いつしか、キミが、ロリになる

ゆうすけ

第1話 プロローグ 東京

 大学の近くの喫茶店。高くもなく安くもないごくありきたりの店内で俺は、一人の女子大生の向かいの席でコーヒーを飲んでいた。平日の夕方、帰宅途上の学生が立ち寄ることが多いこの店は、そこそこ混雑している。BGMのジャズ音楽も学生たちの若い喧噪にかき消されがちだ。

 女子大生は鼻歌まじりでパフェのソフトクリームにスプーンを突きさす。髪の毛を気にしながらスプーンを口に運んで、「ん、おいし」とつぶやくその女子大生が、スズカだ。スズカはスプーンを置くと、何気ない風情でつぶやいた。


「でね、リョージさあ」


 外は抜けるような青空。こんなに爽やかな青空は一年に何回も見られるものでもない。春先は新歓だ飲み会だとなにかと忙しいのが通例だとの話だが、世界を揺るがした感染症のおかげで、俺たちの新入生時代は春先から幽閉生活が続いていた。先輩たちは不満気だったが、俺たちの学年はそういう盛り上がりを知らない。

 ただ、久方ぶりに緊急事態宣言が解除された今日この頃、街の中の人々の足取りは、みなどこか軽やかに見える。

 俺は身構えた。経験上スズカがこういう甘えのまじった声を出すときは、たいがいろくでもないことを言い出すときだ。


「付き合ってみる気、ある? わたしに」


 パフェの輪切りのオレンジにかぶりつきながら、なんでもないような口調でスズカがぽろっとつぶやく。こぼれたセリフに、さすがに俺はむせ返った。藪から棒に何言い出すんだ、こいつは。ゲホゲホ言いながら俺が紙ナプキンで口を拭っていると、スズカはニヤリと唇の端を歪めた。


「なーにか勘違いしてるでしょ? 今さら何慌ててるのよ。そういう付き合って、じゃなくてね。わたし、ちょっとアメリカに行かなきゃならなくなってさ」


 スズカは俺の狼狽した様子を一笑に付して、一ミリも悪びれることなく言葉を補う。しかし、それでもなお圧倒的に描写不足で意味が分からない。なんとなれば普通に交際してくれと言われるよりも刺激が強い。こいつは分かっていてやっている。だからこそタチが悪い。


「は? 何言い出すんだよ! なんで俺がスズカとアメリカ行かなきゃならないんだ? いや、そもそも、アメリカがどっから出てきた?」


 まったく、スズカの頭の回転が速いのはよーく知っているが、こいつの言動は常に突飛だ。大学一年の春、希望に胸を膨らませて始めて踏み入れたキャンパスでいきなり声をかけられてから、かれこれ一年。俺の傍らにはなんだかんだで気が付けば必ずこいつがいる。そしていろいろ難癖付けたり絡んだり。タチが悪い。タチは悪いが気分は悪くない。セミロングの髪を揺らしながら笑うスズカはいかにもイマドキの活発系女子だ。最初は随分大人びた雰囲気だと思ったが、時間が経つにつれてだんだんと子供っぽい言動も垣間見えるようになった。美人がそばにいて気分が悪いわけはない。けどその美人がコイツだと認めるのは、なんか悔しい。

 俺は山奥の田舎の村の出身。東京での暮らしが右も左も分からなかった俺にとって、キャンパス生活で初めてできた友人がこいつだった。あくまでだ。誰がなんと言おうと、断固としてだ。俺の全人格をかけて、異論は認めない。


「ちょっとね、どうしても行かなくちゃいけない用事ができちゃってさ。一人で行くの、あんまり気が進まないんだよね」


 スズカはパフェのソフトクリームからスプーンを引き抜くと、極めて雑にはむっと口の中に放り込んだ。その表情がいつもの人を食った表情ではなく、どこか遠い、何十年もの時間の先を見ているようで、少しどきっとする。

