パッチング・レコーズ

クマネコ

?月?日(?) 救世主は天より舞い降りて

?月?日(?) 天気…雨




 雨の降る午後、人気の無い街の路地裏。


 ――そこで僕は、へいの上に引っかかっている一人の女子高生を見つけた。



 制服姿の彼女は、とても地毛とは思えない綺麗な白銀色の髪を伸ばしていて、通りがかりにすれ違えば、間違いなく目移りするほどの美少女だった。

 こんなアニメにしか出てこないような女の子が傍を通りかかったら、僕だって思わず振り向いてしまう。


 ……けれど、そんな美少女は今、コンクリートブロックを積み上げた塀の上で仰向けになって両手脚をだらりと垂らし、降りしきる雨に打たれてしまっていた。指先すらピクリとも動かない。

 その様子は、まるで竿さおに掛けられたまま取り込むのを忘れられ雨ざらしになる洗濯物のように見えた。


 人知れず雨に打たれ続けるその洗濯物は、すっかりずぶ濡れになって、彼女のトレードマークである白銀の髪も逆さまになった顔にベッタリと張り付き、色もくすんでしまっていた。


 僕は、目前に広がる異様な光景を、暫しの間呆然と眺めた後、とある推測を脳裏に導き出した。


 ――どうやら、彼女はらしい。路地の左右には十数階建てのビルが立ち並び、上を向くと、ビルとビルに挟まれて灰色に曇った空が垣間見えている。

 おそらく、彼女はあの建物の屋上から落ちてきたのだろう。


 落ちてくる途中、左右の壁から突き出たトタン屋根にぶつかったのか、屋根はあちこち大きく凹んでいて、赤い液体が滴り落ちていた。多分、パチンコ玉みたいに当たっては跳ねて、派手に落ちてきたに違いない。


 その子が引っかかった塀も、流れ出る血で真っ赤に染まっていた。辛うじて人間の形を保ってはいるものの、中身はきっと凄いことになっているはず。


 見るも悲惨な事件現場の第一発見者となってしまった僕は、深い溜め息を吐いて差していた傘を畳み、一人雨に打たれる。


 ……それから、「よし」と覚悟を決めて腕まくりし、塀に引っかかった彼女を地面に下ろしてやった。


 下ろしている時、僕はふと彼女の白い顔を見た。

 左頬に深い切り傷があって、首は変な方向にねじれてしまっていたけれど、身元確認できない程ではなかったので、僕は安堵し肩を落とす。顔を打ちつけてみにくくひしゃげた彼女の顔なんて、とても見れたものじゃないと思ったからだ。


 ありえないくらい真っ二つに体が折れてしまっていたから、多分背骨もやっているだろう。他に肋骨あばらが数本、内臓もいくつか破裂しているかもしれない。



 ――けど、彼女の怪我の程度なんて、僕にとってはどうでもよい問題だった。


 問題は、どうして彼女がここから飛び降りなくてはならなかったのか、その理由だ。


 試行錯誤の上、どうにか塀の上から冷たくなった彼女の体を下ろし、地面に座らせて壁に背を持たせかけた。

 相変わらず酷い出血で、彼女の着ている制服のブレザーは、何度洗濯しても落ちないくらい血で真っ赤に染まってしまっていた。


 けれど、それも大した問題じゃない。


 僕は血まみれな彼女の横に腰掛け、早く雨上がらないかなぁ、などとぼんやり考えながら、その時を待っていた。


……すると暫くして、隣に座らされていた彼女の体に、ある異変が起こり始める。



 メキ……メキメキ……



 彼女の胸の内で、肋骨ろっこつのズレる音がした。だらりと地面に垂れたままだった彼女の手元がピクリと動き、細かく痙攣けいれんを始める。


 そして、それまで壊れたあり得ない方向にねじ曲がっていた手脚が、ギリギリ音を立てて元の位置へ戻り始めた。その様子は、さながら関節の折れ曲がった球体人形が、独りでに元に戻っていくさまを見ているようだった。


