三十八話 予感

「よかった! 姫がお目覚めになられた」


 にこにこと体中を笑顔にしているエルガのもとに、ジアンが食事を運ばせていた。実に三日ぶりの食事であった。エルガはこの三日間、寝食も忘れ、姫の目覚めを待っていたのだった。


「主、まずは腹にやさしきものから召し上がりなさいませ」


 すみやかに毒味をすませたスウプを、ジアンが差し出した。エルガは「うむ」と頷き、口に含んだ。


「うむ、うまい」


 言葉にする前から、美味と顔に書かれていた。


「ようございました」


 その様子に、ジアンは心底安堵する。食欲の失せた主など、これまで一度も見たことがなかった。この三日間、ジアンも気が気ではなかったのだ。姫がお目覚めになられて、よかったと心の底から思う。


「しかし、出立は本当に明後日でよいのか?」


 エルガが蒸かしたポトの実を手にしながら、尋ねた。

 姫の意向を聞き、出立は明後日となった。


「お体にさわりはしないだろうか」

「そこは、存分に注意して参りましょう。姫様がすぐにでもと仰せられたのです。その気丈な決断に応えぬのも、名折れというもの」


 現に、いつでも発てるように、出立の準備は滞りなくすませてあった。


「そうだな。……姫様は、立派なお方だ」


 厚焼きのパヌをちぎる手を止め、エルガがかみしめるように口にした。エルガのまぶたの裏に、何が見えているか、ジアンにはわかった。


「俺は幸せ者だ」


 ジアンも同じ気持ちだった。そして同じく、それ以上に言葉はなかった。

――魂問い。

 高位の神官でさえ、見られる者は限られている。何がなされるかは、皆知っているのに、その目に見ることはかなわない。

 それは、出来る者が、限られているからだ。まず、王族であること――そして、その中でもまた限られた者だけが、それを成し得ることが出来る。

 現在は神殿の奥で、最高位の神官のみ伴い行われる為、どれほど力ある貴族といえど、目にすることかなわぬ――しかし、それでもその存在を疑うことは絶対に許されない――国の基となる儀。

 それが魂問いだ。

 それを、まさかこの目で見ることがかなうとは、三夜明けた今でも、信じられない。


(これは、まるで――)


「あのお方を、王都までお連れする使命を得たこと、この上なき幸せだ」


 エルガが、天井を見上げ嘆息した。ジアンは思案より、直ちに戻る。


「はい。私も、及ばずながら力を振るわせていただきます」

「おお、頼りにしているぞジアン」


 ジアンの言葉に、エルガは正面を向いたまま、笑って応えた。


「まずはよく食べ、よくお眠りなされませ」

「ああ。うん、これはうまいな」


 カルの肉の煮込みをほおばり、エルガが感心する。


「ようございました」


 ジアンが目配せすると、給仕の者が、おかわりを用意しに向かった。


「――して、奴はどうしておる?」


 しばしエルガは食事に集中していたが、不意に低いおさえた声で切り出した。奴、の心当たりはすぐについた。


「謹慎させておりますが――家が動き出しました」

「そうか……」


 押さえた声で発されたジアンの言葉に、エルガが苦い顔をした。酒をぐいと飲み、器を置いて、うなる。


「じき、こちらに圧力がかかりましょうな」

「……許し難いことだ」


 どこで誰が聞いているかわからない。周囲に神経を張り巡らせながら、ジアンは「全くです」と答えた。

 本当に、許し難いことだ。本来ならば、さらし者にし、八つ裂きにして殺してもまだ足りないというに。

 全く、家の力というものはすばらしいものだ。

 姫に狼藉を働いておきながら、その罪をなきものにしようとする――あまりにみにくく、おぞましい考えだ。


(始祖と共に、国を拓いた名族に名を連ねるとは言え、許せぬ。いや、むしろ、その名誉を自ら汚しておるのだ)


