第1話「結成! 現実戦隊!」Aパート

「は? ヒーロー?」


 味噌汁を箸でかき混ぜながら、佐藤が語尾を上げた。僕は周囲の様子をちょっと気にしつつ、「そう、ヒーロー」と控えめに答える。


 昼の十二時四十分。大して繁盛しても寂れてもいない定食屋には、サラリーマンの丸まった背中がぽつぽつと並んでいる。僕と佐藤もその一組だ。月曜日のぼんやりとした憂鬱の中に、埋没している。


「どう思うって言われてもなぁ。ていうか、なんで急にヒーローの話なわけ」


「いや、ちょっと、昨日テレビで見て……?」


「ああ、朝の特撮か」


 佐藤は味噌汁のワカメをすくい、口に入れた。飲み込んで、うーん、と眠たげに唸る。


 定食がテーブルに揃うなり、僕は「ヒーローってどう思う?」と佐藤に訊いた。けれど、それを尋ねる理由までは明かせないでいた。十年来の友人相手とはいえ、二十六にもなって「僕、ヒーローになる!」と宣言するのはハードルが高い。




 

 あの失神した帰り道のあと、夕食の皿に肉野菜炒めを盛りながら、僕はようやく我に返った。「ヒーローになってくれませんか?」という声が脳裏に蘇り、「ヒーローかぁ」とにやけながら呟いて、「ヒーロー……?」と眉間にシワを寄せた。眼鏡が若干ずれたまま、土曜日の僕は次第に冷静になっていく。ハルカさんとのやり取りを一からすべて思い出し、眉間のシワはさらに深くなった。


 彼女との会話で得た情報をまとめると、こうだ。


「僕はヒーローになり、何かに乗り気なハルカさんとそのお父さんと一緒に、何かを頑張る」。


 僕の頭皮が一気に冷や汗を量産した。ヒーローになるとは言ったものの、ヒーローになって何をするのかが全く分からないのだ。

 というかそもそもヒーローって何? 正義の味方? 悪と闘うの? 悪って何? あっもしかして「あなたは私のヒーローです」みたいな抽象的なあれ? あれってどれ? ヒーローって何だ?


 豚バラ肉を噛みながら、僕は混乱の渦に陥った。そして、ハルカさんからの「お願い」に浮かれた愚かな自分に失望した。ヒーローとは何なのか、ヒーローとして何をしたらいいのか、どんなに考えてもサッパリ分からない。分からないのに、ハルカさんもお父さんも乗り気だという。


 夕食のあと、僕の胃は途端に痛みだした。腹まで壊してトイレで涙目になりながら、僕は何度も自分を責めた。布団にもぐり込んでも眠れる気配はなく、日付が日曜日のものになり、早朝にようやく眠れても昼に目覚めれば不安は一日じゅう続いた。鏡に映る寝不足の男に、「ヒーロー」という言葉のイメージは、これぽっちも重ならないままだった。





「ま、カッコいいよな。ヒーロー」


 時は現在に戻り、佐藤が言う。味噌汁をふぅふぅ冷ます湯気に隠れて、元から薄い顔がさらにぼんやりとしている。さっきから味噌汁を冷ますばかりで、メインのチキン南蛮に手をつける気配が全くない。僕は焼き魚定食の魚をちまちまつついて、ようやくほぐし終えた。


「カッコいい、ね」


 ほぐした身を口に放り込む。何の魚かは分からないが、苦い。


「そうよ。つーかカッコよくてナンボだからなぁ、特撮ヒーローは。俺も子どものころ憧れたよ。ほら、あの……なんつったっけ?」


「知らないよ。どんなやつ?」


 しまった。すっかり特撮ものの話になっている。僕は「ヒーロー」全般の話が聞きたいのに。


「えぇっと、あー」


 佐藤は箸で空中に輪を描いた。苦しげに目を細めて、絞り出すように言う。


「あのさぁ、アレ! なんか宇宙を守るために戦うーみたいなさ、覚えてない?」


「宇宙を守る? あー……あ、あったあった」

 

