第17話 専務と常務と

「ただいまー」

「おかえり、三人とも。任務はつつがなく完了したようね」

「はい……なんとか、何事もなく」

 一同がオフィスに帰還すると、唯がノートPCを閉じて微笑んだ。デスクから立ち上がり、そばの書類棚から定型書類を引き抜く。

「はい、これ報告書ね。明日中に提出すること」

「……これ俺も書くのか?」

「当たり前でしょ。いずれ正式入社したらこれも査定の材料にするんだから」

「正式入社する前提で話すんじゃねェ!」

 さも当然の如く言い放つ唯を睨み、霧矢はその手から報告書を奪い取った。顔をしかめてそれを眺める彼に千草は問いかける。

「え……しないの……?」

「しねェわ! 寂しそうな顔すんじゃねェよ、気色悪ぃ」

「し、しないんですか……!?」

「しねェっつってンだろ! 難聴かテメェは!!」

「ひぃいっ!? ごめんなさい……!」

 勢いよく頭を下げる雫の横で千草は困ったように肩をすくめる。彼は報告書を受け取りつつ、首をかしげて問いかける。

「そういえば社長、霧矢くんの方の手続きは終わったの?」

「ええ。家族も学校も、両方黙らせてきたわよ。紅羽の時ほどじゃなかったけど、今回もまあまあ骨が折れたわ……本当かったるい」

「相変わらず酷い言い草だなぁ……」

「酷いも何も事実よ。今回は学校も家族も天賦ギフトを認知している特殊なケースだからね。更生させられなかったら外聞がどうのとか思ってるんじゃない? 全く、天賦ギフトがあろうがなかろうがニンゲンはニンゲンじゃない。まつ毛が長いか短いかくらいの違いでしかないわよ、そんなこと」

 平然と言い放ち、デスクに戻って書類をまとめる唯。肩をすくめ合う千草と雫の横で、霧矢は彼女を呆然と見つめていた。不思議そうな視線に気づいたのか、唯は彼らを追い払うように片手を振る。

「アンタたち、突っ立ってないでさっさと退勤しなさい。定時過ぎてるのよ」

「え、巡回組と専務は?」

「三人ともとっくに寮よ。今頃プロレスでも見てるんじゃない? あと私も今帰るところなの。帰らないなら夜勤させるわよ」

「それはパスで。あ、ところで常務にゃんって、今寮いる?」

「ええ、今ならいるはずだけど……何か用でもあるの?」

「そ。ちょっとね」

 軽く返しつつ、千草も帰り支度を始める。胸の内にかすかな違和感を覚えつつ、霧矢も深く息を吐いてデスクに置かれた鞄を引っ掴んだ。


 ◇◇◇


「あっ! 皆おかえりー!」

 寮の談話室の前を通ると、紅羽がポニーテールを翻して頭だけで振り返った。光のない瞳が楽しそうに瞬く。その隣では真冬が視線だけを霧矢たちに向け、またテレビの画面に戻す。画面の向こうから派手なゴングが鳴り響き、リングの中の男が開幕ドロップキックを仕掛けた。テレビの前に脈絡なく置かれた巨大な寝袋が芋虫のようにうごめく。

「ただいま。って、本当にプロレス見てるのね」

「うん! だって他に見るものないし! あはっ」

「さ、さらっと酷いです……」

「……言うだけ無駄……こいつ何があってもスポーツ中継しか見ない」

 雫に顔を向けないまま言い放つ真冬。びくっと肩を震わせながらも、彼女は困り果てたようにスカーフを握りしめて俯いた。肩をすくめ、唯は立ち去ろうとする霧矢に視線を投げる。

「まぁいいわ。……夜久霧矢、アンタはこの後どうするの?」

「シャワー借りる。終わったら部屋行って報告書書いて寝る。じゃあな」

「……そう。まぁいいわ。私も部屋で野暮用済ませてくる」

「あ、はい……行ってらっしゃい……」

 さっさと行ってしまう霧矢と、同様に部屋に向かう唯。二人を見送り、雫はソファの側の二メートル近い寝袋に目を向けた。


「……えと、氷月ひづき専務」

「んみゅ? どうしたのー?」

 女声と紛うほどの高い声と共に、ごろりと寝袋が転がる。そこから顔を出したのは柔らかそうな頬をした青年だった。内側から寝袋のファスナーを下げると寝癖のひどい紺色の髪がこぼれ、その下から眠そうな瞳が現れる。

「さっきの新人くんの話なのー?」

「そ、そうですっ。……えと、少し気になって……」

「んみゅ? 何がなの?」

「……社長はどうして、霧矢さんを会社に引き入れるためにあんなに動いていたのかな、って」

「……」

 雫の問いに、青年……氷月は寝袋にくるまったまま起き上がった。瞳を眠そうに細めながらも、上を向いて考えるそぶりをする。横で真冬がテレビから目を離さないまま口を開いた。

「……回復系の天賦ギフトは珍しい、し、悪用もよくされる。アクトダフェ清浄教団とか、……例の研究所、みたいに。それは社長の信念が許さない、はず」

「それは、そうですけど……」

 俯き、雫は言葉を探すように視線をさ迷わせた。呑気にプロレスに夢中になっている紅羽の横で、真冬もかすかに視線を伏せた。

「それだけじゃない気がする、というか……単なる勘でしか、ないですけど」

「んみゅう」

「……専務、なにか知ってる?」

 真冬の問いに、氷月は眠そうに目を擦った。寝袋から上半身を出して大きく伸びをする。


「しーらない、なのー」

「……え」

「社長はなーんにも言ってなかったの。僕はなんにも知らないのー。僕は寝るの!」

「え、あの、専務……!?」

 言いたいことだけ言ってしまうと、ばたんっと床に転がって目を閉じる。呆然とした社員たちの視線など気にも留めずに、呑気に寝息をたて始めた。

「……聞いても無駄……らしい」

 ソファの上で膝を抱え、真冬が平坦な声で呟いた。紅羽がぴょんとソファから立ち上がり、寝息を立てる新の頬をつつき始める。むにゃむにゃと何か寝言を言っている彼を眺めているうちに、雫の意識がぐらりと揺らいだ。談話室の光景が、雑に絵の具を塗り重ねただけの稚拙な絵のように歪んでいく。思わず頭を押さえ、一歩後ずさった瞬間――ふっと意識が堕ちた。


