第1話「結成! 現実戦隊!」Bパート
玄関を出ると、どこからか鳥の声が聞こえてきた。早朝の町は薄い黄色に光っていて、ふと背後を振り返れば、安アパートの外壁すらも輝いて見えた。ため息のために吸い込んだ空気は、肺が痛むほどに澄みきっている。
眠い。
朝六時。いつもなら目覚まし時計が鳴る時刻に、僕は玄関先に出ていた。首には今日も赤ネクタイ。せめてもの抵抗にとここで立ち止まって、そろそろ三十秒が経つ。肩を回し、あくびを二回とくしゃみを一回して、「行きたくないなぁ」と歯の奥で呟く。クローゼットの奥から引っ張り出してきた、筒型のショルダーバッグが重い。
作戦会議から三日後の木曜日。作戦決行の朝、らしい。真っ赤なヘルメットをバッグに詰めながら、昨夜の僕はずっと混乱していた。作戦内容の確認とヒーロー活動への戸惑いを頭で何度も繰り返して、おかげで今日は寝不足だ。
自分の部屋の郵便受けを、投函口から覗いてみる。中はからっぽだ。朝食前にも確認したから知っていたけど。空を見上げてみる。雲が流れているなぁ。足元の小石を軽く蹴ってみる。ころんころん。「はぁ……」行きたくない。
と、鍵が開く音がした。右隣の部屋からだ。玄関ドアの向こうから、ひょろりと背の高い男が現れる。よれよれのTシャツに無精ひげ。お隣の部屋に住む、四ツ谷という人だ。
「あ」目が合うと、四ツ谷はわずかに口を開いた。「はよ、ざいます」と、聞き取れるぎりぎりの声量で挨拶する。長い前髪と黒縁眼鏡のせいで、相変わらず顔立ちはよく分からない。
「おはよう、ございます」
「……す」
僕の挨拶に顎を引いて、四ツ谷は歩道に出ていった。手ぶらだったから、散歩か、コンビニにでも行くのだろうか。少なくともゴミ出しではなさそうで良かった。僕はもう一度空を仰いで、深呼吸と溜め息を同時に済ませた。
「行くかぁ」
重い革靴を持ち上げる。さっき蹴った小石を踏んで、ちょっとよろけた。
世の中は「現実」に苦しむ人々で溢れかえっている、と総司令は言った。
思い通りにいかない「現実」。理想とはかけ離れた「現実」。その「現実」を「非現実」で塗りかえるのが、僕たち『タカミヤー』の役割らしい。
今回総司令が用意した「現実」は、この町のゴミ捨て場、そののっぴきならない害鳥問題だ。
鷹宮家のご近所に住むとあるご婦人は、ゴミ捨て場に現れる一羽のカラスに悩まされていた。
そのカラスは右目に傷を負っていて、常にウインクしているように見える。ご婦人がゴミ捨て場に行くといつもその隻眼カラスがゴミを漁っていて、穴を開けられた袋からゴミが散乱している。ご婦人はカラスに対していくつかの策を講じてみたが、どれも効果がない。
ゴミ袋を二重にしてみても、お手製のカラス除けを設置してみても、賢い隻眼カラスはそれらをかいくぐって自らの任務を遂行してしまう。
いよいよ耐えきれなくなったご婦人は、保健所への連絡を町内会に提案した。が、一人のマダムが反発する。マダムは動物愛護の精神が旺盛で、動物を、しかも怪我を負った動物を駆除するなどもってのほかだと言うのだ。ご婦人の説得にも聞く耳を持たないマダム。疲弊するご婦人。現れ続けるカラス。
町内会の帰りに、ご婦人はひとりの男にこう漏らしたそうだ。
「あの人、『カラスとだって心を通わせれば和解できるはず』ですって。そりゃあ私だって、そうなればいいのに、とは思うけど……そんなの、現実にはあり得ないわよねぇ」
それを聞き届けた男こそが、他でもない、我らが総司令なのである。
「おう! 待ってたぞ」
鷹宮氏が軽快に手をあげる。エプロン姿の鷹宮氏と、大きな鞄を提げたハルカさんが、まばゆい笑顔で僕を迎えた。件のゴミ捨て場の目の前にある公園には、僕ら以外の姿はない。
二人に向けて会釈すると、ハルカさんも「おはようございます!」と跳ねるようにお辞儀をしてくれた。業務時間外だからか、三角巾を巻いていない。ツヤのある髪と丸い頭の形があらわになっていて、いつも以上に魅力的だ。状況を忘れてうっとりとしていると、ハルカさんの声にげんこつを振り下ろされた。
「那須くんはまだですかね?」
公園の時計を見上げるハルカさん。鷹宮氏が「集合時間まではまだあるからな」と続く。僕の頭には、「那須くん」というハルカさんの声が、ぐわんぐわんと反響し続けている。
那須くん。くん付け。親しげ。実家が近所。昔からの付き合い。僕が来てすぐ那須の話。
頭頂部から下へ向けて、順に体温が下がっていく。
この前はヘルメットで見えなかったが、今日は那須の顔を見ることになるかもしれない。イケメンだったらどうしよう。美容師だと言っていたから、私服もお洒落なのかもしれない。僕みたいに、安物のネクタイなんか締めないのかもしれない。何より、とにかく、イケメンだったらどうしよう。
