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うつりと
堀幸
還暦を迎え、私は長年勤めた出版社を退職した。七十迄働ける選択肢もあったが、私は余生を出来るだけ静かに緩やかに過ごしたかった。愛犬であり大切な家族であるハナもだいぶ高齢になったが、いつも温かく寄り添って居てくれる。年金とパートタイムで働くことで生計は何とか賄えた。
有るきっかけで知りあった、農家を営むAさんとのその愛犬であるユリとは十数年の交友が有った。出会った時には高齢に見えたAさんだが、付き合い始めて実は還暦を迎えたばかりで、私と丁度一回り違いだと聞き驚いた。互いに人と接する事が得意では無く、寡黙ながらも訥々と語り合って過ごす穏やかな時間が好きだった。友と呼べる間柄だったと思って居る。
私が還暦を迎えたその年に、Aさんが肺癌で他界した。元来痩身であり少し痩せられたかとは思っていたが、Aさんはいつも気丈に振る舞い、病院に行くこともしなかった。身寄りが無いため、住まいの有る町が火葬や供養を行い無縁塚に納骨される。後日近隣の方からその話を聞き、日を改めて花を手向け、静かに涙した。ユリは私が引き取り、ハナともすぐに打ち解けて、賑やかな家になった。
もし私が先に逝った時に備えて、ハナとユリを引き受けてくれる施設と契約を交わす。二匹が先に最期を迎えるような事があったら、私が健在である限り必ず傍らに居て「さようなら。ありがとう」と声を掛けたい。
Aさんが居なくなってしまった今、友と呼べる人はもう居ない。今の住まいは勤続中に購入した都下にある市内の小さなマンションの一室だが、幸い周囲には古本屋や焼鳥屋が何軒か有り、行きつけで気心の知れた店主や大将など仲の良い知人は幾人か居た。だが心から交友が有ると思って付き合っていたのはAさんだけだ。ただ、本と酒は今まで通りずっと側に居てくれた。後は誰に見せるでも無い小説を書く事で心を救われて居た。
風光る頃、馴染みにしていた古本屋「服部書房」を覘こうと店を訪うとシャッターが下りて居る。手書きで貼り紙が有り、近づいて見ると、某月某日、連れ合いが他界し、これを機に店を閉める事にした旨書かれている。つい先日の日付だ。
おかみさん、亡くなったのか。店主が外出している時は、いつも柔和な笑顔で膝に猫を抱えながら店番して迎えてくれた。二言三言は話しをする間柄だった。最近姿を見かけないので店主にどうしたのかと尋ねると、少し体調を崩して床に伏せているとは聞いていたが……。
貼り紙には続きが有った。
“堀様へ お渡ししたき本有り、裏の勝手口へお廻りください 店主”
私の姓が記されている。
私は店の右手の路地を抜けて裏の勝手口へ廻り、戸を三度軽く叩いた。やがて戸の磨硝子越しに人影が見え、カチャリと戸が開く。
店主が憔悴しきった顔を覗かせる。
「堀さん、わざわざすみません……」
「いえ、こちらこそこの度は……」
上り框(がまち)からもう線香の匂いが満ちていた。おかみさんの遺影が微笑む仏壇に手を合わせ、最後の挨拶をする。居間に通されると、中央には使い込まれた山桜のちゃぶ台が有った。座布団に座り、出された渋茶を一息に飲み干す。やけに喉が乾く。
私が茶を飲むのを待つと、店主は無言で一冊の本をちゃぶ台の上にそっと置く。露草色の布が張られたハードカバーの表紙に、縦書きで『佳歩の道しるべ』とだけ、銀で箔押ししてある。表紙の角はだいぶ擦れて痛んでおり、年月を経ていると思われる。一見すると経本か小さめの朱印帳、揃えた両掌に乗る大きさだ。二百と数十頁はあるだろうか。著者名や出版社名は見当たらない。自費出版の本かも知れない。背表紙は空白である。本の小口は店主を含めて何人もの人の手を渡り読み込まれた証として朽葉色になっている。
「佳歩」
遠く過ぎ去った高校時代に所属した文芸部に居た同級生、柊(ひいらぎ)佳歩。私が好意を抱いて居た人の名と同じ名だ。