 言われてみれば、確かにそんなヒーローがいた。僕が幼稚園児だったころの戦隊ヒーローだ。主人公はもちろんレッドで、宇宙を危機から救うため、ほとんど毎週戦っていた。

 幼い僕は居間のテレビにかじりついて、「もっと離れて見なさい!」という母の声も聞こえないほど夢中になっていた……気がする。


 記憶の中のテレビ画面に、採石場の景色が映る。その真ん中で、ぬるぬるした肌の怪人が高笑いする。するとどこかから鋭い声が飛んできて、怪人がハッと振り向くと、爆発する崖の上からカラフルな五人組が飛び降りてくる。ザッ、と音を揃えて足を踏み出し、彼らは一斉に名乗るのだ。確か、


「光戦隊コーセイジャー」


「それだ!」


 僕の呟きに、佐藤が箸の先を突きつけてくる。眼鏡をつつかれそうになり、僕は慌ててのけ反った。「あ、ごめん」箸を引っ込める佐藤。


「いやぁ、それだそれだ。コーセイジャー! なっつかしー」


 ようやくチキン南蛮に手をつけながら、佐藤は二、三回頷いた。彼は僕よりは明るいけれど、仕草のいくつかはぎこちない。チキン南蛮を飲み込んで、声が続く。


「いま思い出して気づいたけど、『コーセイ』って『恒星』だったのかな。あの、光る星の」


「まあ、そうだろうな。たぶん博士か誰かが説明してたんだろうけど」


 意味は分からなくても「コーセイ」って響きはカッコよかったんだよな、と思い出していると、「そういえば、あれってさ」と佐藤が口を尖らせた。「ん?」


「あれって、レッドは冴えないフリーターだったんだよな。バイト先の店長にはいっつも叱られてて、ボロっちいアパートに住んでるような」


「ああ……」


 ボロボロの赤いスタジャンを着た、はたち前後の青年が頭に浮かぶ。


「そいつがさ、いきなり正義の博士に呼びつけられて、『ヒーローになって宇宙を守れ!』って言われて、戦隊のレッドになるんだよ。子どもの頃は、そのギャップみたいなのが最高にカッコよく思えたけど……今になってみると、なんか、あれだよな」


「あれって?」


 佐藤は薄く息を吐きながら、眉を下げて笑った。


「ヒーローなんて所詮、フィクションでしかないんだよな、って。思うよな」


 薄い顔が、壁の色に溶け込んで見えた。





 五月の帰り道は、いつも夕日に向かって歩くことになる。背の低い建物が集まる町の、幅の広い真っ直ぐな道を、西へ向かって辿っていくからだ。町を流れる川の対岸に沈む、濃い赤色をした夕日は、ドラマチックな代わりにひどく眩しい。

 視界が緑色に焼かれるのを嫌って、僕は毎日頑なに俯いて歩いていた。人通りも少なく、アスファルトの黒は目に優しい。残業が長引けば帰る頃には日が落ちているが、僕の勤め先は残業嫌いのホワイト企業だ。右手に提げた通勤鞄が重い。


 右、左、右、左……交互に繰り出される自分の足を眺めながら、焼き魚の苦さを思い出す。


 佐藤とは結局、戦隊ヒーローの話しかできなかった。ハルカさんの言う「ヒーロー」がどんなものなのか分からないので、戦隊ヒーローの話が役に立つのかも分からない。しかし、佐藤の見せたあの寂しげな笑顔は、昼からずっと僕の頭を締めつけ続けていた。


「フィクション、なぁ」


 口の中で、僕はこっそり呟いた。「ヒーローなんて所詮フィクション」。佐藤の言葉は至極当たり前で、その響きを反芻すればするほど、身体の内側が冷えていくような感じがした。


 右、左、右、左。重い足取りで夕日に向かっていく。視界の中で、自分の足が歩いている。顔を上げると、黒ずんだ壁のラーメン屋や客の入っていないブティック、先月できたばかりの眼科を通り越して、長い通りの中間地点に差し掛かっていることが分かった。地面を押し返す足が、さらにずしりと重くなる。


 中間地点の少し先に、ハルカさんが働く『肉のタカミヤ』はある。店名のプリントされた赤い庇が目印の、昔ながらの「お肉屋さん」だ。


 今日も通りの真ん中を過ぎる。眩しさに耐えて目を上げれば、夕焼けを背にした赤い庇を見ることができた。二秒ほど見つめて、また俯く。踏み出した足が、ずしん、ずしん、と音を立てているような気がする。思考が歪んだ円を描いて、僕の身体を取り囲む。