鷹宮氏に促されて公園のトイレに入り、コスチュームに着替えている間も、僕の頭はずっとぐわんぐわんしっぱなしだった。公衆トイレ独特の淀んだ空気に包まれながら、生まれて初めて全身タイツに身を包む。那須のコスチュームの色違い、白いライン入りの真っ赤なタイツだ。
足元は、膝下まである白いブーツ。手袋は手首で布が絞られていて、前腕に向けてコーヒーフィルターのように広がっている。スカーフの内側には小さなポケットがついていて、スマートフォンくらいなら仕舞えそうだった。
ああ、これをハルカさんが、僕のために用意してくれたんだ。
……でも、那須にも同じものを用意したんだよな。
がっくりと項垂れる。と、赤と白に染まった自分の身体が目に入る。
――ヒーローコスチューム。
どくん、と左胸が鳴ったかと思うと、次の瞬間には腹が居心地悪そうに唸った。僕は慌ててタイツを下ろし、便座に座る。全身タイツなので上半身まで裸にならなければならず、筋肉のない身体が露わになってしまった。
見た目だけヒーローを気取ってみても、衣装を脱げばたちまち弱々しい正体が露呈する。それでも、膝に溜まったタイツの左胸には、「現」の字がしっかりと縫いつけられていた。
「……無理だよ……」
絞り出すような声が口の端から漏れる。俯き、頼りない太腿を見つめていると、
「ヒーローが、ですか?」
どこからか突然声がした。僕は反射的に顔を上げる。
「あ……すみま、せん。突然。つい」
声が続く。低くて、少しかすれた声だ。隣の個室から聞こえてくることに気づいて、安心すると同時に驚いた。うわの空で着替えている間に、隣が埋まっていたのか。
「い、いえ。えと」
「那須、です。あの、ブルー」
ブルー、のところだけトーンを落としつつ、那須は名乗った。僕は「ああ」と曖昧に答える。
個室の間には沈黙が降り、トイレの空気が宙ぶらりんになった。那須の個室から、ガサガサとかすかな物音だけがすり抜けてくる。遅れて到着した彼も、トイレに着替えにきたのだろう。
「ヒーローって」静けさを破って、那須が言った。「なんか、すごい話ですよね」
「そう、ですね。ほんと」
目が泳ぐ。那須はあの呟きを聞いていたのだ。胃の底が引きつる。那須の声が、薄い壁に染み込むように聞こえてくる。
「不思議ですよね。……こんな普通人が」
「フツージン?」
「あー、普通の人、で『普通人』。辞書にも載ってたような、たぶん」
「へぇ……」語彙力で負けた。いや、別に勝負するつもりじゃ。
また会話が途切れる。気まずくなって、僕は便座から立ち上がった。腹を撫でると、もうさっきほどは痛くなくなっていた。スーツを詰め込んだショルダーバッグを閉じ、タイツを再び首まで上げて、個室を出る。隣のドアをじっと見つめてみたが、那須の姿を透視することはできなかった。
「富士野さーん! こっちです!」
バッグを抱えてトイレから出ると、植え込みの陰からハルカさんが手を振っていた。彼女もコスチュームに着替えていたが、ヘルメットはかぶっていない。ハルカさんの向こうには総司令も身を潜めており、丸い頭頂部が覗いていた。
僕は吸い寄せられるように植え込みまで移動して、ハルカさんの隣にしゃがんだ。人ひとりぶんくらいの距離は空けているが、それでも近い。ハルカさんは膝の上にピンク色のヘルメットを抱えて、植え込みの先、道路を挟んだ向かいのゴミ捨て場をまっすぐに見つめている。
彼女の横顔に見惚れていると、突如真っ青な壁に視界を遮られた。
「もうそろそろだっけ」
「うん! って、もうヘルメットかぶってきちゃったの?」
「え、そっか、まだなの」
ボソボソとしたハスキーボイス。僕とハルカさんの間に、着替えを終えた那須がするりと入り込んできた。そしてあろうことか、ハルカさんと親しげに言葉を交わし始めたのだ。「もー。でも似合ってるし、そのままでいたら?」那須の身体越しに聞こえるハルカさんの声は、楽しそうに笑っている。ちくしょう、僕だって実家さえご近所だったら……。
「おい、そろそろ来るぞ」
ハルカさんの向こうから、鷹宮氏の声が飛んでくる。ハルカさんが息を呑む音が聞こえ、那須がゴミ捨て場に目を向けた。僕も、軋む首を道路側に回す。ゴミ捨て場はブロック塀でコの字に囲われており、既にいくつかのゴミ袋が集まっている。僕は眼鏡の位置を直した。
「おれの調査によると、カラスとマダムは六時四十分ごろ、ほぼ同時に現れる。例の町内会以降、マダムはカラスとの交流を試みているらしい。なかなか上手くはいっていないようだがな」
「カラス心は難しいんですね」
