強をみてくれたりもした。エヴァンが学園に行っている間、私はたくさん本を読んで、文字を書く練習も数字を覚える練習もたくさんした。


 エヴァンが早朝訓練として剣を振るっていたのを、私もやりたいと無理を言って一緒に学んだ。私が一週走る間にエヴァンは3週も走れることを知って、必死になってついていった。今から思うと、それすらもエヴァンは私に合わせてくれていたのだろうけど。


 朝日が昇る前に起きるのは大変だったけど、エヴァンがいるからと頑張った。大嫌いだったほうれん草のサラダも食べたし、甘いケーキは歯や骨によくないからとほんの一口だけ。その代わりに森に生えているリンゴやベリーを食べて、お砂糖は我慢した。


 学園が休みになると、私とエヴァンは森で魔法の練習をして、模擬剣で打ち合いもし、街に出かけてはエヴァンのお仕事の手伝いをした。時には、スライムを躾けたりサラマンダーの住処にも視察に行った。上下水道の仕組みについても学んだし、魔蝶と呼ばれる蛾の養殖地にも出かけて、危うく呼吸困難で死にそうになったこともあった。


 もちろん、エヴァンに治療してもらって、事無きを得たけど。


 農夫のお手伝いでエヴァンが土を掘り起こし、私はお芋の収穫を手伝った。

 お駄賃だと言っていくつかのお芋をもらい、エヴァンが料理してくれたこともあった。


 雨の日はたくさん本を読んで、チェスやバックギャモンをして遊んだり、カードゲームをした。

 時折両親に内緒で屋根裏にこっそり入り、宝探しもした。


 そこで見つけた古い銀の髪飾りは今も私の宝物だ。


 エヴァンは物知りで優しくて楽しくてかっこいい。私の自慢のお兄様で、大好きと何回言っても足りることはない。


 街に降りてもみんなエヴァンを知っていて、エヴァンを頼りにして、誰もが親切にしてくれた。特に街の女の子たちはエヴァンに笑顔を振りまいて、手を握ったり体を寄せてきたりした。


 その度にその子たちから動物くさい匂いがして、私はエヴァンにピッタリと張り付いて守備を固めていた。でもエヴァンは全然気にした様子もなく、女の子だからと言って愛想を振りまくこともなかったから、そのうち気にならなくなった。後からメイドに、その女の子たちは、エヴァンが伯爵家の養子だから媚を売っているのだと聞いた。


 ハイエナどもが、図々しい。


 エヴァンが本心から微笑むのは私にだけ。甘い声をかけるのも、私にだけ。


 屋台のおじさんや、お店のおばさんにりんご飴をもらったり、屋台の串に刺したお肉をタダでもらったりもしたけれど、エヴァンはお金がある人はちゃんとお金を払うべきだから、といつもきっちり払っていた。


 市場価格というものについてもエヴァンから教わった。

 お金がないと食べ物も買えないということも理解したし、そのお金を稼ぐには仕事をしなければいけないということも学んだ。


 街では私くらいの子供たちが、ものを売ったり、荷物を運んだりしてお駄賃をもらっているのを見て、私もお金を稼ぎたいとエヴァンに頼むと、エヴァンは自分の仕事を少しだけ分けてくれた。

 私は書類わけの仕事をしたり、水質検査の手伝いをしたりして、クタクタになってようやくお小遣いをもらった。そのお金で何を買おうとワクワクしたけれど、りんごを一個買うのが精一杯だった。


「森で取れるものなのに」

「あの森は伯爵家のものだから、許可なく取ったら泥棒になるんだよ」

「どろぼう?」

「人のものを勝手に盗む人のことだよ。そういう人は罪人になって牢屋に入れられたり、罰を受けたりするんだ」

「罰…」

「鞭で打たれたり、たくさんのお金を払わされたりする。払えない人は奴隷になることもある」

「痛い?」

「うん。すごく痛いと思う。それで怪我をして死んじゃう人もいる。奴隷になったら薬ももらえないし、病気になっても働かされると聞いた。だから皆んな罪人にならないよう、真面目に働いているんだ」

「そうなんだ…。わかった。アルも真面目に働く」

「それがいい」


 エヴァンはなんでも知っていて、嘘をついたり誤魔化したり、盗んだりするのは良くないことだと教えてくれた。鞭は痛いし、人に向けていいものではないということも。


 自分がされて嫌なことは人にもしないようにと約束した。自分が一番大事だけど、困っている人にはできるだけ手を差し出すようにと言われて、私なりに優しい人間になったと思う。


 自分に優しくない人は、他人にも優しくできないとエヴァンは言った。


 でもエヴァンは自分に厳しくて、他人に優しいと私は思う。

 だって、私はエヴァンが怒っているところなんて見たことがないもの。


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