 俺はあわててグラスのストローをくわえて、意味なく氷をかきまわした。澄んだ音が二人の間の空間に満ちていった。

 こいつのこの表情が、俺は好きだ。すべてを知っていて俺を見守っているようでもあり、俺を試しているようでもある。それに加えて俺はこいつのこの表情に、すこぶる弱い。


「それに別に来ないなら来ないでいいよ、リョージ。どっちにしてもわたし一人でも行かなきゃならないからさ。気は進まないけどね。ちなみに、リョージはパスポート、持ってるんでしょ?」

「待て待て、いついくつもりだよ」

「んー、来週ぐらいからかなー」


 なんでもないことのようにスズカは言った。


「来週? まじ? 授業とか試験とかどうすんだよ」


 スズカはスプーンをくわえたまま「なにを分かり切ったこと聞いているんだ」という顔をする。


「さぼりに決まってるじゃん。それがどうかした?」

「どうかした、じゃねーよ。前期試験、受けられねーじゃねーか。それとも二泊三日とかで帰ってくるつもりなのか?」

「いや、だから別にリョージに付いて来てくれとはひとことも言ってないって。一人でもなんとかなるから。まあ、わたしは半年ぐらいかかるかもしれないかなって覚悟してるけどね。だいたいさ」


 スズカはぺろりとスプーンをなめて再びパフェのソフトクリームに戻した。なんだか仕草が子供っぽい印象だ。器用にすくってまた口元に運ぶ。


「アメリカまで行って二泊三日で帰って来られるわけないでしょ。それぐらいの地理の知識は持ってるんじゃなかったの?」


 思わずグラスから顔をあげてスズカの顔を正面から見つめてしまった。端的に言うと、ムカついた。


「うるせー! 知ってるよ、それぐらい。日付変更線通るから空港とんぼ返りするだけでも最低ゼロ泊三日になるんだろ?」


 俺は昔習った古い知識を披露してドヤ顔でアイスコーヒーをすすった。スズカはにやりと笑う。


「そお。よーくできました。えらいねー。ちゃんと覚えてるんだ、中学校の英語の授業でやったこと」


 俺の顔を覗き込んで来るスズカのセリフに、問題に正解した子供を誉めるニュアンスがにじむ。いや、そんなこと誉められてもバカにされた気がするだけだ。だいたいなんでピンポイントに中学校の英語の授業って知ってるんだ、こいつは。高校の地理の授業かもしれないし、小学校の社会でも、大学の一般教養の文化人類学でも出てきたじゃねーか。まあ、確かに中学校の英語の授業で雑談で出て来たときのことが一番印象には残っているけどな。えてして昔の授業風景では雑談のような何気ない会話の方が記憶に残るもんだ。

 俺はとにかく体勢を立て直して、背筋を伸ばす。スズカに向かって厳かに、できるだけ男の威厳を保ちつつ、出せているかどうかは自信ないが、イケボで語りかける。コイツ相手には舐められたら負けだ。


「すこし話を整理しようか。スズカはアメリカに行く用事ができた。で、俺を道連れにしようとしている。それは分かった。で、なにするつもりなんだよ、アメリカに行って」

「ふふふ、聞きたい?」

「ああ? バカ言うんじゃねーよ、わけも分かんねーでアメリカくんだりまで行けないだろうが。俺はお前の専属ボディガードじゃないんだから」

「へえ。わたしはてっきり似たようなもんだと思ってたんだけどねえ」

「はあ?」


 ちくしょう。ムカつく。でもあながち否定できないところが悲しい。


「実はね、ちょっと知り合いに、うーん、そうね、ぶっちゃけていうと……」


 またスズカはいたずらっぽく俺に視線を投げかけた。

 嫌な予感がする。

 コイツがこういうニヤついた顔でタメを作りながら吐くセリフはたいがいロクなもんじゃない。俺の経験則だった。


「家族……にね、会いに行かなきゃならないんだ。ただ、それだけのこと」


 ……なんだ、身構えた割には普通の答えが返ってきた。肩透かし感がしなくもない。それ以上にそこはかとなく「これ以上聞いても答えないよ」というスズカの拒絶した雰囲気と、少し目を伏せた陰のある表情が気になった。