 次に、シュルシュルと糸を巻くような音がして、大きく裂けた彼女の腹が、傷口から伸びてゆく無数の白い糸によって紡がれ始めた。


 僕は、横に居る彼女の体に異変が起きている間、なるべくそちらの方を見ないように努めていた。


 ――やがて奇妙な音も止み、それまで震えていた手足も落ち着きを取り戻す。再び彼女の方を見やると、もう既に全身の出血は止まっているようだった。


 少女の目がゆっくりと開く。

 彼女はぎこちなく首をこちらに曲げ、海を映したビー玉のように蒼い瞳が、僕の姿を映していた。


 唇が薄く開いた。どうやら彼女は、何かを僕に伝えたいらしい。僕は微かな声を聞き漏らさないよう、彼女の口元に耳を近付ける。


「―――ぶっ!」


 その途端、顔に血をきかけられた。


「ごほっ、ごほっ、ごほっ……」


 どうやら喉奥に溜まっていた血が気管に入ってむせてしまったらしい。おかげで僕の顔は、吐血した彼女のぬるい血で濡れてしまった。


「……あのさ、助けてくれた人に対して、開口一番に血を吐きかけるのは、流石にマナー違反だと思う」


「ごほっ、ごほっ……ごめんなさい」


 少女は咳き込みながら、かすれた声で謝罪した。


「……で、どうして飛び降りようなんて思ったの?」


 僕は制服のポケットからハンカチを取り出し、血に濡れた自分の顔を拭きながら、彼女に尋ねた。


「このビルの上に、飛び降りようとしている男の人が居て、その人を止めようと思ったの」


「……うん、飛び降りようとした人を止めようとしたところまでは分かるよ。でも、そこからどうして自分が飛び降るって結論に達したのかを、僕は知りたいんだ」


「その男の人、どんなに話して聞かせようとしても飛び降りるって言って聞かなくて。……だから、私が代わりに飛び降りてみせたの」


 彼女の弁明に、僕は呆れて溜め息を吐く。


「……相変わらず、紬希つむぎの考えることはよく分からないや」


 さて、今更と言えばすっかり今更なのだが、塀に引っかかっていた彼女――紬希つむぎ恋白こはくとは知り合いだった。

 正確に言うと、同じ学校のクラスメイトという関係だ。


 でも、こうして今日までクラスメイトとしてずっと一緒に過ごしてきたにもかかわらず、僕は未だに彼女の思考回路を理解できないままでいた。

 彼女の考えることは、少なくとも他人が飛び降りようとしている姿を見て、代わりに自分が飛び降りてやろうと思い付くくらい独創的で、ぶっ飛んでいる。……いや、イカれていると言った方が正しいかもしれない。


「その男の人はこう言っていたの。『――自分はこの世界を何一つ変えられなかった。例えここで自分が一人消えたところで、世界は何も変わりやしない。誰も悲しまないし、誰も喜ばない。だから、僕みたいに何も変化を起こせない人間は、この世界から居なくなってしまった方がいいんだ』って」


 ……多分、飛び降りようとしたのは若い男性なのだろう――と、紬希の話を聞きながら僕は思った。

 若いがゆえに強気で、プライドが高く、できもしない誇大妄想を抱きがち。僕だってたまに、自分が生きている間に、全世界から注目されるくらい重大な功績を残すかもしれないなんて、訪れるはずもない未来を空想してしまうことがよくある。


 少しして、路地の向こうから誰かのあわただしい足音が近付いてきた。音のする方を向くと、黒いスーツ姿の若い男が一人、傘も持たずにこちらへ走って来るのが見えた。


 その男は、壁にもたれて座り込んでいる僕らを見るなり顔面蒼白になって、両手で顔を覆い頬に爪を突き立て、ヒステリックな声を上げた。


「あぁ、なんてこった……あぁなんてこった! 何であんな……何で、何であんな真似を!」


(……ほら、やっぱりね)


 駆けつけたその男を見て、僕は心の中でポツリとつぶやき、ゆっくりと立ち上がる。

 そして「は、はは早く救急車呼ばなきゃ!」などと慌てている無責任な男に向かって、取りあえず落ち着くように言った。


「あの、心配しなくても大丈夫です。彼女は平気ですから」

「へっ?……」


 スーツの男は、血まみれで座り込む彼女を見ても何食わぬ顔でそう言い諭す僕の態度を見て、酷く戸惑っているご様子だ。


 ……いや、普通こんな血まみれの女子高生が座り込んでいる状況下で「心配しなくても大丈夫」なんて、逆に戸惑わない方がおかしいだろうと、言い聞かせている自分自身に突っ込みたくなる。


