三十話 奪われたもの

「もう頃合いかと」

「わかっている」

「なら、早く支度なされませ」

「わかっている。言うな」


 背に投げかけられたジアンのあきれ声に、エルガは肩を落として答えた。気落ちしていても、背に力がみなぎっているのがどうにもこの主らしい。丸めた背は小さいと言うよりも、ただ背を内から反らしているように見える。


「ああ、今日は姫様とはじめてお会いできる。しかし、今は合わせる顔もない……」


 今日は、日中にはずせぬ用があり、エルガはラルの部屋を訪ねることができなかった。しかし、それもすんだと言うのに、エルガはまだ、自室にて座り込んでいた。

 即断即決で、悩むより行動の主らしくない姿に、ジアンはこれはと思う。


「気が乗らぬ様子。では、今日の外歩きの供は、誰ぞほかの者にでも頼みましょうか」

「だめだ! 姫様のお供は俺以外認めん!」


 即座、断固として放たれた言葉に、ジアンは苦笑する。そのように腹が決まっているならば、とっとと会いに行けばよろしいのに。


「ジアン、俺はふがいない。姫様を傷つけてしまった」


 昨晩のエルガの言葉に、ラルは真っ青になった。エルガは自らの失言に気づいたが、もはや否定はしなかった。言葉に偽りの戸をたてられまい。

 一瞬間、気まずい沈黙が降りた。ラルはわずかにうつむき、エルガからそっと冷えた手を離し、自らの胸の前で握った。


「エルガは、シルヴァスが嫌い?」


 エルガはその言葉にわずかに目を見開いたが、決意した顔になり、はっきりと肯いた。


「率直に申せば、嫌いにございます。奴があなた様をさらわなければ、あなた様は、光を奪われることもなかった。彼奴は、あなた様から、多くのものを奪いました。奪いすぎたのです。もはや、憎いと言っても差し支えございません」


 エルガの言葉は強く、迷いがなかった。ラルは悲しげに目を伏せた。


「ラルは、シルヴァスのことが好き」

「姫」

「何もつらいことなんてなかった。確かにシルヴァスは、隠し事が多かったけど優しかったよ」

「姫!」

「ラルは奪われてなんかない」


 奪ったのは――ラルのその言葉は最後まで、形にならなかった。エルガは氷で殴られたように、胸が痛く悲しかった。

 二人はそれきり黙ったままで、部屋まで歩いた。


「わかっていたのだ。姫はたいそう傷ついておられたと聞いていた。だから、あやつの話は、繊細に扱わねば、と」


 エルガは食いしばった歯の隙間から、絞り出すように言葉を吐き出した。


「わかっていたのだが」

「舞い上がってしまって、つい口が滑ってしまわれたと」

「違う! いや、違わない」


 とっさに否定したが、エルガは首を振り、言葉を止めた。


「俺は、自らの言葉を、偽りや浮かれたが為のそら言とは言わん。本当にそう思っていたから言ったのだ」


 姿勢を正して、エルガが言う。目には一途な光が宿っていた。


「しかし、それで姫を傷つけようなどと思わなかった。今回のことは俺が悪い」


 ジアンのため息が部屋に落ちる。


「ジアン、俺は悲しい。姫の気丈さが悲しいのだ」


 拐かされて、たいそうつらい思いをしてきたはずだ。それなのに、自らの幸福を奪った男を、心配している、思っている。


「姫のお優しさは、そのようなところに使われるべきではない。俺はもっと、御身を大事にしてほしいのだ。俺は狭量だろうか?」


 拳を握りあわせた上に額をおいて、エルガは唸った。ジアンは宙を仰いだ。なんともこの方らしい事だ。


「私見ですが、此度は、それだけが問題ではないかと」


 ジアンは、注意深く切り出した。


「姫様はとても慈悲深いお方――もちろん、それもありましょうが……今回の問題は、姫様は、ご自身の境遇が、いかにつらきものであったか、まだご存じになられていない、というのが多分にあるでしょう」


 ジアンの言葉に、エルガが振り返る。ジアンは眉一つ動かさず、言葉を続けた。


「姫様のお言葉からお察しするに、姫様は、あの男から何も、知らされていなかったご様子です……お労しい。光も、知識も、尊き力も奪われ」

「うむ」


 エルガが強く頷いた。その目は涙ぐんでいた。


「逆賊しか頼れぬ身の上であられたのです」

「許せぬ!」

「あまりにおぞましくむごい……何もかも、あの奸賊のせいです。ですが、姫様は賢明な方です。ご自身がどのようなお立場であったか知られれば、主のお気持ちをくんでくださるでしょう」


 そしてそのお役目は、このジアンが承りましょう。ジアンが一礼すると、エルガは「うむ」と頷いた。


「そうだな。お前に任せる。お前ならば、安心だ」

「姫様にならば、必ずやご理解していただけましょう」


 いや、理解してもらう。ジアンはそう決めていた。


「しかし、真実を知る上で、確実に痛みは伴いましょう」


 悲しきことに、あの男は姫様の世界であったのですから。

 エルガは唸った。まるで、自分自身が傷ついたかのような、苦しみようだった。しかしそこで終わらないことをジアンは知っていた。エルガはばっと顔を上げる。霧の晴れたような顔だった。


「ならば、俺は姫をこころより励まそう。信をおいていた男だものな。俺にとっては何もかもが憎き男だが、姫はさぞ苦しいだろう」

「それが最上にございましょう」


 大変快く、ジアンは頷いた。この方のこういうところが好きだ。姫には必ずや、ご自身の立場とエルガ卿の気持ちを理解してもらう――しかし、姫様――なんと哀れなお方だろう。


(――しかし、あの逆賊が姫を拐かさねば、今はなかった)


 純真な主にはとても口に出来ぬが、あの面憎き男の為に、主に運が開けたのだ。この好機を絶対につかんで離したくない。


「そうと決まれば、姫のもとへゆく。昨日のことを謝り、また笑っていただけるように努める」

「ようございます」


 立ち上がったエルガに、ジアンは笑った。先の思案などなかったかのように。


「姫にお会いしたいのだ。取り次いでくれ」


 エルガが身支度を整え、ラルの部屋に向かうと、見張りの兵が頭を下げた。エルガはそれに鷹揚に応える。ジアンは兵がなにやら挙動不審であることに気づいた。


「何ぞあったか」

「え、ええ」


 兵がうろたえる。


「早く申せ」


 とジアンは言った。


「ひ、姫様ならば、さきほど外に出て行かれました」

「何っ!」

「も、もうしわけありませぬ! 『外歩きに』と迎えにこられたので、今日の供はエルガ卿ではないのだとてっきり……」


 這い蹲る勢いで、兵が謝罪する。しかし、二人ともそれに関心を向けてはいなかった。


「誰だそれは」


 震えきった兵士が告げた名に、エルガはかけだした。ジアンは「追って沙汰する」と言い渡し、矢のようにエルガ卿の後に続く。


「あの若造……! 横からさらおうなどと、そうは行くか」


 ジアンが苦虫を噛み潰したような顔で、低く吐き捨てた。


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