VOICE 幻の歌姫

サトウ・レン

前篇

 私の世界には、はじめに歌があった。


 最初にそのひとの歌声を聞いた時、私は放課後の教室にいた。窓の先では紅く色づいたカエデの葉が茜色の空に覆われた中で、さらにその色彩を強めているような、そんな頃だった。


 高校最後の秋に、私は他には誰もいなくなった教室で彼とふたり、ただ特別なことなど何もない時間を過ごしていた。いやいまから考えればあれは特別だったかもしれない。意味のないものに特別さを見つけられないのなら、この世に特別なことなんてたいしてないようにも思えるが、あの頃の私はそんなことにも気付けないほど、淡々と過ぎゆく日常を嫌い、生きることに明確な意味を求めていたのかもしれない。


「なぁ」


「私は、なぁ、なんて名前じゃないよ」


「あぁ、ごめん。り、莉子りこ


「照れてる」


 彼は私の人生において最初の恋人で、お互いに気持ちを確かめ合ったのは、この頃よりもほんのすこし前のことだった。春頃に彼と私を含めたクラスメート数人で旅行をする機会があり、そういう集まりで中心から外れてしまいがちな私と彼は一緒にいる時間が自然と多くなり、それがきっかけでいままでほとんど関わりのなかった彼と話すようになり、実際に付き合いはじめたのは、夏休みで、その時に私は彼に、下の名前で呼んでもらうようにお願いしたのだ。自身の不慣れさを隠して、慣れない彼をからかったのもいまでは懐かしい想い出だ。


「まぁそんなこと、どうでもいいんだよ。この動画、見て欲しくて」


 そう言うと、彼は自分のスマホの画面を私に見せて、この曲なんだけど、と続けた。画面には、動画サイトのとあるページが映し出されていて、その動画のタイトルは素っ気なく四文字で、〈幻の歌姫〉となっている。


 彼がイヤフォンを付けるよう私に促した。イヤフォンの片割れを耳に入れた時、ふいに私は、ひとつのイヤフォンを一緒に付けたいな、とそんな気分になったのを覚えている。普段の私は、そんなことをするひとたちを横目で見ながら、あんな恥ずかしいこと私にはできないなぁ、とすこし小馬鹿にしていたような人間だった。だからちいさなプライドが邪魔して、実際にその感情を口にすることはできなかった。


 私がイヤフォンを両耳に付けるのとほぼ同時に、彼は動画の再生ボタンを押した。映像は真っ暗なままだった。そして景色を持たない映像の先から、音だけが流れ込んでくる。駅の近くや目抜き通りでよく耳にする多人数の声が絡み合う雑踏で聞くような音の中にあって、すっと心地よくひとつの歌声が聞こえてくる。私はその時まで一度も聞いたことのなかった曲だが、だいぶあとになって九十年代に大ヒットした有名なJ-POPだと知った。


 はじめて聞くその歌声は、すこしハスキーで丁寧で、そしてどこか懐かしい感じがした。


「ずっと聞いてるんだ。良くない? 概要欄には有名にならなかった幻の歌姫、ってだけ書いてる。で、さ。この曲が良いのもあるんだけど、あと純粋に、さ」彼が照れたように指でほおを掻いた。「莉子の声に似てるな、って思って」


「今回は、照れなく言ったね」


「茶化すなよ」


「ふふ。……そっか、でも似てるかな? 正直、私自身はあんまり分からないけど。それに歌声と普段の声、って違うものでしょ」


「まぁそうなんだけど、なんとなく雰囲気とか。前に、誰だったかな……、崎田か大野だったと思うんだけど、莉子がすごく歌がうまい、って聞いて。だから余計に莉子のイメージと繋がったのかもしれない。歌、聞いたことないけど、うまいんだ?」


「それも自分では分からないし、あと先に言っておくけど、私は人前では歌わないよ」


 彼が名前を挙げたふたりは私をちいさい頃から知っている。だから聞く機会があっただけで、いまの私は誰かの前で歌う気はない。だって純粋に恥ずかしい。そんな気持ちで彼の先を制して、私は言った。


「残念だな」


 と彼はのんびりと言って、それ以上、私に歌声を披露することを無理強いしようとはしなかった。実際にそう言われたことはないから、ただの仮定の話に過ぎないが、もしも彼が無理強いするような人間だったなら、私は彼を嫌いになっていただろうし、私は私の目に狂いがなかったことに誇らしくもなっていた。


 彼はおおらかな性格ではあったが、決してがさつなひとではなかった。


 嫌だと口では言いながらも、彼のそばでなら、彼だけが聞いてくれるなら、歌ってもいいかな、とそんな気持ちにもなっていた。だけど結局、そのタイミングを掴むことはできなかった。


 この頃の私はすでに彼が東京の大学へ行くことを知っていた。野球部だった彼は進学先も野球を理由に決めていて、私は地元の大学に残る予定だった。だけどこの時にはまだ、お互いを隔てる距離が遠くなっても、心は繋がったままに違いない、と根拠もなくただそう信じていたのだ。


 私は彼の頭に自分の頭を寄せる。そして動画から流れてくる歌声に耳をあずけていた。


 私は私の声を知らない。だけど確かに懐かしい感じがしたのは、事実だ。


 幻の歌姫、か……。いま、そのひとはどこにいるのだろう。


 ふとそんなことを考えながら、


 窓の先にぼんやりと目を向けると、カエデの葉が風で揺れていた。


 気付けば動画から流れてくる音が消えていた。途中で彼が止めたのだろう。私と彼は、声も音もなくなった夕暮れの教室の中で、そっとキスをした。

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