三十七話 招き

 あれから、ラルは眠り続けていた。

 落ちていく深層の意識の中、繰り返したのはあの時――まぶたにキスをされた瞬間のことだった。あの時、ひとつのイメージと言葉を、彼は残していったのだ。一瞬の瞬きにすぎなかったそれが、眠りの中で鮮明になる。

 森――ネヴァエスタの森とは違う、森と丸い建物の並ぶ、知らない光景。


『おいで』


 優しいやわらかな声が、ラルを招いた。そう、招いたのだ。


 ――シルヴァス……


 おいで、ラル、おいで――……声、イメージが、頭の中ではっきりと像を結ぶ頃、ラルの目は開かれた。


「――姫様」


 ちょうどジェイミが、器に水と、布を持ち入ってきた時だった。

 ジェイミはいち早く、ラルの目覚めに気づくと、部屋を走り出ていった。ラルは、ジェイミと話したかったが、声が出なかった。ただ、まだかすむ視界で、ジェイミの後ろ姿を見送った。あたりを見渡して気づく。ここはラルの部屋――そして自分は眠っていたのだと。

 体を起こそうとして、体中が、重く痛いことに気づいた。小さくうめきながら、気合いを入れて身を起こした。

 スーミの声が聞こえる。なら、今は朝だ。

 にわかに、せわしない足音が迫ってきた。


「姫様! お目覚めになられたと!」

「なりません、主!」


 響いた声より速くエルガが部屋に突進する勢いで入ってきた。そして、跪く。遅れて入ってきたジアンが、エルガにならった。そして、さっと耳打ちする。


「姫様は病み上がりでありましょうに、いきなり訪ねるのは」

「むっ! いかん、そうであった! 姫、無礼をお許しくだされ!」


 エルガは、ラルがまだ寝衣であることに気づくと、真っ赤になって頭を下げた。


「しからば御免!」


 エルガが飛び出していく。ジアンは「まったく」と言いながらも少しのどを鳴らしていた。咳払いをし礼を取り直す。


「姫様、目覚めに慌ただしく申し訳ありません。医師を呼んで参ります」


 そうしてジアンもまた、部屋から出ていった。

 しばらくして、医師を伴い、ジアンが部屋に戻ってきた。医師は、ラルの体に何かつらいところがないか、尋ね、口の中と体の熱、胸の音を聞いた。


「ようございます。精のつくものを召し上がり、念のためもう一日ほどゆっくり休まれるとよいでしょう」


 満足げに言うと、「薬湯を用意いたしましょう」と一礼し、部屋を出ていった。ジアンは、医師の一連の動きを注意深く見ていた。ラルと二人きりになると、ラルに改めて平伏した。


「先の主の振る舞いをお許しくださいませ。あなた様が目覚めるまで、寝食も忘れる様子でありました故に」

「間……?」


 その言葉の深刻な響きに気を取られた。その様子に気づいたのか、ジアンは平伏したままで答えた。


「あの夜より、三日経ちましてございます。三日の間、あなた様は眠られておりました」

「三日……」


 ラルは目を見開く。ジアンは「無理もありませぬ」と答えた。信じられない、今日は昨日の次の日だと思っていた。

 薬湯が運ばれてきた。一口飲むと、体が「久しぶり」だと感じているのがわかった。苦い飲み物であるのに、甘く感じる。あたたかさにお腹が落ち着いた。

 ラルは人心地つくと、はたと思い至った。ジアンに、顔を上げるように言う。そのことすら忘れていた。


「ジアン、明日、出て行くと聞いていたわ。今日は、その明日を過ぎてしまっている」


 ラルの言葉に、ジアンはわずかに目を見開いたが、すぐに平素の顔となり、答えた。


「出立の日取りはのばしました。何も心配はいりません。」

「いいの? 急いでいるって」

「姫様のお体が一番にございます」


 ジアンははっきりと迷いなく言った。ラルはその言葉がくすぐったかった。胸にしみる思いのまま、


「ありがとう」


 と言った。ジアンはふ、と笑った。初めての微笑であった。


「姫様から、出立のことを口になさったのは、初めてのことにございますね」

「そう?」

「ええ」


 ジアンは嬉しそうだった。尋ねておいて、ラルは確かにそうだとわかった。今まで、ラルは自分で出立――王都というところに行くこと――を口にしなかった。実感がわかない? ――違う、言わなかったのだ。

 ラルは何となく落ち着かないような気持ちになって、うつむいた。


「ラルは皆と行く。もう平気よ。心配かけてごめんなさい。ラル、いつでも行けるわ」

 そして、ラルは顔を上げ、ジアンにはっきりと伝えた。


「――有り難う存じます。ご英断を無為にせぬよう差配いたします」


 なれど、今日はどうか、ゆっくりお休みくださいませ。

 そう言って、ジアンは深々と頭を下げた。ラルは頷いた。それから、ジアンは破顔した。それは本物だと一目にわかる笑みだった。こういう風に笑うと、ジアンはとてもエルガと雰囲気が似るのだと思った。

 ジアンは、それから、「長居をいたしました」と言って、部屋を出ていった。

 ラルは寝台に身を預けた。ジアンの心遣いがありがたかった。ふうと長く息をつく。

 ――三日。一人になった部屋で、もう一度、ラルは唱えた。まだ頭がふわふわとしている。そんなに長い間、自分が眠っていたなんて。


(いつもはこんなに、眠ることはないのに)


 でも、昨日――いや、三日前は何か違った。ああ、スーミの声がする。とっさに目を向けた窓には、板がおかれている。そこからは何も見えないけれど、ラルの脳裏には、あの夜の光を感じている。


(あの音を出したからかな)


 あんな音を出したのは、初めてだった。もう一度やれと言われて、できるかわからない。あの時のことは、夢中ではっきりと思い出せない――あの一瞬以外は。

 目を閉じる。瞼の上に、手を置いた。

 さっき、するりと「ここを出て行く」と、エルガ達と共に行くことをのみこんでいる自分がいた。それは、けれど逃げないとか、そういうことでもなかった。ただ、自分の願いが重なったに過ぎないのだ。


 ――シルヴァス。


 あの光の中、ラルは確かに、シルヴァスを感じた。シルヴァスの光、それは躍動し生きていた。

 言葉に表すのは難しい。ただ、生きている光には熱があり、それは、ここに初めてきた夜に、音を出したときには、得られない熱だった。

 ラルの光と、シルヴァスの光は、たしかに同じ温度でふれあった。


(シルヴァスは生きてる……)


 そして、浮かび出した、光景……言葉……。


 おいで、ラル――


 シルヴァスは、あの場所にいるのだ。そしてそれは、ラルがこれから行く先にあるのだと、予感があった。

 だって、感じるのだ。

 今も余韻があって、その光が、ラルを引き寄せる。強く。強く強く――ここを出て、森でもない違うところへ、向かわねばならないのだと。

 前に進むのだ、進むことできっと――。

 この思いが、先のジアンの笑みに、相応しくない気がして少し後ろめたく感じた。

 それでも、――シルヴァスが生きている、そのことが何より嬉しかった。赤に染まったシルヴァスの姿――ずっとラルの心をくぎづけていた。だけど、ようやく、少し安心したのだ。


(頑張る――このまま頑張って、いいんだ。すぐ、会えないのはさみしいけど――)


 きっと頑張っていれば会えるよね。

 ラルはほほえんだ。あたたかな予感を胸に抱ける幸福に、笑みがこぼれる。森を出て初めての、安堵に満ちた、やわらかな笑みだった。

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