二章
四十三話 始まり
車が止まる。規則的な足音が、しばしその場にとどまり、まもなく止まった。
ラルがふと顔をさまようように動かしていると、ジアンが
「しばしお待ちを」
と、言った。車から降りたジアンが、あたりを確認する。そして状況をつかむと、半身を車に入れて言った。
「休息にございます」
お出でになりますかと、ジアンが差し出した手を、ラルはとった。きゅうそく――休み。ここはどこだろう? ジアンに抱えおろされながら、ラルは思う。
周囲は先までの緊張がややほどけ、さざめくようなやわらかな喧噪に包まれていた。風が通りすぎる。ラルは目を覆う布越しに、あたりを見た。木々の影が見えた。鼻先に、みずみずしい緑のにおいが立つ。
「ここは林道にございますね」
「りんどう?」
「木々が多く生えている中にある道のことです」
ラルの疑問を、ジアンがさらりと晴らした。ジアンは、日の様子を確認し、あたりを見て、邸からどれほど進んだかを割り出していた。およそ四里だろうか。ラルには、未だ距離というものがわからないので、ジアンはそれについては黙っていた。
ラルはジアンの言葉に頷いて、あたりを再度見渡した。覆いごしの視界では、周囲のものは皆影となるが、それでも外の景色というものは新鮮だった。
それにしても。
「あつい……?」
邸から出たときにも感じていたことだった。何かがラルの体に降ってきているような気がする。そう感じるのは、ラルの体の表面が熱くなるからだ。それが熱いのか、ラルが熱くなるのか、わからない。
ラルの不思議そうに漏らされた言葉に、ジアンはくつりと笑った。楽しげでいて、少し寂しげな音だった。
「日の光です」
「ひ?」
「日とは、朝と昼、空におり、地上を照らしているものです。姫様が今、目に明るく痛く感じてらっしゃるもの、それが日の光です。日の光は熱を持っているので、熱く感じるのはそのためです」
「そうだったんだ」
話を聞き、初めて目を開けた時の衝撃と痛みを思い出し、ラルは身をすくめた。しかし、意を決して顔を上げた。今は覆いがあり痛くないのだ。
そうして、ラルは光をその身に受け、感じてみた。
髪に、顔に、体に、熱が当たり、しみていく。また同時に、その熱を、自分の体ははねかえしているような――不思議な感覚。
火を思い出した。でもそれよりも遠く、広い熱だ。ラルはその熱に気圧される。しかし同時に、心を浮き立たせていた。
ラルは思わず、その目を閉じて、手を広げた。もっとこの光を感じたかった。
「日はとても大きいのね」
手を広げても、ラルを全部包んでしまう。しかし、光を手のひらに当てて、そっと指を曲げてみたり、広げたりしてみると、すこし熱の伝わりかたが変わる。不思議だった。日は、どんな姿をしているのだろう。覆いごしでは、見ることはかなわない。
見てみたい。そう思った。
ずっと森の外は、ラルにとって、不安なものだった。けれど、なんて素敵なんだろう? ラルの唇から、思わず笑いがもれた。
これが、森の外。
鳥が羽ばたく音が聞こえる。飛び立って、遠く、遠くへ飛んでいく。音と影でわかった。
「姫様」
キーズの声が、後ろから飛んできた。ジェイミがキーズを押さえ、アイゼと共に平伏する。
「姫様に、軽々しく声をかけるでない」
「申し訳ありません!」
ジアンの低い声が、三人を圧する。地面の一部になったように、かしこまる三人に、ラルはそっと近づいた。転ばないように、ゆっくりと。ジアンがすぐに手を取る。
「ありがとう」
数歩で歩みを止めると、ジアンがそっと控える。ラルはそっと三人の前に膝をついた。
「姫様」
「顔を上げて」
とがめるようなジアンの言葉をよそに、ラルは三人の影を見つめ、それから上空を見つめた。
「鳥が飛んでる」
ちょうど鳥の鳴き声が、高いところを、平行に飛んでいった。
「遠くまで。――皆には見える?」
「はい」
アイゼが答えた。ラルの質問の意図は、わからないが、まず答えたという顔をしていた。
「ジアンも見える?」
ジアンを振り返り、問う。ジアンは、まだ釈然としないながらも、「はい」と言葉を返した。
「そう」
ラルは、上空を見上げた。ひかれるように、そのまま立ち上がる。
「音が、すごく高いところまで行ってる。影も、すごく小さくなってる」
また鳥が鳴く。ラルは、すっと手をのばした。音の余韻をなぞるような、やわらかな動きだった。
「昼の空は広いのね」
ラルの空にのべられた白い手は光を受け、血の色が透けていた。
ラルはそれきり、黙った。
三人は、全くラルの言葉の意図をはかりかねていたが、ラルの光に透ける輪郭と、輝く黄金の髪から目が離せないでいた。
ジアンは、その光景を斜め後ろに控えて、ずっと見ていた。
なんと口惜しく悲しいことか。
この光景が、ずっと奪われてきたなんて。
「連れてきてくれてありがとう」
そう言って笑う、ラルの首筋は赤く染まりだしていた。熱が火照らせたのだろう。少し、日陰に入られた方がよい、そう判断したジアンは、「椅子を」と三人に命じた。彼らは俊敏に、旅先用の小さな椅子を持ってくる。
「ジアン、日はすてきね」
ラルがまた笑うので、ジアンもまた微笑した。ラルには見えなかったが、空気の揺れる音でわかった。
椅子に座って、ラルはまた空を見上げた。
朝と昼の空は、いったいどんな色なのだろう?
一陣の風が吹いた。周囲の喧噪を覆うように、木々が揺れる。葉と葉のぶつかりあう音が、ラルの耳の奥を撫でた。
ここが、森の外。
それは、幾ばくの寂しさと隣り合わせの言葉だった。
けれども、ラルは心の底から力がわいてくるのを感じていた。
ここが、森の外。
ラルは繰り返した。
鳥がまた一羽、空へと飛び立っていった。とても大きく、力強い羽ばたきだった。
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