 ――ヒーロー、か。


 子どもの頃に見た、『光戦隊コーセイジャー』をまた思い出す。その記憶は曖昧で、細かいストーリーは全く頭に残っていない。それでも、ヒーローたちの格好よさは漠然と脳裏に思い描けた。心優しく勇敢で、強く美しく爽やかな「ヒーロー」。いつでも前向きな彼らなら、真っ赤な夕日だって背筋を伸ばして見つめられるだろう。


 それに比べて、僕ときたら。


「……やっぱり、断ろうかな」


 佐藤の言うことは正しい。ヒーローはカッコいいけれど、フィクションの中のものでしかないのだ。ハルカさんが僕に何を求めていようと、現実を生きる冴えないサラリーマンが「ヒーロー」になれる気はしなかった。後から断るのは忍びないが、なれもしないヒーローになろうとして恥を晒すよりは、きっといくらかマシだろう。


 ――しかしそうなると、どう言って断ればいいんだ? 正直に「ヒーローになれる気がしないので」なんて言ったら、パッとしなさと意気地のなさが同時に露呈してしまうんじゃ? じゃあどんな理由ならいいんだ。仕事? 帰省? 持病? 家訓? すみません、うちは代々サラリーマンの家系で、ヒーローなんて大それたものには「あ、富士野さーん!」ん!?


「良かったぁー! 私、会議の日程をすっかり伝え忘れててー!」


 驚いて顔を上げた僕に、五メートルほど先の『肉のタカミヤ』からハルカさんが手を振っている。頬の輪郭を逆光に滲ませた彼女は、今日も溌溂とした笑顔を僕に向けてくれていた。


「ああ……ど、どうも?」


 いつもなら彼女に会えるだけで天にも昇る心地なのだが、今日に限っては口角が引きつる。会議? 日程? どういうことだ?


「ちょっと待っててくださいー!」


 そう声を飛ばして、ハルカさんはショーケースの脇から歩道に出た。そのまま、パタパタとした小走りで近づいてくる。その光景にまごつきながらも、僕は直立不動で彼女を待った。


 お店の外のハルカさんなんて、今まで一度も見たことがなかった。あぁ、彼女がこっちに来る。ハルカさんが走っている。いつも通りのエプロン姿で、右肩のまとめ髪を揺らし、ピンク色のタイツを穿いた脚を動かし、彼女がどんどん近づいてくる。待って、まだ心の準備が、あ、ショーケースがないからいつもより、近くに、あ、え? ハルカさんの手?


「行きましょ、富士野さん!」


 ハルカさんの右手が、僕の左手首を掴んだ。彼女はひときわ明るく笑って、そのままくるりと踵を返す。僕の手首を掴んだままで『タカミヤ』のほうへ戻っていく。状況整理に三秒ほど費やしてから、僕の心臓が暴れ出した。


 左手首には、ハルカさんの白くて華奢な指が確かに巻きついている。視線を上げると、ハルカさんの首の輪郭が、夕日に柔らかく光っている。空は真っ赤に染まっていて、何らかのいい匂いがして、通勤鞄の重さなんかもうまるで気にならなくて、僕は口を半開きにしたまま、漫画みたいだ、と思う。


 ハルカさんはショーケースの脇を抜け、店の奥に入った。手を引かれたまま僕も続く。奥はこうなっていたのか……とドギマギしているうちに、ハルカさんが階段を上り始めた。

二階? 僕はあの赤い庇の上、二階部分のベランダを思い出し、それからそこに干されていた洗濯物を思い出し、「えぇっ!?」


「わっ? どうしたんですか富士野さん」


「あっあの、この階段の先って」


「あぁ、はい! 自宅です!」


 そんな大胆な!


 ジメジメと日陰に生き続けた二十六年間、好きな女性の家にお邪魔したことなんて当然なかった。それが初めて、しかもこんなに強引に、手を引かれて招かれるとは……。頭がふわふわして目はぐるぐるする。前のめりになってバタバタと階段を上っていく。ヒーローのこととか手を引かれている理由とか、そんなことを考えられる余裕はもうない。ハルカさんの手! ハルカさんの家! それだけ!


