三十一話 一撃
あたりを打ち倒すような、すさまじい気配。
ラルは一瞬、それが誰だかわからなかった。
ただ、ゆれる赤茶色の髪――ラルの視界を占めたのはそれだけだった。
「姫様を泣かせるな!」
「アイゼ……」
その声に、気配の主を悟った。安堵なのか、圧倒なのかはわからない。ただ、涙がこぼれ落ち、そして止まった。そうしてその分、視界がクリアになる。アイゼの全身は闘気にぬれ、華奢さの残る背は、視るよりもずっと広く見えた。アイゼの周りには、黄色の光が波のように立って、アイゼが呼吸するたびに肌から、あふれている。
姫様を泣かせるな――
アイゼはしかし、それきり言葉を発さなかった。ラルを振り返ることもしなかった。ただ、眼前のアーグゥイッシュを全身で見据えていた。
しかし、ラルのことを庇う背は決してラルを排除していなかった。闘気は、ラルとアーグゥイッシュの間に壁を作った。
アイゼの体から発される闘気の主は、すさまじい怒りだった。眼前のアーグゥイッシュへの、怒り。
アイゼはもはや何も言わない。息をのむように静かだった。ただ、全身が言っている。姫様に近づくな、傷つけるな――
身を裂くような激しい思いだった。それは、ラルのアーグゥイッシュによって乱れた心を平静に戻した。アイゼの怒りはそれほどにすさまじかった。
アーグゥイッシュのさめた視線が、アイゼに移った。ラルの体が一気に緊張する。
両者、ともに何も言わなかった。張りつめるような空気があたりを支配していた。
ふいに、一陣の風を立ち、それから周囲のすべての音を消した。
瞬きをするような……一瞬よりももっと短い時間――に全てが集まり、はじけていた。
すでに、アイゼは、地になぎ倒されていた。
息をのむ間もなかった。アイゼの頬と口元が赤に染まっていた。ラルがアイゼに近づこうとするよりずっと速く、アイゼは肘を立て、身を起こした。そのまま地面に四つ這いになり構える。地を割るように、手足に力を込めた。
アイゼのむき出しの腕に無数の血管が浮かんでいた。それは激しく脈動しアイゼの筋肉全てに血を巡らせた。生まれた力が独特のリズムで、アイゼの体を脈打たせていた。激しい力が、アイゼの体に暴れている。
アイゼは息を吐き出した。それは低く、深く、強い唸り声となった。
アイゼの目は黄を帯びて光る。口端からのぞいた牙と同じ――獰猛な光だった。
目の前の獲物を狩る――獣人の本能が、アイゼを支配していた。
激しいうなり声を上げ、アーグゥイッシュに飛びかかる。アーグゥイッシュは身をかわした。後ろの木に爆ぜたような、大きな爪痕が残る。アーグゥイッシュは回避した体を反転させ、拳をアイゼの背に打ち当てた。アイゼは吹き飛ぶ。風のうなる音に次いで、木々が数本倒れる音がした。
ラルは、声が出ない。全てが声を出す間もない出来事だ。それでも、ラルが、アイゼの元へと身を動かした。そのとき、必然的に、アーグゥイッシュとの距離が近くなった。
瞬間――アイゼの爪が、二人の間に割って入った。そのまま、爪は地面を叩き割る。地面が砕ける音とともに何かがくじける濡れた音がする――地面から引き抜いたアイゼの手は、赤く染まっていた。しかし、痛みを感じていないようにアイゼはその手を支えに、再びアーグゥイッシュの前に立ちふさがった――ラルをその背に庇って。
獲物を狩る――姫様を守る。その気持ちが、獣人の本能とアイゼをつないでいた。アイゼは吠えた。
「
ふいに、アーグゥイッシュが冷笑する。アイゼは答えず、またも飛びかかった。
「よしておきな――お前じゃ無理だ」
アイゼの猛攻をないもののように受け流し、言葉を続ける。その声はいっさい揺れず、動きもあり得ないほど、悠然としていた。アイゼがひときわ強く唸り、吠えた。アーグゥイッシュは宙を仰ぎ、嘆息する。繰り出された爪を難なく避け、そのままアイゼの顔に一撃を入れた。
「アイゼ……!」
重い一撃だった。ラルがアイゼを呼ぶ――ようやく心に体が追いついた声だった。アイゼの体は、高く宙に飛んだ。しかし、アイゼは糸につられたように体をぐぐ、と反り返らせ、回転し受け身をとろうとした――
「哀れだなァ」
しかし、アーグゥイッシュの拳が、再びアイゼを打つ方が速かった。
一撃、二撃。二撃、三撃――アイゼに地に立たす間を持たせない、アイゼを打ち上げるように繰り出される連続の殴打。空、地面に、アイゼの血が花弁のように散った――。
ラルの悲痛な声があたりに響いた。やめて。
「やめて……! やめてーっ!」
ラルが叫んだ時、打撃により閉じられていたアイゼの目が、ぎっと開かれた。その目は、アーグゥイッシュを果てしなく強く見定めていた――打たれるがままに踊っていた体が、ぎしりと反するようにしなる。アイゼの腕が、鞭のようにアーグゥイッシュに向かい飛んだ。
金切り声のようなすさまじい吠え声が、空気を裂いた。
アイゼの一撃は、アーグゥイッシュの頬をかすめた――血が散る。
「アイゼ!」
次の瞬間にはアイゼは着地し、這った姿勢で唸っていた。全身から闘気と汗が滴っていた。瞳は狭く黒く、縦に細くのびている。
アイゼが低く唸る。アーグゥイッシュは静かだった。その静けさは、ラルに言いしれぬ恐怖を与えた。アーグゥイッシュは傷を拭った。場にそぐわぬ、ゆったりとした動作だった。
「ほめてやる」
生木が裂けるような音がした。アイゼの右腕がひしゃげ、崩れ落ちた。バランスを崩し倒れ込むアイゼの胸と腹からも異音がし、口から、どっと血が吹き出した。
「ああっ!」
ラルがアイゼを支えるよりずっと速く、アーグゥイッシュが、アイゼの首をつかみ、持ち上げた。アイゼの体はだらりとぶら下がった。アーグゥイッシュは手に力を込めた。みしみしと音が立つ。
「ここがお前の死に場だ」
「やめて! 離して!」
ラルはアイゼの負荷のかかった体を支えるように、下からアイゼの体を持ち上げるように抱き留めた。そして片手を伸ばし、アーグゥイッシュの手を離そうとする。アイゼの体は血に濡れていて、あの時のシルヴァスと同じにおいがした。手が、アーグゥイッシュに届かない――首から鳴る音が、ひどくなる。アイゼの苦痛のうめきが、大きくなり、次第に消えだした。
「ああ、哀れだ」
アイゼを見て、アーグゥイッシュは嘲った。アイゼは、血と汗にまみれた顔の中、それでも止まぬ闘気に光った目が、アーグゥイッシュをずっと見据えていた。
アーグゥイッシュは笑んだ。
「おろかな獣よ」
何かがはじけ、砕け散る音、ラルのはりさけるような悲鳴――その残響があたりに幾重にもこだました。
「――そこまでだ!」
エルガとジアンが駆けつけたのは、ちょうどその時だった。
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