オナラ男の怪

古新野 ま~ち

第1話

 山田肇が最近悩まされていることは二つ。

 一つは、妹の純が明らかに自分を避けているように思えること。これに関しては、自分だって母親がウザいと感じた中学時代の経験から、一般的な事であると頭で理解していた。

 二つ目、こちらの方が彼にとって耐え難いことだ。

「屁をかけられるんだ」

 鈴音さんは、肇が告白した悩みを一笑した。うつ伏せで読んでいた漫画を閉じた。そして左上で頬杖をついて肇を斜め下から見上げた。

「肇くんを苛める人がいるんだ」

「いや、まじなんだって」

「疑ってないよ。ただ、それが事実とは思わないだけで」

「妄想なんかじゃない」

 肇は、自分がどのような被害にあっているかを語り始めた。本来ならば肇の言葉を引用する形で記したいところである。しかし、山田肇はいかに虐げられているかを伝えたいあまり、脈絡無く怒りを滲ませたりするため、鈴音さんでなければ彼が何を言いたいか分からない。よって、彼の代わりに記したい。


 肇が、自分は同一人物に屁をかけられていることに気がついた時、それは2度目だったからだ。よって、1度目が何時のことだったかは覚えていない。

 ある日の退勤する電車内でのことだ。晴れていたか雨が降っていたかも思い出せない。しかし、風変わりな男が目の前にいた。吊革を掴む人は大抵、こちらを向いているものにもかかわらず、その男はこちらに尻を向けていた。スラックスの臀部あたりには横皺が何本か走っており、電車が揺れるたびに皺が消えたり現れたり波打ったりした。

 他の怪しい点は、まだまだ陽射しのキツい日々だというのに、ジャケットを着ていたくらいだ。

 肇はTwitterを見つめていた。フォロワーが二桁のくせに、自分のツイートに誰かが反応してくれるかもしれないと淡い期待をしていた。

 そんな彼の鼻先で、男が屁を放った。

 ばふりばふと生ぬるい風を浴び、臭いに反応する前に身体が仰け反り、車窓に頭をぶつけた。

 男は何も言わず次の停車駅で降りた。

 その日から何日か経ち、彼が2度目の不運に見舞われた。駅前の古本屋の100円コーナーにいた時だ。平均的な成人男性の背丈であるから、下段を物色するのに中腰であった。

 コロナウイルス流行以降、店内での立ち読みは禁止となった。以前までのように序盤を読み進めてからの判断ができず、Amazonレビュー等を参考にしていた。つまり、姿勢をただして本を読むのではなく、本を片手に手早く検索をするのだ。中腰のままで。その事が災いし、近くにいた何者かの放屁を顔面で受けてしまった。

 腐敗した卵に香辛料をかき混ぜたような臭いが鼻を刺激した。

 肇が視線を上げると逃げていく人物の後ろ姿が、先日の電車内で自分に尻を向けていた男の姿と酷似していた。窮屈そうなスラックス、そして残暑の中でもジャケットを羽織っていること。何より、人の顔前に屁を放つような無神経極まりないことがそうそう何人もいてたまるか。

「今日なんか、改札前の階段で前にいた男に屁をこかれたんだ」

「その人も、ジャケットを着ていたと」

「実は分からないんだ。屁の音が聞こえたらすぐに引き返して、その人と距離をとったから」

「ところで、結局何が言いたいの?」

「誰かに嫌がらせをされているんだと思う」

「へぇ。肇くんは誰かの反感を買ったんだ」

「そんなことはしていない。職場では孤立ぎみだし、近所とのトラブルもない。全く心当たりがないんだ」

「でも、嫌がらせは受けている」

 鈴音さんは漫画を本棚に戻して、髪を束ねて居ずまいをただした。

「きっと疲れているから嫌な目にあうんだと思う。眠れない夜が続くと、どんなに些細なことでも過敏に捉えすぎたりしてよくないよ。ちゃんと夜は寝てね?」

「信じてくれよ。本当に変な輩が僕を狙っているんだ」

「なんで肇くんが狙われるの?」

「それが、分からないんだ」

 肇は肩を落とした。

 それを見た鈴音さんは、指を3本立てた。

「私が思うにね、肇くん。3つの可能性があるんだ」

「何が」

「肇くんが悩んでいる放屁男について」

「うそっ」

 肇は鈴音さんの肩を掴んで、彼女を揺する。近いっ、と鈴音さんは肇の額を指で弾いた。

「もちろん、確証はないよ。けれども今、肇くんから聞いたことだけで、十分推測できることはある」

 肇は、教えて教えてと呟く。その姿はさながら親鳥の餌を待つ燕の雛のようだ。

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