 階段を上りきり、目の前のドアを開けて、ハルカさんはついに住宅部分に入った。勢いのまま靴を脱ぎ捨て、ハッとしたように振り返って丁寧に揃える。その回転に引っ張られて僕は振り回され、転びかけた。「あっすみません!」「い、いえ」

 廊下にあがる。ハルカさんの短い呼吸が規則的に聞こえてくる。洗面所へのドアが開いている。この細いドアはトイレ? 閉じているドア、誰かの部屋? ここで生活するハルカさんの幻があちこちに見える。人の家の、少し埃っぽい匂いがする。


「ここです!」


 走りながら、ハルカさんが僕を振り返る。廊下の突き当たりには、すりガラスの嵌め込まれたドアがあった。ガラスからは白い光が漏れている。ハルカさんはドアノブに手を伸ばしながら、僕の目を真っ直ぐ捉えて微笑んだ。


「ここがうちの、会議室です!」


「お、お邪魔します!?」


 会議室!? と思う間もなくドアが開かれ、僕はつんのめるように部屋に入った。フローリングの床、キッチン、テレビ、電話機の載った棚とベランダに続くサッシ、そして……原色の、青い人影。


 真っ青な、全身タイツだ。首元から股間にかけて、白いラインが伸びている。頭には青のフルフェイスヘルメット。首には白いスカーフを巻き、両手に白い手袋を嵌め、猫背ぎみの人影はダイニングテーブルにちょこんと座っている。タイツの左胸とヘルメットの額には、丸い字体で「現」の一文字。


 「ブルー」という言葉が、僕の頭でチカッと光った。


「おお、ようやく来たか!」


 と、声が飛んでくる。豪快な声量に顔を上げると、テーブルの奥ではもう一人の人物が、仁王立ちになって太い腕を組んでいた。恰幅のいい体型とつるりとした頭、マジックで引いた線のような、堂々とした眉毛。この人こそがハルカさんの父親、鷹宮……下の名前を知らない。


 ぽかんと口を開ける僕に向けて、鷹宮氏は組んでいた両腕を広げた。バッ! と音がしそうな勢いに、ビクンと僕の肩が跳ねる。間抜けに怯える僕の顔に、鷹宮氏のよく通る声が、ひとつの塊になってぶつかった。


「ようこそ! 『現実戦隊タカミヤー』へ!」





 人の家の麦茶ってどうして不思議な味なんだろうなぁ……。敢えてありきたりなことを考えることで、精神のクールダウンを図ろうとしていた。「ブルー」の目の前に座らされ、ハルカさんに出してもらって飲む麦茶は、渋くも甘くも濃くも薄くもある。膝の上にのせた通勤鞄は、また重さを取り戻していた。テーブル奥の鷹宮氏を、気づかれないようにそっと見上げる。


 ハルカさんの父、鷹宮氏は、『肉のタカミヤ』の店主でもある。僕も店頭で何度か声をかけられたが、とにかく声が大きく、嵐のような人だった。毎回かならずネクタイを褒められるのも怖かった。紳士服店のセール品だった真っ赤な一本を、毎日適当に締めているだけなのに。


「えー、それではこれより、第一回『ストラテジー・ミーティング』……通称・『作戦会議』を開始する」


 渋い声色を白々しく使いながら、鷹宮氏が僕らを見回す。ブルーの隣のハルカさんが、「わー!」と楽しそうに拍手した。ブルーは猫背のまま動かず、ヘルメットのシールドに遮られて表情も見えない。僕は肩を縮めて、「ストラテジー・ミーティング」は単に「作戦会議」の英訳じゃなかったっけ、と思っている。いや、そんなことを考えている場合ではない。


 テーブルを挟んだ目の前には、「現」の字を掲げた全身ブルーな人物。鷹宮氏が発した、『現実戦隊タカミヤー』という固有名詞。「ようこそ」という歓迎。そして『作戦会議』。


 この状況を理解しようとすれば、答えはひとつしかない。


 僕は今、戦隊ヒーローの一員に数えられている。


 血液の温度が下がった。


 ――ヒーローなんて所詮、フィクションでしかないんだよな。


 なぁ佐藤、僕のいるここはノンフィクションの世界だよな?


 というかそもそも、僕はヒーローを断ろうとしてたはずなのに!