ハルカさんが頷き、待ちきれないとばかりにヘルメットをかぶる。可憐な顔立ちがシールドに隠され、たちまち彼女は「ピンク」になった。
「そうだな。だがおれたちはそのカラス心をガッチリ掴んでやらねばならん。……ほら、やっこさん、おいでなすったぞ」
鷹宮氏が声を潜める。その瞬間、ゴミ捨て場に一筋の黒い線が走り、その線の先には一羽のカラスが降り立っていた。カラスは忙しなく辺りを見回し、視線が一瞬、こちらに向けられる。羽毛に覆われたその右目には、切り傷のような赤い痕を確認できた。公園の時計は、六時四十三分を示している。
「いいか諸君。もうすぐ、ここに件のマダムがやってくる。そのときはおれが合図するから、速やかに、全員一斉に飛び出すんだ。レッド、そろそろヘルメットをかぶっておけよ」
「あっ、は、はい」
足元に置いたショルダーバッグから、僕はヘルメットを取り出した。両手で回して向きを確かめてから、かぶる。シールドと顔の間にはそれなりの隙間があるので、眼鏡をかけたままでも装着できた。ヘルメットから首に震動が伝わって、自分の手が震えていることに気づく。
「飛び出したあとは、この前話した作戦通りだ。覚えてるな。ピンク、準備は?」
「イエッサー! 万事ぬかりありません!」
ハルカさんことピンクが、小声で元気よく返事する。総司令の「うむ」のあと、僕らは息を殺してカラスの動向を見守った。
ちょんちょんと跳ねるようにして、カラスはゴミ袋に近づいていく。くちばしで袋を数回つつき、空いた穴を器用に広げる。ガサガサッ、と音がして、その直後には袋からゴミがなだれ出ている。
「荒らしとるなぁ」
「荒らしてますねぇ」
総司令とピンクがしみじみ言う。と、視界の右方向から、ひとつの足音が近づいてきた。「シッ」総司令が鋭く息を吐き、僕らは身を低くする。
ゴミ捨て場の風景に、その女性は悠々とフレームインした。ウェーブのかかった長髪にVネックのTシャツ。パタパタと鳴るつっかけサンダルを履き、右手には丸々としたゴミ袋を提げている。すらりとした体形で背筋が伸び、若々しいいでたちではあるが、それほど若くないことは遠目にも分かった。
「あの人だ」
総司令が低く言う。「い、い、行きますか!?」「まだだ」ピンクの上擦った声が制止される。
マダムはゴミ袋を丁寧に下ろし、ゴミをついばみ続けるカラスのそばに身をかがめた。小さな声で何か話しかけているようだが、カラスはマダムに目もくれない。マダムの存在をまったく気にせず振る舞うカラスに対して、マダムは少し引け腰になっているようにも見えた。
と、カラスがマダムのほうを向き、マダムは思わず半歩後ずさり――
「しゅつ……」
「ちょっと、何してるんですか!?」
総司令の合図が、鋭い声に遮られる。総司令は肩をびくりと震わせ、中腰になったピンクを止めた。ゴミ捨て場に、新たな人物がバタバタとフレームインする。
「あなた、いま何をしようとしてたの! 余計なことしてないでしょうね!?」
その人物は、目尻を吊り上げた厳しい表情でマダムに駆け寄った。ショートヘアに茶色のセーター、足には白いスニーカーを履き、右手にはやはりゴミ袋。体型は小太りだが、マダムとそう年は変わらないように見える。
「ご婦人だ。いつもはこんな時間に来ないのに……」
総司令の小声はやや焦っている。カラスがマダムから一歩離れ、マダムはゆっくりと立ち上がった。
「何してるって、このカラスさんと心を通わせようとしていたんですよ」
不機嫌そうなマダム。ご婦人は下瞼を痙攣させて、自らを落ち着けるようにゴミ袋を置いた。
「あのねぇ、動物と心を通わせるなんて、そんなのできるわけがないでしょう?」
「いいえ、できます。人間だってカラスと同じ動物なんですから、努力すればきっと……」
「あなたね」ご婦人がマダムをキッと睨む。「いつまで夢見がちなこと言うつもりなの?」
「あら」マダムがご婦人を鼻で笑う。「優しい心を失うより、夢見がちなほうがマシでしょう?」
「いい加減にしなさいよ!」
ご婦人が声を荒らげた。カラスがまたぴょんと飛び、隣のゴミ袋に移る。わずかに怯むマダムの顔に、ご婦人はびしりと指を突きつけた。
「動物と和解するなんて、現実にはあり得ないのよ!」
「出動!!」
間髪入れず、総司令の声が僕の耳を刺した。「はッはい!」ピンクが素早く立ち上がり、植え込みを回り込んで一目散に駆けていく。ブルー那須もそれに続き、遅れて僕も植え込みを出た。急に伸ばした膝が痛む。頭も、腹も。握った拳が震えている。
「待ちなさぁーッい!」
ゴミ捨て場に到着すると、ピンクは勢いよく手を突き出した。マダムは驚いた顔でピンクを見、追いついたブルーと僕を見る。ご婦人も怯えた目で僕らを睨んで、神経質に唇を震わせた。