見透かしたように店主が切り出す。
「その本は自費出版されたもので店には並べていなかったものです。私が手元に置いて折に触れ、繰り返し読んでいました。この本を是非Hさんにお渡ししたかったのです」
「何故、私に?」
「Hさんとは今まで長くお付き合いをさせて頂いています。どんな本を読んでこられたか、その趣味嗜好は十分に存じ上げているつもりです。お読み頂ければ直ぐお分かりになると思いますが、この本はHさんのために書かれたと言っても過言ではない、そう思えてならない内容なのです。初々しいですが気持ちの良い見事な作品が並んで居ます。お代は頂きません」
表紙を開くと見返しに「八/拾」と小筆で墨書きされている。日付かと思われたが、それならば「〇〇年八月壱拾日」だろう。恐らくこれはこの本が十冊作られて、その内の一冊ということではないだろうか。扉にも『佳歩の道しるべ』と活版印刷されている。動揺が収まらない。
頁を繰るが目次は無く、頁数も記されていない。更に頁を繰ると『1.私とスピカの間には』と一話目の題名が現れた。懐かしい記憶を擽られる既視感の有る題名。やはり柊佳歩のことを思い出してしまう。
「ありがたく受け取らせて頂きます」
私は本を受け取ると、ジャケットの内ポケットにするりと滑り込ませた。巣から落ちた雛が有るべき場所に戻ったかの様な安堵と温もりを覚える。
文章や詩を書く事は昔から好きだった。一人で完結出来る事だし、書いている間は現実と孤独を忘れられるから。
中学の時、陰湿ないじめに遭った。ただただ三年間を耐えて過ごした。希死念慮は常に有ったが、書く事がこの世に辛うじて繋ぎ止めてくれた。よく生き延びたと今も思う。
高校に進学して見知らぬ顔に囲まれ、どんな三年間が始まるのかと不安が大きく強かったが、僅かな希望も抱いていた。そんな折に一枚のポスターが校内に貼られて居るのを見つけた。
「本年度より遂に新設!文芸部!部員大歓迎!大大募集中!!」
小説やエッセイ、詩歌など書く内容は問わないらしい。文章はずっと書き続けていて、高校生になった今も唯一の心の支えだった。入部することで書く事の新しい世界が広がるかも知れず、また中学の時の知り合いは一人も居ないこの場所で、違った一歩を踏み出すきっかけになるかも知れない。私は思い切って文芸部に入部することを決意した。
出来立てほやほやの文芸部は、三年生は居らず、二年生が五人。残る十五人は新入生の一年生、総勢二十人から始まった。初代部長には、公募の文学賞で新人賞を取ったことの有るホープ、二年生のTさんが就いた。Tさんからは小説を書くことの楽しさ、奥深さ、喜びを教わった。そして、入部した一年生の中の一人が、柊佳歩だった。
肩の上でざくりと切られた少しブラウンのかかった髪、細縁の丸い眼鏡が良く似合う、少年の様な人。少しハスキーボイスで良く笑い、誰にでも良く話し掛け、誰からも話し掛けられる人。
「柊さん」
「佳歩ちゃん」
「佳歩!」
気が付くとひまわりの花の様にいつも輪の中心に彼女が居る。私と言えば辛うじて「柊さん」と呼び掛けていたが(心の中では「佳歩さん!」と呼んでいた)、明るく誰とでも分け隔てなく接するその人柄に皆と同じ様に惹かれ、好意を寄せる日々だった。
そして彼女は良くピアノを弾きながら歌った。
文芸部には、アップライトピアノが一台、部室の片隅に置かれている。たまたま置く場所が無かっただけなのか、ここに置かれている由縁は分からない。
ピアノを弾くことについて、彼女が話しているのを輪の外から聞いた事が有る。物心が付いた頃から家にはピアノがあり、ピアノがおもちゃ代わりだったこと、小学校に入学して直ぐにクラシックピアノのレッスンを受け始めたが、大きくなるに連れて譜面通りに弾かなければならない事を窮屈に感じ、自分らしく自由に弾きたいと、中学を卒業すると同時にレッスンを止めてしまったこと等々。