「では、まずは自己紹介から始めよう。最初はおれでいいかな」


 僕が困惑しているうちに、鷹宮氏が会議を進行する。氏は腰に両手を当てて胸を張り、ニッと笑ってから話しだした。


「鷹宮だ。普段は『肉のタカミヤ』の店主として肉を捌いているが、それは世を忍ぶ仮の姿。その正体こそ、灰色の町を鮮やかな原色に染め上げる正義のヒーロー、『現実戦隊タカミヤー』の創始者! そして、みんなの頼れる総司令なのである!」


 …………。


「総司令ー!」


 ダイニングに降りた冷たい静寂に、ハルカさんの温かな声援がうすく漂った。ブルーの猫背がひどくなっている気がする。僕は表情筋が引きつるのを感じながら、それは自己紹介というよりもキャラクター紹介の文言だろ、と思っている。

 鷹宮氏は鼻を高くして、また歯を見せて笑った。


「君たちも、おれのことは気軽に総司令と呼んでくれ」


 呼べるか!


「じゃ、次はー……ピンク! バシッといっちゃってくれ」


「うん! じゃなかった、はいっ!」


 父親、もとい総司令に指を差されたハルカさんが勢いよく立ち上がり、バシッと敬礼を決める。ノリノリで元気いっぱいな仕草もやっぱり可愛いが……ピンク、って。本当に戦隊ヒーローをやるつもりなのか? こめかみが、じくじくと痛み始める。


 と、ハルカさんはおもむろにエプロンの紐を解いた。脱いだエプロンをテーブルに置き、下に着ていたシャツワンピースのボタンに手をかける。僕のこめかみがドクンと脈打った。な、な、何を! 僕は両手で顔を覆い、でも指の隙間から少しだけ覗く。


 ひとつ、ふたつ、みっつ……ハルカさんの指が素早くボタンを外していき、最後のボタンが、ぷちりと外される。それから彼女はついに、ワンピースの前を開く。


 ――と、そこは一面ピンク色だった。


 脱ぎ捨てられたワンピースがダイニングを舞う。


「鷹宮ハルカ! 肉屋の可憐な看板娘! しかしひとたび仮面を脱げば、町にくるりと笑顔の輪をかく天下無敵のスーパーヒロイン、『現実戦隊タカミヤー』麗しのピンク! なのです!」


 前髪をかき上げて「きまりました……」と頬を紅潮させるハルカさん。彼女が身につけているのは、原色ピンクのタイトなミニワンピースだ。その首から裾にかけては、ブルーと同じ白いラインが入っている。ワンピースの丈は太腿の半ばまでしかないが、その下には同じく原色ピンクのタイツを穿いていた。そして左胸にはやはり、丸い字体で「現」の一字。


「どうですか総司令! 似合ってますか?」


「似合ってるぞぉ! お前は世界の一ヒロインだ!」


 楽しげな鷹宮父娘の姿を、僕とブルーは黙って眺める。完全に置いてけぼりを食らっている。すると、ブルーに鷹宮氏の太い指先が突きつけられた。


「次はお前の番だぞ、ブルー! さあ!」


「あ……はい」


 ヘルメット越しに、かすれた低音が聞こえてくる。戦隊ヒーローのセオリー通り、ブルーの中身は男性のようだ。ブルーは中腰ていどに立ち上がり、僕に向けて会釈した。


「ええと、那須なす、といいます。普段はあの、駅の近くの美容院で、美容師をやってます。鷹宮さんちとは実家が近所で、昔からの付き合いっていうか……そんな感じで。で、その、ブルーをやらせてもらうっていうことで、こんなカッコなんですけど……よろしくお願いします」


 最後にもう一度お辞儀をして、ブルーこと那須はそそくさと席に着いた。その落ち着かない動作に安心感を覚えつつ、僕もお辞儀を返す。ここへきて、初めて「自己紹介」を聞いた気がした。顔を上げながら鷹宮氏の反応を窺うと、氏も満足そうな笑みを浮かべている。


「うむ。二人は初対面だもんな。これからゆっくり親睦を深めていくといい!」


 わっはっは、と高笑いする鷹宮氏。ブルー那須と僕は、ぎこちなく顔を見合わせた。


 実家が近所で昔からの付き合いということは、もしかすると、那須はハルカさんの幼馴染になのかもしれない。だとしたらちょっと、嫌だな。ヘルメットの下がイケメンだったら、もっと嫌だな。目を凝らしてみたけれど、シールドには僕の平凡な眼鏡面が映るばかりだ。