「なっ、何よ!? 何ですかあなたたち、何を待ったらいいわけ!?」
「あッ、ん? な、何を待ってもらったらいいんでしょう!?」
慌てて振り返るピンク。知りませんよそんなの! でもそんなこと彼女に言えない。僕がまごついているうちに、ピンクはご婦人たちに向き直ってしまった。
「と、とにかく! 私たちが来たからにはもう大丈夫です! そのカラスさんのことはあの、お任せあれですから!」
「お任せあれって何が? 何なんですかあなたたち、そんな変なコスプレして! 私たちのこと、ず、ずっと見てたんじゃないでしょうね!?」
困惑をあらわにしつつ、マダムも目尻を吊り上げた。ご婦人とマダムの二人に睨まれたピンクは、両手を顔の前でバタバタと動かす。
「コスプレではないですし、ずっとってわけでは! あなたたちがゴミ捨て場にいらっしゃってからですから!」
「じゅうぶん『ずっと』じゃないの! どういうつもり? 警察を呼ぶわよ!」
「えぇっ、それはちょっと!」
「ちょっとって何ですか! 盗み聞きするような人に、カラスさんは任せられませんよ!」
「あ、あの……」
女性たちのやり取りを遮って、ブルーがおずおずと声をあげた。ご婦人の厳しい視線とマダムの尖った視線、ピンクの助けを求める視線が一斉に彼に向けられる。ブルーはわずかに背筋を伸ばし、ゴミ袋の前でキョロキョロしているカラスを指さした。
「えと、この、カラスなんですけど、ゴミ捨て場を荒らすんです。ご存じだと思いますけど」
「知ってるに決まってるわよ! だからこの人に注意してたのに」
「注意?あんなのただの言いがかりでしょう! ……ハッ、まさかあなたたちまでこのコを!」
「いや、そうではなくて。俺たち、その……このカラスと、和解できないかな、と」
「はぁ?」「和解?」ご婦人の目つきがさらにきつくなり、マダムの目つきは和らいだ。
「まぁ、それなら私と同じですね。そうよね、こんな野蛮な人の言うことは間違ってますよ」
「何ですって!? ちょっと、あなたたちまで変なこと言わないでちょうだい!」
ご婦人に詰め寄られ、ブルーはたじたじになりつつヘルメットの眉間を掻く。
「ああ、ええと……確かに、非現実的なことではあります。でもその、方法はある、というか」
「……どういうこと」
「この人なんですけど」ピンクの肩に手を置くブルー。「動物と会話できるんです」
「はあぁ?」
ご婦人が首を前に出す。マダムは大きく目を見開いてピンクに顔を向けた。ピンクはハッとした様子で腰に手を当て、胸を張る。
「そうです、そうなんです! 私、動物のみなさんとお話することができるんです!」
「ほ、本当なんですか、あなた! 本当に動物さんとお話が?」
「ちょっ、ちょっと、待ちなさいよ! そんなことあるわけないじゃない!」
前のめりになるマダムと、それを押しのけるご婦人。ピンクはそんな二人の手を、両手でぎゅっと強く握った。
「本当です。あなたたちの非現実は、この現実に実現しますよ!」
ピンクが振り返り、僕とブルーに目配せする。ブルーが静かに頷きを返し、僕も慌ててそれに倣った。
ご婦人たちと入れ替わるように、ピンクはゴミ捨て場に身を滑り込ませる。コの字の塀から放り出されて、道路に並ぶご婦人とマダム。ピンクはその場にふわりとしゃがみ、カラスと視線を合わせるようにした。その両脇を、僕とブルーが仁王立ちになって固める。
「な、何? 何なの?」
ご婦人が僕らを見回す。ピンクは彼女に向けて左の人差し指を立てると、カラスにそっと左手を差し出した。
道路側のご婦人たちから見ると、向かって左側にカラス、右側にピンクがいる形だ。ピンクは身体ごとカラスのほうを向いていて、ご婦人たちには彼女の左半身しか見えないはずである。
「カラスさん、カラスさん。私の話を聞いてくれませんか?」
言いつつ、隠れた右手を右のブーツに忍ばせるピンク。そしてブーツの中から、ピンク色の小さな塊を取り出した。ラップにくるまれた生肉だ。
「私、あなたにお願いしたいことがあるんです」
自分の身体に隠しながら、ピンクは右手だけで器用にラップを開いていく。作戦通りならこの生肉は、『タカミヤ』が仕入れた今日もっとも新鮮な商品のはずだ。ラップを剥がした生肉を、ピンクが軽く揺らしてみせる。
するとカラスは首を回して、パッと彼女に目をやった。それを見て、マダムは口を手で押さえる。ご婦人も片眉を上げた。
「そう、ありがとうございます! 聞いてくれるんですね!」
ピンクはチラチラと生肉を揺らし、カラスの注意を引き続ける。