 しかし、僕の言葉に何一つ嘘はない。その証拠に、隣で座り込んでいた紬希は、何事もないようにスッと立ち上がり、怯えている男に青い瞳を向けた。


「私のことなら大丈夫です。この通り、何ともないですから」


 そう言って、紬希は男の前で両腕を広げて見せる。まるで外国にあるイエスキリストの彫像のように。

 男はヒッと声にならない悲鳴を上げて、だらしなくその場に尻もちをついた。


 きっとこの男の目には、彼女が死から復活した救世主にでも見えているのかもしれない。


 彼女の着る制服は血まみれで、あちこち破れてボロボロだったが、破れ目から覗いていた傷は全て白い糸で紡がれ、綺麗に塞がっていた。

 もちろん僕がやった訳ではないし、こんな風に丁寧に傷を縫えるほど、僕の手は器用じゃない。


 これは全て、彼女の持つ「力」によるものだ。


「私のことは心配しないで。あなたが無事で居てくれたのなら、それでいいんです」


 紬希は、ついさっき縫合されたばかりの頬の傷跡を指で軽くなぞりながら、言葉を続ける。


「あなたの言うことは正しいわ。私も今、こうやってビルの屋上から飛び降りてみたけれど、見ての通り、この世界は何も変わっていない。何の変化も起こせていない。飛び降りるだけ無意味だった」


 実際にその行為をやったこともない人間が「飛び降り自殺なんてやめろ」なんて言ったところで、おそらく彼の心の内には何も響かなかっただろう。


 でも、実際に僕らの前でそれを試してみせた彼女の放つ言葉は、自殺志願者である彼を思い止まらせるのに十分過ぎるほどの説得力があった。


「私やあなた一人じゃ、世界は変えられない。この世界は、あなたみたいな人間に構っているほど、優しくなんかない」


 男はその場に崩折れたまま、呆然ぼうぜんと紬希の言葉を聞いていたが、やがて嗚咽おえつを漏らし、涙を流し始めた。

 無情な現実に目を戻され、自分がいかに無力なのかを思い知った男は、絶望に暮れて、この世に生まれて来てしまったことを心の底から嘆いているようだった。


 「私やあなた」――紬希の言うその「あなた」の中には、多分僕の名前も入っているのだろう。僕ら人間は、一人だけじゃ何もできない。それを知れただけでも、紬希がビルの屋上から飛び降りた意味はあったのかも知れない。


 しかし、本来ならここで終わるはずだった僕らの会話は、続く。紬希の次なる一言によって。


「……でも、、できる」


 紬希には、本来終わるべき会話のその先まで言葉を紡ぐことができるほどの、強い意思と決意を持っていた。


「……えっ?」


 泣いていた男は顔を上げる。

 男の目に映ったのは、子どものように無垢で、どこまでも真っ直ぐな瞳を向けている紬希の姿だった。


「私たちなら、この世界を変えられる。……だから、後は私たちに任せて、あなたは自分に与えられた人生を、精一杯に生きて」


 そう言って紬希はくるりと踵を返し、男に背を向けた。


「行こう、凪咲なぎさくん」


「あ……うん」


 僕は急いで彼女の後に続く。


 すると、泣き崩れていた男が、「……ちょ、ちょっと待ってくれ!」と、背後から僕らを呼び止めた。


「ほ、本当に……本当にあんたたちなら、この世界を変えられるのか? ……あんたら、一体何者なんだ?」


 そう問いかけられ、僕らは振り返る。紬希の蒼い瞳が、ここには無い新たな世界を映し出す。


 ――その世界は、今の世界よりもっと明るくて、誰もが幸せに暮らし、希望に満ちあふれているように見えた。


「変えられる。なぜなら、私たちは――」





 ……そう、これは、それまでバラバラだった僕ら一人一人の欠片が、たった一人の少女によってつむがれ、「私たち」となるまでの物語。


 そして彼女――紬希恋白と出会って平穏な日常を壊された僕が、一日一日を懸命に紬いでゆく彼女の姿を追い続けた、人知れぬ奔走ほんそうの記録である。

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