木野子
うつりと
寝手場架莉
池上広太は会社からの帰りの電車で、脇の下が痒くてたまらなくなった。
しかし車中だったので、服の上から擦る程度しか掻けなかった。
いつから痒くなったのか思い出せないが、そう言えば今朝からむずむずしていた気がする。
ようやく家に着き、我慢できずに上着とシャツを脱いだ。
思い切り掻きむしってみると、何かがぽとぽとと落ちた。
なんだろうと思って脇の下を見てみると、何かがいくつか貼り付いていた。
じっと見てみても、何かは分からない。が、貼り付いているというより、生えているように見える。
くん、と匂いを嗅いでみる。ちょっとだけ汗臭いだけで、特に変な匂いはしない。
少しだけ爪の先で毟ってみると、柔らかいオレンジ色の何かだった。
「気持ち悪りぃな」
服を全部脱いで下着だけになって、とりあえずパソコンの電源を立ち上げようとして驚いた。キーボードのキーの全ての隙間から、えのき茸のような細く小さな頭の木野子が3cmくらい生え揃っていた。
「げえっ」
ぎょっとして床に座り込んだ。気がつかなかったが、そこら辺の色々なものから同じ木野子が生えている。
布団の上、本棚の本の隙間、今朝脱いだジャージ、特に窓のカーテンには全面びっしりと生えていた。
背筋がぞっとする。何なんだこれは?
今朝、家を出る時にはこんなものはなかった。しかも見たこともない木野子だ。そもそも本当に木野子なんだろうか。
気持ち悪くて何も触れられない。呼吸しても大丈夫なんだろうか。
そうこうしているうちにも、脇の下が痒くて我慢できなくなる。
ぼりぼりと引っ掻いてみたら、さっきより木野子が脇の下から2〜3cm育っている。体中痒い気がして掻きむしると、股の間や、膝の裏、肘の裏、首筋までも生えている。
片っ端から毟る。それでもしばらく経つとまた生えてくる。
部屋を見渡すと、ベランダのドア付近、カーテンやエアコンの辺りが一番沢山生えている。
恐る恐る大丈夫そうな部分を持ち、カーテンの裏側を見てみる。特に何もない。
次にエアコンのカバーをそっと開けてみる。中には想像もつかないほどの密集度で、びっしりと木野子が埋まっていた。
あまりのおぞましさにさっき脱いだ服を着て、家を出た。
どうしたらいいんだろうか。仕方なく一番近くの総合病院に行くことにした。
タクシーの中でも首や手首に生えた木野子を掻きむしった。今ではもう指の間にも生え始めている。特に親指と人差し指の間にはもう20本くらい生えている。掻きむしり過ぎてあちこちから血が滲んだ。
病院に着いて夜間救急口に向かった。
診察室の外の廊下には、池上広太と同じように、体中を掻きむしっている人々で溢れていた。
子供も老人も、程度の差はあるが、皆身体の柔らかい部分を中心に木野子を生やしていて、悲嘆にくれていた。
2時間ほど待って診察室に入ると、そこには首から上全てが木野子だらけの医師が座っていた。手首から先も木野子に覆い尽くされて、指は見えなかった。
「池上さんも大分進んでいますね」
「痒くてたまらないんです。どうしてこんなことに…」
「原因はねえ、まだ病院でも分からないんですよ。ですから根本的な治療はできなくて、かゆみ止めと出血したところに塗る軟膏をお出しするしかないんですよ」
「治らないんですか」
「保健所と一部行政の話では、例の原発事故の放射能のせいで何とか言う木野子が変質してしまったんじゃないかと。それで菌糸が風に乗ってこの辺り一帯に広がったってことらしいです。分かりませんがね」
そういう会話をしているうちに、医師の顔の木野子がさらに伸びていった。10cm近くになっている。体にも生えているらしく、服が膨らんでいた。
「池上さん、申し訳ないんだけど、僕はもう眼球にも木野子が生えちゃってパソコンの画面が見られないんです。だから薬局にご自分で薬をとりに行ってください。ああ、こりゃだめだ」
医師は自分の目の辺りの木野子をぼりぼりと掻いていた。
池上広太も瞼の裏と、舌の上にも木野子が生えて来た気がしていた。
木野子 うつりと @hottori
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