「私たちは、決してあなたの敵ではありません。だけど、あなたがその袋に穴をあけたり、中身を引きずり出したりすると、私たちは困ってしまうんです。分かってもらえますか?」
ヘルメット越しの声は柔らかい。カラスはじっと生肉を凝視し、ピンクのほうへ一歩、歩み寄る。その動きを見逃さず、ピンクはゆっくりと首を縦に振った。
「……はい、ああ、なるほど……あなたにもそんな事情があったんですね。うん……分かります」
一歩、また一歩と距離を詰めていくカラス。ピンクはそれに怯むことなく、左手を優しく差し伸べ続けている。マダムは口に手を当てたまま、ご婦人は怪訝な表情のまま、この光景を食い入るように見つめている。その奥の植え込みからは、総司令がひょっこり顔を出している。
「うん、うん。……え、分かってくれるんですか!」
カラスがさらに近づくと、ピンクはわずかに前のめりになった。カラスはビクリと震えてから、訝しむようにピンクを見上げる。慌てて身を引くピンク。
「ああ、ありがとうございます! もうこのゴミ捨て場を荒らさないと、そう誓ってくださるんですね! 嬉しいです!」
当然、そんなことなど誓われていない。すべてはピンクの一人芝居だ。だが、マダムはすっかり感動した様子で目を輝かせている。ご婦人は困惑の表情で目を見開き、マダムとピンクを交互に見比べた。
僕は唾を飲んだ。作戦通りなら、この先が一番の見せ場であり、難関だ。
「カラスさん、カラスさん。それでは和解と友好のしるしに、もっとこちらに来てください。ヒトとカラスの関係に、永久の平和を誓いましょう!」
そう言って、ピンクは生肉をいっそう魅惑的に揺らした。カラスは再び生肉に視線を戻し、またゆっくりと肉のほうへ向かっていく。カラスを迎え入れるべく、ピンクは慎重に左腕を開く。くちばしが膝に触れるほど近づいたとき、カラスを抱え込むように肘を曲げ――
「きゃッ!?」
突然、ピンクのヘルメットにカラスが飛びかかった。ピンクはとっさに肉から手を離し、両手でカラスの攻撃を防ごうとする。
くちばしをヘルメットに弾かれたカラスは、手放された生肉を目がけて再び降下した。素早く肉を拾い、後ろ手に隠すブルー。それを見ると、カラスは今度はブルーの頭まで飛び上がった。カンカンカンと音を立てて、足やくちばしでヘルメットを叩く。
「ちょ、ちょっと!」ピンクが立ち上がるも、割って入る隙がない。ブルーは片手でカラスを追い払おうとするが、カラスはお構いなしにヘルメットを狙い続ける。僕は数歩離れた位置から、その様子を眺めることしかできずにいる。
ただ見てるだけじゃ駄目だ! 助けなきゃ、どうやって? 下手に動いても足手まといになるだけだ。じゃあどうしたら? カラス、カラスってどうしたらいいんだ!?
真っ白な文字で頭が埋まっていく。カラスはブルーから離れない。ご婦人とマダムは愕然とした顔で騒ぎを見つめている。二人の歪んだ眉には、確かな不信感が宿っていた。公園の植え込みに視線を向けると、総司令は戸惑った表情で中腰になっている。
バサバサッという羽の音とヘルメットの叩かれる音が、僕の鼓膜を力任せに震わせる。視界がぐるぐると平衡感覚を失う。指先が、行き場を求めるようにわなわなと動く。
――やっぱり、ヒーローなんて無理だったんだ。
この現実は、そんなにヤワなものじゃない。『現実に非現実を実現』するなんて、初めからできるはずがなかったんだ。カラスと人間が和解するなんて、そんなことまずあり得ない。
僕はごく普通のサラリーマンでしかないし、ヒーローはフィクションものでしかない。作戦会議なんかしてみたって、コスチュームに着替えてみたって、凡庸な僕がヒーローになんかなれるわけがなかったんだ。
身体の芯が、頭のてっぺんからどんどん冷たくなっていく。右の踵が無意識に一歩後ずさった瞬間、甲高く可憐な声が、僕のヘルメットを越えて突き刺さってきた。
「や、た、助けてーッ!」
――ハルカさん。
心臓が、どくんと大きく脈打った。失われていた熱が、爪先から頭のてっぺんに向けて勢いよく戻ってくる。ガァ、とカラスが怒鳴るように鳴く。
そうだ。ヒーローがどうとか、現実がどうとか、そんなこと今はどうだっていい。ヒーローになれなかろうと、現実がどんなに強固だろうと、僕は今、ただ突っ立っているわけにはいかないんだ。
ハルカさんの、好きな女性の身に、危険が及んでいる。いま彼女を助けられるのは他でもない、この僕だけだ。
動かなきゃ。
――このまま、ヒーローになれないままの僕でだって!
後ずさった踵を回転させて、僕は公園を振り返った。何か、何か使えるものがあれば、多少はどうにかできるかもしれない。植え込み、ブランコ、滑り台、落ち葉、木の枝、ポイ捨てされた空き缶……空き缶?