「よぅし! じゃあ最後は……」


 鷹宮氏が僕を見て、僕は思わず背筋が伸びる。自己紹介は苦手だ。視線を避けるように俯くと、質量すら感じられる声が僕の頭をぶん殴った。


「最後は、レッド! 頼んだぞ」


「……はっ?」


 弾かれたように自分の首が回り、鷹宮氏の顔を見上げる。氏は僕の反応に驚いたのか、目を丸くして少し仰け反った。


「どうしたレッド。もう残りはお前しかいないだろ」


「い、いや、そういうことではなくて」


 自分の目が泳いでいるのが分かる。けれど、視覚からの情報は何一つ脳に届いていなかった。体と思考が引き裂かれたようなふわふわした感覚に酔って、胃のあたりが波立つ。僕はテーブルに両手をつき、倒れそうになる身体を支えた。


「レッド、ですか? 僕が?」


「そりゃそうだろう。レッドがいなきゃ戦隊にならん」


「そ、そんな……」


 ヒーローを断ろうとしていた僕が「レッド」になるなんて、そんなことあってたまるか。レッドといえば、戦隊ヒーローの花形じゃないか。僕は現実を生きる、どこにでもいるサラリーマンなのに。


「勝手に決めて悪いな。しかし、レッドに適任なのは君しかおらんのだ」


 神妙な表情で腕を組む鷹宮氏。僕がレッドに適任?「なんでですか」


「いつもネクタイが赤いから」


「そ」そんなことで!? 思わず視線を胸元に落とすと、ネクタイは今日も真っ赤だった。なんでこんなのを選んだんだ! 安かったからだ。


 『コーセイジャー』のレッドを思い出す。彼はどうして選ばれたんだっけ。思い出せる彼の姿は、悪の怪人に立ち向かう勇敢な、正義としての自信に満ち溢れたものばかりだ。


「まぁなんだ、そんなに気負う必要はない。レッドという立ち位置は確かに戦隊の要だが、あくまでもリーダーはこの総司令だからな」


 鷹宮氏はまんまるな拳で自身の胸を叩く。直後、僕の虚ろな視界に真っ赤な影がフレームインした。見ると、どこかから取り出した赤いヘルメットと衣装を、ハルカさんがテーブルにのせている。


「レッドさんのコスチュームもちゃんと作ったんですよ! ほら、このワッペン、私が縫いつけたんです」


 赤い全身タイツの「現」を指さしながら、ハルカさんが弾んだ声で言う。


 ハルカさんがワッペンを縫いつけたコスチューム。それすなわち、ハルカさん手作りのコスチューム。

 

 ――断れない!


「さぁレッド、自己紹介を」


 鷹宮氏が僕に手のひらを向ける。ヒーロー、レッド、ハルカさん、手作り……いくつかの単語が頭の上でぐるぐる回り、視界までぐるぐるになるうちに、僕の両足はフローリングの床を震えながら押し返していた。


「ふ、富士野……です。『タカミヤ』さんにはよくお肉を買いに来ていて、あ、仕事は、会社員を、はい。ええと、よ、よろしくお願いします」


 やや深すぎる一礼のあと、僕は崩れ落ちるように腰を下ろした。「よし! いいぞレッド」鷹宮氏の満足そうな声が降ってくる。僕は俯き、鞄にのせた両手の間で視線を行ったり来たりさせた。冷や汗が背中に滲む。

 自己紹介してしまった。ここで自己紹介したということは、『レッド』を認めたということになってしまうのだろうか? 断るはずだったヒーローの、しかも戦隊ヒーローのレッドに、僕はなってしまったのか?