 さっきのスプーンに残ったソフトクリームをなめまわす子供っぽい表情とは別人の、大人びた表情だった。なにより、何かを諦めたかのような、スズカらしくない沈んだ顔。


「どういうことだ? 家族がアメリカに住んでるのか」

「まあ、そういうこと。かるーく紗代ちゃんと二人で行く旅行の予行演習だと思ってくれてもいいんだよ」


 これはスズカの嘘だ。もっと違う目的でスズカはアメリカに行く考えだ。そして、その真の理由を俺に話す気はないらしい。

 スズカはノリの軽いヤツで、会話の九十八パーセントは軽口だ。その場の空気に合わせて適当に話を合わせた数時間後には忘れてしまうような会話、そういうものの引出しを無限に持っている。そういうヤツだ。しかし。俺と二人の時にときどきこういう「明らかに何かを含んだ顔」で「何かを含んだ話」をしてくるときがある。

 そんなスズカの側面に気が付いたのはヤツと知り合って半年ぐらいたった時だった。気になって聞いてみたこともあるが、「そお? 気のせいじゃない?」とはぐらかして頑として話そうとはしない。


 その点に関してはもう俺は気にしないことにしている。そこまで踏み込む義務も義理もないし、スズカはそこまで俺に求めていない。ならば俺はスズカの引いた立ち入り禁止の規制ラインを遵守しておくだけだ。


 しかし、そんなスズカが今回は明らかに立ち入り禁止ラインの内側に俺を誘導しているかのように思える。すげー回りくどい言い方をしているが、これは俺についてきくれって言っている。俺にはそう聞こえてしかたがない。なんと言っても家族の話がスズカの口から出てきたのは、俺の記憶の限り始めてだ。そこはどうしても気になるところだった。


「へえ。そりゃ光栄なこって。しかし、なんで俺がアメリカにいるスズカの家族に会いに行かなきゃならねーのかがまるで分からん」


 案の定俺の問いかけをスズカは華麗にスルーした。腕をくるりと裏返して手首の時計を見やると、大きな目を丸く見開いて「いけなーい、もうこんな時間!? バイト行かなきゃ!」とガサガサと立ち上がった。スズカはかばんの中のパステルカラーの財布から千円札を二枚引き抜いてテーブルに放り投げる。


「じゃあ、リョージ、そういうことで! よろしくね!」

「おい、待てよ! 決まりなのかよ、その話!」

「決まりだ、ってさっきから言ってるじゃない」


 あ、こいつ、ぜったいわざとだ。時間なくなるタイミングを見計らったな。俺の反論を封じてやがる。かー、おごりだと聞いてほいほいとついてくるんじゃなかった。とにかくこんな怪しい話に乗るのは、振り込め詐欺師に言われてアマゾンの金券買うみたいなもんだ。俺はスズカを必死で呼び止めた。

 しかし、それを嘲笑うかのごとく、スズカは足を止めてまたニヤリと流し目をして言った。


「キミが行かなくてもわたしは行くから。付いてきてもいいんだよ? もし付いて来るんなら、紗代ちゃんにはわたしからそれとなく言っといてあげる」


 そして引き留める間もなくポニーテールの毛先をなびかせながら、初夏の日差しの中へと足早に駆けて行った。

 すぐに見えなくなったスズカの背中を見送って俺は一人取り残された。


「くそ、アイツ、俺をハメやがった。まったく、勝手なヤツだよ」


 ふてくされて残りのアイスコーヒーをすするしかできなかった。しかし、聞いてしまった以上引き下がることもできない。


「あんな表情見せられたら断れないじゃねーか……。しかし、困ったな。紗代子カノジョにどう説明すればいいんだ、俺は」

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