空き缶の奥に視線を向けると、公園の隅には真っ赤な自動販売機が設置されていた。ここからではラインナップは見えない。ろくに考えもしないまま、僕は一直線に駆け出した。
「おいレッド! どうした!?」
僕が公園に入ると、総司令はご婦人たちに聞こえないギリギリの声量で僕に言った。僕は足を止めずに総司令を振り返り、手袋の中で冷え切っている右手を思い切り伸ばす。
「さッ、三百円! 僕の財布から出して投げてください!」
「三百円!?」
「はい!」
総司令は目を白黒させながらも僕のショルダーバッグを引き寄せ、勢いよくジッパーを開く。僕はその間に前方へ視線を戻し、自販機めがけて突っ走る。一か月ぶりくらいの全力疾走の負荷に、膝が悲鳴をあげている。
自販機のラインナップが見えてきた。ペットボトルは駄目だ。缶、タブ式の缶でないと。商品は三段にわたって配列されている。上二段はペットボトルで、一番下の段だけが缶の列だ。コーヒー、駄目だ、紅茶、駄目、炭酸……はどうなんだろう? 一〇〇%のリンゴジュース、これだ!
「おい! 五百円玉でいいか!」
総司令の控えめな叫びが飛んでくる。「お願いします!」振り向いて右手をあげると、総司令は太い腕を振りかぶり、空気を切り裂くように振りおろした。「うおぉおぉぉ!」
朝の光を反射して、金色の小さな物体が空中でキラリと光る。僕はシールド越しにそれを見上げながら身体を傾け、落下地点に右手を出した。「っし!」
受け取った五百円玉を握りしめ、そのまま自販機に向かう。到着の直前には腕を伸ばして五百円玉を投入し、到着と同時にリンゴジュースのボタンを押し込む。ガコン、と音がして、取り出し口に缶が落ちてくる。白地に真っ赤なリンゴ。膝を折って取り出しつつ、もう一度リンゴジュースのボタンを押す。ガコン! 取り出す。おつりは無視してUターンする。
ジュースを両手に公園を突っ切り、ゴミ捨て場に戻る。ご婦人とマダムの視線がヘルメットに刺さって胃の底が冷えた。ブルーとピンクはまだカラスとの格闘を続けているが、いよいよ劣勢のようだ。ブルーは塀に背を押しつけて、隠し持った生肉を死守しようと奮闘している。
僕は立ち位置に戻り、一方の缶を地面に置いて、もう一方の缶のタブを引いた。カシュ、という軽い音とともに飲み口が開く。今度は開けたほうを地面に置いてもう一本を拾い、同様に開ける。それから地面に置いたほうをまた拾って、飲み口の開いたリンゴジュースを両手に構えた。中身をこぼさないようにしながら、大股で騒ぎに近づく。
正直、上手くいくかは分からない。カラスとの和解を試みたことなんて、これまでの人生に一度もなかったから。
それでも、ここまで来たからには、もう引き返すことなんてできないんだ。
「お、おい! カラス……さん!」
カラスを呼ぶ。声が裏返った。ピンクとブルー、そしてご婦人とマダムが一斉に僕を見るが、カラスは僕になんてまるで興味を示さない。早くも心が挫けそうになる。けれど、ここまで来たら挫けられない。
「おいってば!」
さきほどよりも大きい声で呼び、片方のリンゴジュースをカラスの横っ面に突き出す。カラスは驚いたように素早く距離を取り、塀の上にとまった。傷を負った、ウインクしているような顔で、僕の手のリンゴジュースを見る。僕は凄まれている気がして、少しだけ腰が引けた。
「お、落ち着いた?」
引け腰のまま、カラスに向けて足を踏み出す。カラスは動かず、一歩ぶん近づいたリンゴジュースを瞬きもせずに見つめている。もう一歩、前に出る。カラスは動かない。ヘルメットの中に、自分の荒い呼吸音だけがこもる。シールドと眼鏡がうすく曇った。
「え、ええと、そう、驚いたよな。突然話しかけられて、いきなりお願い事なんかされて、嫌、だったよな。……ごめんね」
ブルーとピンクの間を通り抜け、真っ直ぐに、着実に、カラスのほうへ歩み寄っていく。缶を差し出す手はやっぱり震えていて、缶の中でジュースがちゃぽんと音を立てる。曇った視界の先の、黒い影に向けて、距離を詰めていく。
「だけど、その、やっぱり、困るものは困るんだ。君のせいで困ってる人が、いてさ」
あと三歩。
「それにほら、さっきみたいにされるとさ、僕らは余計に、君が怖くなっちゃうっていうか」
あと二歩。
「そういうのって、お、お互いよくないと、思うし。……だから、さ」
あと一歩。
「仲直り、しようよ」
目の前に、黒い影。動く気配はない。リンゴジュースを差し出すと、影は小首を傾げて、缶の中を覗きこんだように見えた。
「乾、杯」
そう言って、缶をさらに近づけてみる。影は一度かるくのけ反ってから、また頭を近づける。
手の震えが収まらない。心臓の音がうるさい。緊張に思わず息が詰まると、徐々に視界が晴れていく。黒い影が、動く。
カラスが、飲み口をくちばしでつついた。
「かっ、乾杯!」
カラスがつついたほうの缶に、僕はもう一方の缶をぶつけた。「おぉ……」と、ピンクの小さな唸りが聞こえる。マダムのほうを見ると、彼女は目をまん丸にして、赤くなった頬に手を当てていた。感動してもらえている、らしい。
