!天眼通(てんげんつう)

Jack Torrance

天眼通

14歳のダニー ロドリゲスは自室のベッドの上で腹這いになりマーベルコミックの『アベンジャーズ』を読み耽っていた。


ケッ、こんなヒーローがいたら、この世に警察や検事や弁護士なんて要らねえぜ。


でも、おもしろいよな。


真面目な少年ならば学校に行って勉学やスポーツに励み友人と恋愛の話だとか昨日見たドラマの話だとかで盛り上がっている時間にも関わらずダニーはその一人の時を満喫していた。


うるさく小言を言う両親は仕事で不在。


コミックの横には開封されたポテトチップス。


枕元のヘッドボードには飲みかけのコカ コーラのペットボトル。


すると、ダニーがコミックに夢中になっていたのもあるのだろうが背後で「おい、ダニー」と呼ばれた声にダニーは夜道で脇道から急に人が出てきてぶつかりそうになった時のようにびくっと体を痙攣させた。


そこには、ダニーの父方の祖父で76歳になるオジョ(スペイン語で目)が立っていた。


ダニーがふてくされて言った。


「何だよ、じいちゃん。びっくりさせんなよ。俺の部屋には勝手に入って来んなって何度も言ってんだろ」


オジョは呆(ほう)けた表情でダニーの冷たい口調にも意を介していないようであった。


白髪(はくはつ)になっている真の意味での無造作ヘア。


平たく言えばボサボサヘア。


汗ばんだ額にその白髪の前髪が藻のようにびったりと張り付いている。


オジョは半年以上、理髪店に行っていなかった。


半開きになった口からは前歯が二本無くなっている。


二日前に骨付きフライドチキンを食べている時に骨を思いっきり噛んで部分入れ歯が折れていた。


喋ると穴が開いた酸素チューブのようにシューシューと息が漏れて滑舌が悪い。


上下お揃いの『グレムリン』のギズモがプリントされているパジャマを着ている。


パジャマのズボンの裾を靴下の中にたくし込んでいる。


老斑が浮き出て皺だらけの顔を表情一つ変えずにダニーの瞳だけを見つめて嗄(しゃが)れた声で言った。


オジョは催眠術師から振り子を眼前に翳されて暗示をかけられているかのように漠然とダニーの瞳を見つめている。


認知症の老人が喜怒哀楽の表情が乏しくなる兆候と類似していた。


「わしの眼鏡を見らんかったか?」


ダニーは、このじじい何言ってんだよといったように顔を顰めて言った。


「じいちゃん、何言ってんだよ。でこに眼鏡が掛かってるじゃねえかよ」


ダニーが言ったようにオジョの白髪が張り付いた額に眼鏡が掛かっていた。


「おお、そうじゃったか。全然見えんかった」


「そりゃそうだろ。でこに掛かってんだからな」


「わしも耄碌(もうろく)したもんじゃな」


オジョがぽつりと呟いた。


「何言ってんだよ、じいちゃん。じいちゃんは、疾(と)っくの昔から呆(ぼ)けてんだろ。俺の名前を覚えてるのが不思議なくらいだぜ」


ダニーがオジョを嘲笑した。


オジョは何かを思い出そうと暫し沈黙を挟んだ。


40秒くらい異様な空気が室内に淀みオジョが言おうとした事を思い出して開口した。


「ところで、ダニー。わしの年金を入れておる封筒から300ドルが無くなっておるんじゃがのう。お前、知らんか?」


ダニーはぎくりとした。


その金は5日前にダニーが無断で失敬していた。


このじじい、何がわしも耄碌したもんじゃなだ。


てめえ、金の計算だけは公認会計士や税理士並にしっかりしてるじゃねえかよ。


ダニーは自分にとって都合が悪い時には必ずと言っていいほど白(しら)を切っっていた。


ダニー ロドリゲス様の十八番(おはこ)の見せ所だ。


大工の棟梁が粋に腕捲くりして見習いの若い衆をどやし付けるかのように威勢よく言い放った。


「んなもん知らねえよ。じいちゃん、自分で使ったんじゃねえのかよ」


すると、今まで無表情だったオジョの表情がずる賢い詐欺師のようなあくどい笑みを口元に湛えた。


「お前、嘘をついとらんか」


ダニーは悟られないように表情を変えずに言い返した。


「何だよ、じいちゃん。俺を疑ってるのかよ。それなら証拠を出せよ。封筒に俺の指紋が付着してるとかよ。警察でも呼べばいいじゃねえかよ。ポリ公のおっさん達の前でいい笑いもんになるだけだぜ」


オジョはにたりと笑って静かに言った。


「いや、それには及ばん」


そう言い放つとオジョは額に張り付いている白髪を掻き上げてオールバックのように撫で付けた。


汗で湿っていて脂ぎったオジョの毛髪が頭頂部に撫で付けられると、そこには額から二つの目玉が丁度眼鏡の位置に合うように隆起していた。


化け物、妖怪、怪物、悪魔の遣い…


そのようなワードがダニーの脳内を目まぐるしく駆け巡る。


な、何だ、このじじいは!!!


