十二話 怒り
恐ろしいほどに美しい。それが、目の前の光景に対する、ジェイミの形容だった。
眠れなかった。水でも飲もうと外に飛び出した。あのようなことがあったというのに、大人しくしていないなど、平素のジェイミらしからぬ、自棄といっていい行動だった。腹の底には、怒りと嫌悪の情がうずまいていた。
今日に限ったことじゃない。どうしようもない怒りを、ジェイミはいつも飼っている。消えたことはない。ただ、飼い慣らしているだけだ。
――何故、俺は
ただ、生まれただけでどうして差別にさらされなければならない……――他者に問答無用で平伏せねば、生きていられない存在に、何故。
アイゼやキーズをはじめ、ドミナンの獣人達は、大抵が自分たちがいかにむなしい生き物であるか、知らない顔をして生きている。そのことにいらだちを覚えないこともない、しかし、ジェイミは彼らが好きだった。だから、怒りは腹の奥に潜め、何も知らない顔をして生きてきたのだ。それでもこの世界の真実というものを、忘れたつもりはなかった。
それがおごりであることを、今日まざまざと気づかされた。
穏やかでおろかな暮らしに、自分が麻痺していたことを思い知らされた。この屈辱を、侮蔑を――……それは、怠惰だ、生者としての、尊厳の放棄だった。
井戸からくんだ水を飲む。水に映った自分の姿を、にらんだ。この姿を恨む。しかし、恨むものかという思いもある。……自分が恨んでいるのは、この身のうちの人間の姿か、果たして獣の姿か?
そんな折りに、足音が聞こえた。限りなく、静かに空気と混じった音。こんな音で走れるのは、おおよそ獣か、獣人しか知らない。音の主は未だ遠い。獣人のジェイミだから聞き取れる音だ。
獣でもはいったか、ならば追い払わないといけない。しかし、まずわき起こったのは、純粋な興味だった。自然、気配を殺して待った。
そうして現れた存在に、ジェイミは息をのんだ。
人間。しかも女。
まだ少女といっていい頃合いの――年は、自分と同じくらいだろうか。頭から、衣をかぶっていた。変わった衣服……ちょうど、あれは、神官、それも高位のものが着るような……いずれにせよ、ここ辺境では見ないこしらえだった。
そこまで考えて、理解した。――この女は、王都の女だ。
そして、この女こそが、ここに駐屯している軍隊の主なのだ。そう理解したとたん、感じたのは、かつてない、すさまじい怒りだった。
この女の為に……平素ならば「浅ましい」と己をいさめ止める感情が、止めようもなく、みじめに感じる間もなく、起こった。平伏など頭になかった。消え失せていた。あったとしても、することは出来なかった。ジェイミ自身、制御しようも、理解しようもできない怒り、ただこの身の屈辱は、全てその女に集約される。
だが、その女から、目が離せなかった。女は、空を見上げていた。空におびえているようだった。高貴な者は、空も見たことがないのかもしれない、そう思った。その時、見上げた拍子に、女のかぶっていた衣が落ちた。ジェイミは誰知らず目を見開いた。
――恐ろしいほど、整った容貌。生物の気高さや美を全て集めたような顔。人間でこれほどまでの美を見たことがなかった。美は強者だ。思わず誰もがひれ伏す力を持つ。女の容貌は、その頂点にいた。
一つ問題があるなら、表情だった。その表情は、悲しげで、頼りなかった。それが、女の完全な美を壊しており、アンバランスにさせている。
しかし、ジェイミはそこにこそ、ひかれた。ただの美ならば、ひれ伏さない。
女は、唇を開いて、何か音を出した。それは歌だった。不思議な節の歌だ。かすかな音色だが、ジェイミにははっきりと聞こえた。
女の唇から、一筋の光がこぼれたような気がした。目の錯覚かと思う前に、女の前方に差し出した手から、光の玉が浮き上がった。
光は、何度も浮き上がっては夜の闇に消えていく。光とともに、女の顔が照らされては、また影になる。
幻想的な光景だった。女の声は切実な響きを持っており、聞いていると目の前の光景とともに、胸がつまった。
――魔法……――
どこかぼんやりとした頭に浮かんだのはこの言葉だった。神官とは、本当にこのような力があるのか。ジェイミは今まで聞いたことはあっても、実際に目にしたことはなかった。ここでは、おおよそ見られないものだ。
――美しい。
それ以外に、この光景を形容する言葉が生まれなかった。ジェイミは、思わず詰めていた息を吐き出した。
その瞬間、女がジェイミの方を振り向いた。
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