けれど、問題はご婦人のほうだ。夢見がちでない彼女は、この急場しのぎをどう受け止めてくれているのか……。僕は恐る恐るご婦人に視線を移した。ご婦人は口をぽかんと開けて、その唇を指で撫でている。その頬にはもう、数分前のような頑なな強張りは見られなかった。
僕は缶をそっとカラスから離した。カラスのくちばしは缶の飲み口に入らないし、僕もヘルメットの上から飲むことはできないので、これはあくまでも「乾杯」のポーズに過ぎないのだ。そもそも、動物と話せる設定なのはピンクだったし。
恨めしそうに僕を睨むカラス。また暴れられそうでヒヤヒヤしていると、
「あ、あなたッ!」
大きな声をあげながら、マダムが僕に駆け寄ってきた。反対側の塀の端へ、カラスはさっと飛び移る。マダムは輝きを取り戻した目で、僕のシールドを覗きこんだ。
「なんて素晴らしいんでしょう! こんなことを成し遂げるなんて……あなたたちって本当にヒーローなんですね!」
「え、あ、あぁ」
僕は曖昧に頷いた。ヒーローなのね、という言葉に、左胸が引きつる。マダムから視線を逃がすと、その先にはご婦人の不機嫌な顔があった。さらに心臓が痛む。
「最初は、頭のおかしい人たちなのかと思ったけど」
もはや逃げ場を失った僕に向けて、ご婦人はため息をつくように口を開いた。
「ここまでされちゃあ、もう何も言えないわね」
ゆるゆると左右に首を振るご婦人。わぁ、とピンクの声が漏れる。僕の左胸は緩み、自然と肩の力が抜けた。
「ねぇ、あなたたち」
そこへ、マダムの弾んだ声が飛んでくる。僕が慌てて目を戻すと、彼女は続けた。
「チーム名はなんていうんですか?」
「へっ?」
僕が素っ頓狂な声をあげると、マダムはじれったそうに両手を合わせた。
「ほら、あるでしょう? ナントカ戦隊、みたいな。あなたたちの格好、それじゃありません?」
「え、えぇと、それは、現実戦隊……」
途中まで答えて、僕はハッとする。『現実戦隊タカミヤー』という名称は、変更になるんじゃなかったか? でも、『現実戦隊』までは既に口に出してしまった。いや言い直せばいいのだけれど、じゃあ何にするんだ? 非現実戦隊? 対、だっけ? でもそれだと語呂が悪いような。そうでもないか? 『タカミヤー』の部分はどうしたらいい? え、ここで僕が考えるの?
助けを求めて、ピンクとブルーに視線を送る。ピンクは顎に手を当てた思案のポーズで、ブルーには露骨に目を逸らされた。慌てて総司令を見るが、彼は完全に植え込みに隠れている。
「げ、現実戦隊、その」
視線が宙をさまよう。マダムの顔を見られない。早く、早く答えないと、何でもいいから、いやよくないけど、何か、何か。そもそもヒーローの名前ってどうやってつけるんだ? 特徴? 僕たちの特徴は……。
そのときふと、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。もはやなりふり構っていられない僕は、ろくに考えもせずその単語にしがみつく。大きく息を吸って、声を出そうとして恥ずかしさで息が詰まり、もう一度空気を吸い込んでから、僕は爽やかな朝のゴミ捨て場に叫んだ。
「現実戦隊フツージン、です!」
「『現実戦隊フツージン』! いいよなぁ」
散乱したゴミをつまみ上げつつ、鷹宮氏は噛みしめるように言った。ご婦人とマダムは既に帰ったあとで、ゴミ捨て場には僕らとカラスだけが残されている。
「素敵ですよね! 『ン』で終わるところが、ビシッと決まっててカッコいいです」
ビシッ! とハルカさんがポーズをとる。それから新しいゴミ袋を開いて、破れたゴミ袋にかぶせた。塀のカラスに睨まれながら、僕は苦笑いを返す。コスチュームからスーツに着替え、ヘルメットを外した視界はまだ少し眩しい。
「いやぁ……あれは僕が考えたっていうか、ブ……那須さんの受け売り、で」
褒められたたのは嬉しいが、このネーミングを僕の手柄にするのは心苦しかった。ハルカさんが「あら、そうなんですね!」と声を弾ませる。彼女も着替えを済ませていて、可愛らしい声もクリアに聞こえた。
「富士野さんと那須くんがお話してたの、知りませんでした! いつそんなお話を?」
「え、えぇと、作戦の前、トイレで着替えてるときに」
「へぇー!」
ゴミ袋の口を結びつつ、ハルカさんはニコニコする。鷹宮氏も「ほぉー」と低く言い、満足げに続けた。
「あいつは昔からセンスが良かったからなぁ。戻ってきたら褒めてやろう」
「お父さんに褒められたら那須くん、困っちゃいそうだね」
ハルカさんは楽しそうに笑って、公園のトイレに目を向けた。さっきまでカラスの挙動を見張っていた那須はいま、僕と交代して着替えに行っている。
僕はハルカさんの笑顔を数秒見つめてから、カラスに視線を戻した。那須の奴め、やっぱりかなりの高評価だ。確かに態度も落ち着いていて優秀そうだし、少し話した感じでもいい奴そうではあったけれど……。
思わず眉間にシワを寄せると、カラスも目力を強めてきた。着替えを終えて、ジュースも両方飲み干したが、カラスはまだ僕を『レッド』として認識しているのだろうか。ジュースの匂いが残っているのか?