ダニーはベッドから飛び上がり部屋の隅に逃げた。


キッチンのテーブルからチーズを咥えて地下室の壁に開いた巣穴に逃げ戻るドブネズミのような素早さだった。


冬山で遭難したスキー客のようにガタガタと身を震わせながら声を張り上げるダニー。


「く、来るな。こ、こっちに来るんじゃねえ。この化け物」


ダニーは部屋の隅に立て掛けてあったバットを構えていじめられっ子の少年が不良グループの少年達に歯向かうようにブルブルと身震いしている。


オジョは醒めやらぬ興奮と熱気に沸き起こるスタンディングオベーションの観客に応えるクラシックコンサートの指揮者のように充足感に満ち溢れた生き生きとした表情で言った。


「よく見えるんじゃよ。この目ン玉でこの眼鏡越しに見ると。お前の心の中が」


ダニーはよく見ると眼鏡のつるが耳の後ろの乳様突起から肉腫のように生えている事に気付いた。


な、何だ、この化け物は…


ダニーは声を失った。


オジョが滑舌の悪い口調で饒舌に続けた。


「見えるんじゃよ。この目ン玉と眼鏡で見ると。よく見えるんじゃよ。お前の母さんだって洗い物や掃除をしとる時にわしは影から舐め回すように見とるんじゃがの。服を着とるのに透けるように乳や陰部が見えるんじゃよ。その度にわしは視姦しとるんじゃよ、ウヒヒヒヒヒ。お前の母さんも何かに見られていると自覚しているような素振りで胸を隠してすじ隠さずなんじゃがの。お前、わしの金を盗んだじゃろ。正直に言え、このクズめが、ウヒヒヒヒヒ」


ダニーはガタガタと震えながら首を振った。


自らの意思で首を振っているのか体の震えで首が揺れているように見えるだけなのか。


その判然としないようなダニーの意思表示に意を介さずオジョは非常な笑みを湛えながら攻め立てた。


「いや、嘘をつくんじゃない。わしには霧が晴れた湖の水面(みなも)に映る風景のようにくっきりと見えるんじゃよ。例えば、あのベッドに置いておるポテトチップスとコカ コーラ」


ダニーは、オジョが言ったポテトチップスとコカ コーラに視線を移した。


「あれはスーパーで万引きしてきたもんじゃろう」


ダニーはぎくりとした。


「あのコミック」


ダニーはマーベルコミックに視線を移した。


「あれは、お前の同級生のサイモン ヒバートの家からくすねてきたもんじゃろう」


ダニーはぎくりとした。


「あのゲーム機」


ダニーはテレビの前のプレイステーションに視線を移した。


「あれは、お前がいじめておるベニー オーエンから脅し取ったもんじゃろう」


な、何故知ってやがるんだ。


ダニーはオジョが言っている事が全て核心を突いている事に怖気を振るった。


何でこの化け物は全部お見通しなんだ。


プレイステーションはベニーのヤローが何処かで愚痴りやがったってのも考えられるから別として他の件は誰も知らねえ筈だ。


なんで俺しか知らない事を知ってやがんだ。


まるで真犯人しか知り得ない情報を自供している連続殺人犯みてえじゃねえかよ。


オジョが恫喝するマフィアのように刺々しく一喝した。


「お前みたいなクソガキは生かしとってもクソの役にも立ちゃあせん。クズめ、天誅を下す日の到来じゃ。裁きのセレブレーション デイ(祭典の日)じゃ」


ダニーが闇雲にバットを振り回し抵抗した。


オジョの手がバットを掻い潜り蔦のようにするすると伸びてダニーの首を触手のように捉えると指が首にめり込んでいった。


「ウググググ、や、止めてくれ、じいちゃん」


握っていたバットを床に落とした。


ダニーが苦しそうに哀願する。


オジョがよく聴こえる方の右耳をダニーに傾けた。


左耳は突発性難聴で聴力はかなり衰えていた。


「何、今何と言った?」


ダニーが苦しそうに声を絞り出す。


「や、止めてくれ、じいちゃん。お、俺が悪かった。殺さないでくれ、じいちゃん。後生だから助けてくれよ。俺、心を入れ替えて真面目に生きるからさ」


掠れ声でダニーが目に涙を溜めて哀願する。


オジョがその言葉を聞いて満面の笑みになった。


「お、おい、ダニー、わしに頼んでおるのか。ほ、本当に心を入れ替えるのか。その言葉に偽りはないのじゃな。助けてくれとわしに頼んでおるのじゃな」


ダニーが必死でこくりと何度も頷いた。


すると、オジョは今自分がダニーにしている事を悔やんでいるように哀しい表情になり、がっくりと項垂れた。


ダニーは首を絞める力が弱まり呼吸が楽になった。


た、助かった。


10秒くらいしてオジョが首を上げてダニーを見据えた。


その表情はこの世のものとは思えぬ腹黒く毒々しい鬼畜の表情に変わりにたっと笑っていた。


「馬鹿垂めが、騙されおったな、ウヒヒヒヒヒ。ヒャッホー、本日は我が人生最良の日哉。このクソガキめが。今までわしを騙しおってからに。わしから金を盗みわしの事を蔑んできたお前をわしが助けてやるとでも思ったか、チッチッチッチッチッ。お人好しにも程があるのをもうちょっと弁えたらどうじゃ、このこそ泥のペテン師めが、ウヒヒヒヒヒ」