部活動の最中でもピアノを弾き出し、時には立ち上りながら、魂を震わせるように朗々と歌い出す事があった。
魂の震えに合わせて、彼女の声も、周りの空気までも震わせているような力強い歌声。歌と演奏はいつもその時の感情に乗せての即興だった。二度と同じ歌が聴けないため、部員は彼女が歌い出すと皆筆を止めて歌に聞き惚れていた。T部長も一度も注意などしたことは無い。
柊佳歩は誰からも好かれていた。
一度だけ、柊佳歩が一人でピアノを弾いているのを見たことが有る。始業前の朝、教室に居場所の無い私はいつも部室で一人時間を過ごして居た。
その朝は部室からピアノの音色と微かな歌声が聴こえて来た。引き戸を静かに開ける。片膝を立てて椅子に浅く座り、ゆっくりポロポロと気持ちの赴くままにメロディーを奏でている彼女が居た。遠い目をして歌って居る。マフラーペダルを固定している様だった。まるで自分の本音を聴かれたくないかの様に。窓から差し込む陽光に舞う塵の様に、そのまま霧散してしまいそうな儚さだった。普段の歌声とは違い、透明で淋しい歌声が胸に沁み入って来る。私は、それを妨げてはいけない、またずっと聴いていたい気持ちからその場に立ち尽くして居た。誰か他の部員が来ないことを祈りながら……。
ふっと意識が戻って来たように、佳歩の歌声とピアノを弾く手が止まり、ゆっくりとこちらに振り返る。佳歩の顔にゆっくりと静かに微笑が広がる。
「堀君、おはよう」
私の名を、二人しか居ない部室で呼ばれたあの朝のことを、数十年が過ぎた今でも忘れる事は無いだろう。その時の温もりが今も胸の中に有る。そして、その時その言葉を聞いた瞬間に、私が彼女に抱いて居た好意は確信に変わった。私は柊佳歩が、佳歩のことが好きであることを。人生で初めて抱いた恋愛感情だった。それはこの上なく嬉しい事であったが、同時に気さくに話し掛ける事の出来ない私にとってはとても辛い事だった。今独り身で居るのも、まだ心の何処かに佳歩の事を忘れられないで居るからかも知れない。
小説を書く事には夢中で取り組んだが佳歩と話す機会はその後もあまり無かったが、あの朝を境に私は彼女を皆と同じように「佳歩さん」と名で呼ぶようになった。
月に一度、各自が書いた小説や詩歌などを回して読みながら感想を述べ合う部活動の日が有る。そんな時、佳歩はよく私の拙い作品を取り上げて顔を染めながら力説して誉めてくれた。中学の時死ななくて良かった、生きて居て良かったと心底思える時間だった。同じように佳歩に好意を寄せる部員達にしたら面白く無かったに違いない。
そんな佳歩の姿を見て、もしかしたら、有り得ない事だが、多分思い過ごしに違いないが、佳歩が私に対して何らかの感情を抱いて居るのではと淡い夢を見た事もあった。私は何故もっと、一言でも、自分から佳歩に話しかけなかったのだろう。
白髪頭の私が、焼鳥屋「やどりぎ」の縄暖簾をくぐる。
いつもの様に大将が黙々と焼き鳥を焼いて居る。炭が跳ねる音がする。
「こんちは」
「ウッス」
会話はこれだけである。カウンターに着くと直ぐに、おしぼりとホッピー黒のセット、お通しが黙って出される。飲んでいる内にお薦めの焼き鳥が並ぶだろう。いつもそれだけで帰る。長尻はしない。
だが今日は時間がかかるかも知れない。焼酎の入ったコップにホッピーを注ぎ、最初の一杯を一気に飲み干す。それからおしぼりで丁寧に両手を拭うと、ジャケットの内ポケットから『佳歩の道しるべ』を取り出す。
読み始めると周りの喧騒や酒を呑みに来た事も忘れる程に惹き付けられ、夢中で頁を繰る。好きな分野を深く学んだ事が分かる愛情と、感情の起伏を丁寧に紡いだきらきらと頁から溢れ落ちそうな短編が続く。どれも初めて読む作品ばかりだったが、どうしてもあの佳歩が書いたとしか思えない筆致だった。
一体何故、この本は一体?