 はいどうぞ、という声とともに、コスチューム一式が目の前に滑り込んできた。目に痛いほどの赤に、帰り道の夕日が思い出される。たった十数分前のことなのに、なんだか遠い昔のことみたいだ。


「えー、では諸君!」


 鷹宮氏がパチンと両手を合わせた。その音に誘われるようにして、ハルカさんとブルー那須、そして僕の三人は一斉に「総司令」の顔を見上げる。が、僕はまたすぐに下を向いた。


「これからはこの四人で『現実戦隊タカミヤー』としてのヒーロー活動を展開していくぞ。それぞれの名前と色をきちんと覚えて、確実な連携をとれるようにしておくように」


 総司令の言葉が続く。僕は視線をさまよわせながら、ほんの少し前の自分の思考を思い返している。ヒーローはあくまでもフィクションのもので、僕はハルカさんに謝って、ヒーローの話はきちんと断るはずで――。


「あぁそれから、『タカミヤー』の正体が我々であることは絶対に秘密だぞ。間違っても人に言いふらしたり、外でうっかり『ピンク!』などと呼ぶことのないように……」


「あっ、あの」


 氏の声を遮って、僕は中途半端に右手を挙げた。顔を下に向けたまま、鷹宮氏の様子を斜めに見上げる。


「あの……ひ、ひとつ、言わなくてはいけないことというか、僕、その、ヒーローに」


 ヒーローに、なりたくないんですけど。肝心なところが喉につかえる。全員の視線が、自分に向いているのが分かる。ハルカさんの父親、戦隊の総司令、鷹宮氏の目も。


「ヒーローに……ついての、ことが、何も、分かってないんですけど」


「あぁなんだ、そういうことか!」


 この場の空気に、僕はなす術もなく敗北した。ヒーローになりますと言っておいて、『レッド』として自己紹介をしておいて、コスチュームを作ってもらっておいて、「やっぱり嫌です」とは僕にはとても言えなかった。空気に逆らう主張をしたことなんて、これまでの人生にあったかどうかすら分からないのに。


「いきなり手を挙げたから何かと思ったぞ。戦隊の趣旨や活動内容が知りたいんだな? ちょうど、今からそれを説明しようと思っていたところだ」


 鷹宮氏の声がワントーン明るくなる。「はあ、まあ」と曖昧に応えながら顔を上げると、我らが総司令の瞳には蛍光灯の光が白く反射していた。


「さて!」


氏の人差し指が、ピンと天井を指す。


「まず初めに言っておくべきなのは、我々『現実戦隊タカミヤー』が、現実に立ち向かう戦隊ヒーローであるということだ」


「現実?」


 僕の小声を聞き取り、鷹宮氏は鷹揚に頷いた。


「そう。おれたちは、この世に蔓延る無慈悲な現実に立ち向かうため、ここに集っているのだ。『現実に立ち向かう』ということがどういうことか、分かるか?」


「いえ……」


「ブルーは?」


「いや……」


「ピンク、にはもう話したな」


「はい!」


「うむ! では答えを言いなさい」


「いえっさー!」


 敬礼とともに起立するハルカさん、もといピンク。彼女は背筋を伸ばして息を吸い、一息に言った。


「現実に立ち向かうということは、『現実に非現実を実現』させるということです!」


「そぉーうだ!!」


 テーブルを叩いて前のめりになる総司令。ガシャっと音を立てる麦茶のコップ。


「げんじつにひげんじつをじつげん……」訳も分からずオウム返しにする僕。


「そぉうだ!」激しく頷く総司令。


「それなら、『非現実戦隊』か『対現実戦隊』なんじゃ……」メットの奥で呟くブルー。


「えっ!?」ブルーを見る総司令。


「確かに。そういえば、正体を隠すのに『タカミヤー』も変ですね」顎に手をやるピンク。


「あっ!?」ピンクに視線を移す総司令。


「じゃあ、もとの名前からはもう何も残らないってこと、ですか?」口を挟む僕。「ですねぇ」ピンク。「そうなると、俺たちの名前は……?」ブルー。「えぇえぇいッ!」総司令が怒鳴る。


「分かった、名前のことはおいおい考える! とにかく、活動については習うより慣れろだ!」


 ダン! 総司令の手のひらがテーブルに叩きつけられる。分厚い手とテーブルの間には、一枚のコピー用紙が挟まれていた。何やら地図のようなものと、そこに添えられた手書きの文章が断片的に見える。


「現実戦隊タカミヤー、カッコ仮! その記念すべきデビュー戦……」


 総司令の手が、ゆっくりと持ち上げられる。コピー用紙を覗き込みつつ、僕は眼鏡の位置を直した。


 用紙の最上部には、マジック書きの荒々しい字で、「作戦計画書!」と記されている。


「全隊員の全力を以て、いたずらカラスと和解せよ!」


 総司令の左の瞳が、キラリと鋭く輝いた。

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