 恥知らずもいいところである。何が名族か、相応の忠誠を王に尽くしてから名乗れというものだ。

 カルデニェーバは、巫の国。神の加護を受けし王が、頂点にあるべき国だ。

 しかし、現在はどうだ。王を建前に振りかざし、貴族たちは我が身第一に権力争いを繰り広げている。

 そうして、王の意向さえも曲げる――王の意向として。

 全くもってふざけた話だ。そのような調子であるから、フロルの神の加護が弱まるのではないか。


 ジアンが内心を、腹が裂けるような憤怒に満ちさせていると、エルガがふと、自分の掌を見下ろした。


「――ジアンよ、俺は悔しい。俺に力がない故に、姫をお守りすることかなわぬとは」


 エルガは、そうぽつりと口にした。苦しい声だった。ジアンは息をのんだ。


「何を。弱気なことをおっしゃいますな」


 ジアンは、励ますように、強く否定した。

 このような主は、見たことがなかった。主にこのような思いをさせるとは――我が身のふがいなさに、深い憤りの念がわく。

 しかし、エルガは、さっと顔を上げた。


「だから、俺は強くなりたい。姫を真にお守りできる男となりたい」


 広げていたぐっと拳を掲げ、強く握りしめると、エルガははっきりと言った。その顔に、一転の曇りはなく、強い力に満ちていた。

 ジアンは、一瞬言葉を忘れた。

 主、エルガ卿は、どこまでも人が好く、野心のないお方であった。その方が、今、姫の為に力を望もうとしている。

 ジアンは心がふるえるのを感じた。――奴の話の折から、人払いをすませておいてよかった。今の言葉は、あまりに危うき言葉だ――そして、誰にも聞かせたくなかった。先に浮かんだ言葉が、もう一度かえってくる。


(これは、この旅は、新たな始まりなのではないか?)


 国の興り、始祖であるカルニ王は、現在の王都カルグニールを礎にこの国を拓くまで、仲間と旅を続けていたという。

 幾千人の命を魂問いにより、一度に救ったという逸話はあまりに有名であり、カルニ王の伝説の一つとして、歌われ、壁画に描かれている。

 ジアンはこの旅に、なにか運命のようなものを感じずにはいられなかった。

 魂問いの光が、魂に刻みつけられ、離れない。

 カルニ王の子孫たる姫が、これから旅をし、王都へと向かうのだ。王の座へとつくために。

 戦争、流行病――貴族の争い――国は今、大いに乱れている。そこに突如現れた、ただ一人の国の後継者。

 カルニ王が立たれた時も、そうであった。


(真に国を王を思う者が、今一度フロルの神に選ばれようとしているのではないか?)

 此度の主の任命は、カルニ王とフロルの神による思し召しではないか。

 それは、あまりに危険な考えである。


(はやってはならぬ)


 姫とともに旅をするのは、わが主だけではない。姫が正しく後継者であると知れば、他の貴族も黙っていまい。

 今まで以上に、より慎重に、周到にやらねばなるまい。


 この旅は、運命的なものかもしれぬ。そして、そのために――危うきものになるやもしれぬ。


(しかし、それでも、なんとしても私が無事に完遂させてみせる)


 ジアンは決意を新たに、腹のうちに縛り付け、力を込めた。


「――主ならば、必ずや成し遂げられましょう」

「うむ」


 ジアンの万感のこもった言葉に、エルガは、いつものように頷いた。


「二度と、姫様が傷つくことのないように、俺は力を尽くす」


 握りしめた拳を、そっと卓の上に置いた。


「そうと決まれば、俺は食うぞ。強くならねば」


 ここの料理も当分食べ納めになるしな、とエルガはスプンを取り直し、はきはきと食べ始めた。ジアンはその様子に、思わず笑いが漏れた。

 全く目の前の主は、どこまでもいつも通りで、ただ姫をお守りすること一心しかない。しかし、それでこそだ。それでこそ、けがれなく野心も夢も抱けるというもの。

 そして、自分は必ずや叶える。

 ジアンは手をたたき、払っていた給仕を再度呼びにやったのであった。

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