読み進めながら、佳歩と過ごした高校の三年間が昨日の事の様に鮮やかに脳裏に甦る。
そして全ての短編を読み終え続く頁を繰った時、息が詰まるのを感じた。
後書きが続いている。
『終わりに、そして始まりに
ここまで読んで頂いた方々へ、柊佳歩に代わり御礼申し上げます。佳歩は〇〇年〇月〇日に家を出たまま行方知れずとなりました。懸命な捜索を行いましたが、その足取りは知れず、捜索は打ち切られ、〇〇年〇〇月〇日に失踪宣告を致しました。ですが、私達家族、親族一同は佳歩が居なくなったという事実を到底受け入れる事が出来ません。佳歩が自室の机上に残した置き手紙には、自分で書いた作品の原稿を選んでおくので、一冊の本に纏めてほしいこと、そしてその一冊を旧友である堀幸様宛に送ってほしいこと、そして私は自死するのではないので、決して心配しないでほしい旨が記されて居りました。一同は佳歩の願い通り一冊の本を「佳歩の道しるべ」として纏めました。きっといつの日か佳歩がいつもの様に朗らかに帰って来る時の道しるべとなるように、一同それぞれがこの本を一冊一冊胸に抱きながら生きていく所存です。どうか皆様も佳歩のことを忘れないで居てください。佳歩もきっと喜ぶでありましょう故。〇〇年〇月〇日 柊佳歩家族、親族一同』
『N県〇〇郡〇〇〇町~』と住所の記載が続く。
衝撃と混乱で体の震えが止まらない。急いでナカ(焼酎の追加)を頼み、ホッピーで充たすと、震える手でまた一気に飲み干す。
やはり、あの佳歩の作品だった……。
そして一体何故私の名がここに有る?
私が旧友?
柊佳歩は、と有る。
彼女が家族の前から姿を消した時、まだ結婚していなかったのだろうか。
佳歩が残した置き手紙とこの本が作られたことは、捜査にあたった警察には伏したのだろう。そうでなければ、後書きに登場する私宛に真っ先に調べが入る筈だ。
そして、服部書房の店主は当然にこの後書き迄読んで、承知の上でこの本を私に渡したのだ。
締めくくりにある日付は今から約四十年前、通っていた大学に近いボロアパートに住み続けて、就職して働き始めた頃だ。
『佳歩の道しるべ』が私宛に送られたとしたら、恐らく高校時代の住所録に載っていた私の実家の住所だろう。私は両親の推す大学、学部とは別の大学の文学部に進んだ。学費は出すが後は知らん、という実家とは疎遠な状態だった。私宛に届いた郵便物は一切捨てられていたかも知れない。
佳歩は実家の有るN県に戻り、地元に有る大学の文学部に進んだとかつて部員から聞いたことを思い出す。それからの佳歩に何があったのか今は知る由もないが、その一片でも知ることが、私の佳歩に対する信義だと思った。
今直ぐにでも佳歩に会いに、探しに行きたい。そしてもし無事に佳歩に出会うことができたなら、静かに全てを包容し、沢山話しをしたい……。
何処をどう巡って私の手元にこの本が辿り着いたのか分からない。ただ、佳歩が私に会いに来てほしいという声が、今両手にしている『佳歩の道しるべ』から聞こえ、導かれているのを感じた。残留思念という言葉を聞いたことが有る。私はその類いをあまり信じていなかったが、今この本がこうして私の手に届き、そして佳歩の作品を読み終えた今、信じて受け入れざるを得なかった。
私にも道しるべは示された。
酔いはすっかり醒めていた。明朝一番にN県に有る空港へ向けて飛び立つ飛行機を携帯電話から予約した。旅立ちの用意をしなければならない。『佳歩の道しるべを』を大切に内ポケットにしまうと席を立った。
「大将、ご馳走さん」
「ウッス」
再び縄暖簾をくぐって小さな商店街の通りに出た私は、空を仰ぐ。街の夜空に春の大三角は見つけられない。私は深く息を吐ききった。
終
(続く)
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