二十九話 夜歩き2

 その日の夜、エルガはラルを迎えに来てくれた。エルガは、薄青色の棒――槍というのだと教えてくれた――を脇に携えてはいたものの、いつものいかめしく固い衣姿ではなく、柔らかな衣に身を包んでいた。白色の衣に、赤の布を斜めにかけている。どちらの布もたいそう艶やかだった。いつもが頑強な岩だとすると、立派で優美な木のように、雰囲気が変わって見えた。

 すでに話を通してくれたようで、見張りの兵士たちもエルガとラルに礼をして、こころよく部屋の外に行かせてくれた。


「姫、足下にお気をつけください」

「うん。ここの地面は、草がないのね」

「庭師が手入れしておるそうです」


 エルガはどこか緊張した面差しで、何を話すにも浮き足立っていた。しかし、笑みを絶やさず、ラルをつれ、邸をぐるりと連れて歩いてくれた。


「それにしても、いい夜ですな!」

「明るい夜ね」

「夜も明るうございますか?」

「うん。森の外の夜は皆こうなの?」

「そうですな――うん、これくらいです」


 ラルの問いに、少し考えるそぶりをして、エルガは答えた。


「そっか」

「ああ、しかし。私が赴いた先では、夜でもずっと白く明るい地がありました」


 思いついたとばかりに、エルガは手を打って言葉を続けた。


「そんなところがあるの?」

「ええ。見事なものです。ずっと光のもとにいるのですから。何とも、力強かった。まあ、中には眠れずに困っているものもありましたが」


 満面の笑みに加えて身振り手振りを加えて話す、エルガの横顔をラルは見上げた。すごい、という感情だった。


「エルガの世界は広いな」


 ラルの言葉に、エルガはしばし照れ笑いを浮かべた。それから、きゅっと表情を引き締めた。そして、ラルを見つめた。切れ長の目が、真摯な光を帯びている。


「姫様の世界も、広くなります」

「エルガ」

「これは絶対のことです。姫、あなたは誰より広い世界をお持ちになります」


 そうして、恭しく一礼した。ラルは、エルガの心が嬉しかった。広い世界を持つ、実感はなかったが、あたたかな手で、背を押された気がした。


『これからお前には、もっと大きな幸せがやってくるよ』


 シルヴァスの言葉がよみがえる。シルヴァスの言う幸せは、エルガの言う、広い世界と重なったような気がした。

 その時、ふと心に風が吹いた気がした。その風は、ラルに何度か吹いていた。何かを知らせようとする風だ。しかし今回もまた、ラルがその心に捕まえる前に、過ぎ去っていってしまった。


「おっと、段差があります。姫、お手をどうぞ」


 エルガが、手をさっと差し出した。ラルはしばしその手を見ていた。しかし意図に気づくと、その手を取った。あたたかで大きな手だった。

 エルガは、明るく優しく、強い。そして群の中で、一番偉い存在だ。エルガにならば、大丈夫かもしれない――そんな気持ちがわいてくる。しかし、ラルはまだそれを言葉にできかねていた。それがなぜかはわからない。ただ。音にならない。

 エルガはというと、ラルの手をとってから、なんだかよりいっそう落ち着かない様子で、鳥を追うようにあちらこちらへと視線を動かしていた。かと思えば、いきなり咳払いをした。エルガを見つめると、エルガは赤い顔をわずかにこわばらせて、しかし視線は外さなかった。そうして、勢い込んで、口をひらいた。


「――しかし、許せません! あなた様から、世界を奪った者が」

「え?」


 世界。ふと、ネヴァエスタの森が浮かんだ。そして、あの朱金の――


「シルヴィアス・レイモンフリート……――名を音にするも憎い、あの奸賊です!」


 ラルの顔から、さあっと血の気が引いた。

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