悲しみよこんにちは

主人公が外に目を向けている。


日本と海外の純文学の違いは何かと考えると、答えの一つとして位置するような気がする。


海外といってもいっぱいあるし、作家によって書筋が異なるわけだから当然全てが当てはまるものではなく、なんならてんで的外れかもしれないが、サガンの悲しみよこんにちはを読んで俺はそう思った。



同作は主人公であるセシルが、父とその愛人の三人で暮らしていく中、物語が展開していく。

セシルは愛人に対し尊敬と友情の念を抱いていたが、父親との再婚が決まった途端に母親面を見せはじめうざったくなっていくという展開。なるほど納得。愛人は主人公にとってよき友人ではあったが、母親の代わりにはならなかったというわけだ。


この間に色々と話が進む。環境の変化や時間の移り変わりがフォーカスされ、セシルと彼女を取り巻く人間の関係性、経過していく夏の色彩。そしてその様子を伺い想いを馳せるセシルの機微が描かれていく。少女は父と愛人との間で心動かし、十代の感情の赴くままにあれやこれやと逡巡し、動いていく。


読了後、主人公は最後まで自分と向き合わず、自分を取り巻く誰かのためにあれこれと考えていたんだなと思った。考えは独りよがりで身勝手。近しい人間に抱く愛憎。そして最後にやってきた悲しみ。彼女の傲慢さは一見太々しく共感できないように思うが、いずれも若さから発露したものであり、誰もがいつか抱いた感情を表しているように思う。


セシルはそうした感情を他者に向けていた。自身に潜む情念には蓋をして、外我の世界に感心を寄せていく構成。内面から発露する心模様ではなく、外面の事象に起因する動きが、この作品では描かれてるのだと感じた。


最初に述べたように、サガン以外でも海外文学はこういう傾向があるように思う。老人と海は大魚と海に対して、日の名残は道中に合う人間や過去接点があった人物に対して、変身は自身を取り巻く環境に対してそれぞれ視点が定められ、主人公の思考が浮き出るように書かれている気がする。


あ、でもヘッセとかドストエフスキーは違うかな……他にも該当しない作家は沢山あるなこれ多分。もっと読んでおきたかったな本。学生の頃毎日無為に時間を過ごしていた俺を殴りたい。



まぁでも悲しいみよこんにちはについては外の世界に目を向けた作品だと思うよ。

セシルが悲しみを経て何を得たのか結局俺には分からなかったけど、多分それは重要じゃない。大切なのは、悲しみは誰しもにやってくるし、誰もが乗り越えなければいけないという事かなと、ありきたりな一文を添えて〆とする。



本当は読み返して書きたかったけどどこにしまったか忘れたからしようがない。

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