「それにしても私、今回はダメダメでした」
ガサガサ、とゴミ袋を鳴らしながら、ハルカさんがため息をつく。
「ご婦人たちにも警戒されちゃいましたし、肝心の作戦だって上手くいかなくて、そのあとはずっとオロオロしてただけですし……こんなことじゃ私、ヒロイン失格です!」
くぅ~、と悔しそうな呻き声が聞こえてくる。鷹宮氏も続いて唸り、「ま、あんまり気にするな」とフォローに回った。
「戦隊ヒーローが一色だけじゃないのは、誰かの失敗を他のメンバーが塗りつぶしてやるためだ。肉だってちゃんと回収できたし、あれはおれが晩酌のつまみにでもするさ! おれは肉を食って腹を壊したことがないんだ」
そう言って豪快に笑う鷹宮氏。カラスがその声に飛び上がって、塀の角にとまり直した。「うぅ、私、もっと強くなります!」ハルカさんの決意を聞きながら、僕はまたカラスの前に移動する。そのとき、一つの疑問が頭に浮かんだ。
「あのぅ、そういえば……このカラスって、これからどうするんですか? 放っておいたら、またここを荒らしちゃうんじゃ」
「ああ!」鷹宮氏が明るく言う。「それはもちろん、おれが引き取ってうちで面倒みるぞ」
「えっ、そうなの!?」ハルカさんが驚いた声をあげる。「でもうち、お肉を売ってるんだよ? カラスが出入りしてたら、あんまりよくない気がするけど……」
「んッ!?」声を裏返す鷹宮氏。
「あと、野生の鳥って勝手に飼っちゃいけないような……」口を挟む僕。
「えッ」声が低くなる鷹宮氏。
「人に懐かせるのもよくないですし……どうしたらいいのかな?」語尾を上げるハルカさん。
「う、うぅぅぅむ」唸る鷹宮氏。「それなら、まぁ、方法はひとつしかないな」
「ひとつ?」ハルカさんが繰り返す。
「それは」鷹宮氏は、躊躇うように間をあける。「毎週交代で早起きして、あらかじめカラスを追い払うという方法だ」
「なるほど」神妙に頷くハルカさん。
「え、でも、何をしてもなかなか追い払えないから、保健所の話が出たんじゃ……?」僕が言う。と、鷹宮氏は「うぅぅぅぅ」とエンジンのように呻き、噴火した。
「えぇぇぇぇぇぇいッ! じゃあおれたちはどうしたらいいんだぁッ!」
その直後、激しい羽音とともにカラスが飛び上がった。黒い翼をアタフタと広げ、空の彼方に飛び去るカラス。一瞬の出来事に、僕らはぽかんと口を開けて、カラスの消えていった空を見上げることしかできなかった。
「逃げ、ちゃいましたね」ハルカさん。
「な、なんでだ? あんなにふてぶてしそうだったのに」鷹宮氏。
「もしかすると」僕。「大きい音が苦手なのかも」
「ああ、確かに、作戦のあいだも大きい音にはちょっと怯えてたような……」
「だが、こんな単純な方法はもう試されてるはずじゃないのか」
「それは、そうですけど。でも……」
「お父さん、特に声が大きいから……」
「そ、そんなことでか!?」
鷹宮氏がいつもの声量で驚く。カラスの消えた真っ青な空では、日が少しずつ高くなっていく。ぼうっと見上げ続けていると、道路側から硬い足音が近づいてきた。
「あれ、カラスは?」
ややハスキーな、落ち着いた声。聞き覚えのある低さだが、記憶の中より明瞭で、いい声だった。僕は空から目を離せないまま、唾を飲み込む。
「おお、那須! 戻ったか!」
「那須くん! カラスね、お父さんの声に驚いて飛んでっちゃったの」
鷹宮父娘が続けざまに名前を呼ぶ。「え、そんなので良かったんですか?」「うぅむ、おれはまだ納得しとらんが」「でも絶対そうだよー」「あ、そういえば那須! フツージンって名前つけたの、お前なんだってな!」「え、いや、俺が名前にしたわけでは」三人の会話が続く。僕は改めて那須の声を聞き、彼がヘルメットを脱いでいることを確信した。
――那須の素顔。
――ハルカさんと幼馴染で親しげで、ハルカさんの父親にも好印象で、おまけに声もいい男の素顔。
僕はゆっくりと息を吸い、吐いた。ぎゅっと三回瞬きをし、自分の胸を二回叩き、ゆっくりと、声のするほうを振り返った。
「あれは、話してるときにちょっと言ってみただけで……戦隊の名前となると、俺は全然思いつかなかったんで」
滑らかに動く、薄い唇。自然な、しかし端正な眉。左右対称な切れ長の両目。襟足の長い茶髪。高いが、決して主張しすぎない鼻。洗練されたファッション。
「ほんと、俺の功績ではないです」
ハルカさんの幼馴染で、鷹宮氏にも好印象で、声もよくて優秀でそのうえ謙虚な我らがブルーは、紛うことなきイケメンだった。
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