オジョは邪悪な笑みを満面に湛え楽しそうに首を横に振った。


ダニーの首を絞める力が先程よりも更に強まった。


76歳のじじいとは思えぬ握力でダニーの首がへし折れそうだった。


チアノーゼで鬱血するダニーの顔面。


目を見開き最期の足掻きを見せるダニーだったが到頭力尽きてがくりと頭を垂れた。


オジョが首から手を放すとダニーの躯が床に崩れ落ちた。


蔦のように伸びていた腕がシュルシュルシュルと元の鞘に収まるように元に戻った。


鬼畜の表情で四つの目を見開いているオジョが口角から涎の気泡を家畜のように垂らしていた。


1分くらいの放心状態を経るとオジョは元の無表情な顔に戻っていた。


乳様突起から生えている眼鏡のつるを指で抓み本来の眉毛の下にある目玉に合せて額の目玉と耳の後ろの乳様突起を長く伸びた白髪で覆い隠した。


口角の気泡を手の甲で拭ってそれをパジャマの裾になすくり付けた。


ダニーのベッドのヘッドボードに置いている飲みかけのコカ コーラを手に取り蓋を開けると一気に飲み干してゲップを浅く漏らした。


ペットボトルと蓋を床に投げ捨てるとオジョは前のめりに突っ伏しているダニーの元に歩み寄り膝を折って前屈みになるとダニーの髪の毛を掴んで顔を覗き込んだ。


誰だ、此奴は?といった怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げた。


掴んでいた髪の毛を放すとダニーの頭部がゴンと床にぶつかる音が室内に反響した。


部屋の窓のカーテンは開け広げられていて陽光が燦々と降り注いでいた。


4時間後


ダニーの母の悲鳴が躯が横たわる部屋から発せられた。


911に連絡し警察が来た。


「息子さんの交友関係は大体分りました。後、何か変わった事はありますか?人から恨みを買っていたとか無くなった物があるとか。現場の状況から見て他殺は間違いないと思われます」


ダニーの母は先程までの狼狽した様子から幾分か落ち着きを取り戻してハンカチで目を拭いながら言った。


「おじいちゃんがいないんです。主人の父なんですが認知症があってよく徘徊していなくなる事があるんです。たまに正気に戻ったかのように真面(まとも)な時もあるんですが。いつもの事ですわ。すぐに帰って来ると思いますわ」


1年後


町の電信柱や駅やバスターミナルの掲示板。


オジョの無造作ヘアで無表情な写真が印刷されたポスターが貼られていた。


その太々しい表情とだらしなさから脱走した囚人か指名手配犯のようにそのポスターに写っているオジョは見えた。


〈家出人。オジョ ロドリゲスさん、失踪当時76歳。失踪当時は『グレムリン』のギズモがプリントされた上下のパジャマ。髪は白髪で長髪。前歯が二本欠損〉


有力な情報は皆無だった。


それから更に2年後


「トゥデイズ イヴニングの時間です。今日はこのニュースから。またしても不良グループに加わっていたと思われる13歳の少女の絞殺死体がカリフォルニア州サンタモニカの被害者の自宅で発見されました。被害者はサーシャ プルーさん、13歳。遺体は4時過ぎにパートから帰宅した母親がガレージで発見したそうです。サーシャさんは3日前にドラッグストアで化粧品を万引きした為に両親から自宅での謹慎を言い渡されていたそうです。この3年の間に車や金品の窃盗、万引、恐喝、薬物使用などで逮捕歴や補導歴がある13歳から16歳までの少年少女が全米10州をに渡って絞殺されるという事件が11件起きています。警察は同一犯の犯行と見て捜査していますが何一つ手掛かりはありません。もし、何かを目撃したとか不審な人物を見たと言われる方は最寄りの警察署にご一報お願いいたします。被害者やご遺族には一定の同情を示しますしセカンドチャンスという観点からも更生の余地は残してあげるのが最善の方法なのかも知れませんが更生せずに再犯する事例も多く見られるのが現実問題です。もし、殺害された少年少女が人に危害を加える人間になっていたとしたら…この犯人は現存するアベンジャーズなのかも知れません。私のような人間には計り知れませんが。では、次のニュースです…」

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