「……あーあ。やっと出番が回ってきましたよ。もう少し早く代わってくれたってよかったのに、ホント弱いくせに図々しいですね……もう一人の『私』は」

 長い青髪を指でいじりながら、雫はおもむろに顔を上げる。だが……その表情には、先程までの怯えがちな少女の影はない。どこか暗く妖しげな、明らかにの笑顔。がらりと雰囲気が変わった少女を一瞥し、真冬は呟く。

「あ……おはよう雫」

「おはようじゃないんですよ今夕方なんですよ真冬さん」

「でも……は今起きた……から、おはよう」

「……まぁ、そうですけどね。おはようございます、真冬さん」

 どこかぎこちない笑顔を浮かべ、雫が笑う。わざとらしく口元を歪める笑い方は、人ではない何かが人の真似をしているようだ。

「というかそれは今はいいんですよ。私が用があるのは――」

 雫は大股で寝袋に歩み寄ると、呑気に寝息を立てている新の寝顔を一瞥する。適当に頬をつついたり、つねったりしても起きる気配はない。小さくため息をつき、雫は寝袋のジッパーに手を掛け……勢いよく左右に引っ張って寝袋をこじ開けた。

「ふわふわ……わぁっ!? なのー」

「専務、今ちょっといいですか?」

「よくないの! 今せっかくいい夢見れそうだったのー! 僕のインフィニティやきそばを返せなのー」

無限インフィニティやきそば……?」

 怪訝そうに目を細める雫。おおかた新は無限に焼きそばが食べられる夢でも見ていたのだろう。肩をすくめ、雫は専務の眠そうな顔を覗き込む。

「それはどうでもいいんですよ」

「よくないの! 僕の焼きそばなのー!」

「子供ですか専務は!」

「19歳はお酒飲めないから子供なの!」

「どうでもいいですよ! それより今から訓練付き合ってください。身体の中にまださっきのクズ野郎ターゲットの生命力残ってて気持ち悪いんですよ」

 忌々しげに吐き捨てる雫。新はそんな彼女をぼんやりした瞳で見つめ、不意に頷いた。

「その発散兼訓練に付き合えってこと……なのー?」

「察しがよろしいことで何よりです」

「……雫、死なない?」

「真冬さんはちょっと黙っててください」

 満面の笑みで真冬を睨む雫。真冬は無言で視線をそらし、テレビのリモコンを手に取った。録画操作を始める彼女から視線を外すと、雫は答えを急かすように新を見つめる。

「ふみゅ……ん、今からなの?」

「もちろんですよ当たり前じゃないですか」

「りょーかいなのっ!」

 ぴょこんと立ち上がり、新は右の掌を天に向けて謎のポーズをとった。その雄姿に、やたら目を輝かせて紅羽が拍手をする。瞬間、背後のテレビから試合開始のゴングが高らかに響いた。


 ◇◇◇


「あ、いたいた常務にゃん。おつー」

「おつかれにゃん! ぶどうジュース飲むにゃん?」

「ん、貰う。さんきゅ」

 投げてよこされたペットボトルを受け取り、千草は食堂の椅子に腰を下ろした。向かいの席のカノンはノートPCを閉じ、こてんと首をかしげる。

「今日って霧矢くんの初任務だったにゃんね? どうだったにゃ?」

「あー、丁度その話しようと思ってた。霧矢くん、初任務にしては普通以上に動けてたよ。態度は悪いけど指示もちゃんと聞いてくれるし、MDCうち基準なら普通に扱いやすい方って感じ」

「うんうん」

 頷きながらメモ帳に要点を書き残すカノン。拠点防衛と社長補佐を主な業務とする専務とは反対に、社員の特性の把握や状態管理などは常務たるカノンが担当している。何かと親身になってくれる良き上司だよね、と千草は常々思っているのだ。

「でも、改善しないと致命的なポイントもあるっちゃあるんだよね……。天賦ギフトを頑なに使おうとしないのは一回置いといて、試しに銃使われてみたら普通に下手くそでさ。そもそも天賦ギフトに攻撃性が一切ないから、どう転ぶにしても遠距離攻撃はできるようになってほしいんだけど……んー、誰かに特訓つけてもらえないかな?」

「あー……それは確かに対策したいところにゃんね。それなら常務にゃんに任せるにゃん!」

「え!?」

 満面の笑みで胸元を叩くカノン。ひどく頼もしげな笑顔だが、千草は思わず声をあげてしまった。

「待って、常務にゃん銃使えるっけ?」

「普段は使わないけど必要なときは使うにゃん」

「必要な時っていつ!? 常務にゃんなら銃なんかなくてもで大体なんとかならない!?」

「ならない時が稀にあるにゃん! ……それに他の社員だと、ひなにゃんがいつも銃使うにゃんけど、あの子は照準なんてあってないようなものにゃんし。それに社長は忙しいにゃんし、やっぱりここは常務にゃんがやるにゃんっ!」

 胸を張るカノンはやっぱり自信満々らしい。その言葉には納得せざるをえず、千草は「じゃあ頼むよ、常務にゃん」と頷いた。

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