第7話 利用するものたち

「――はぁ――はぁ――」

 薄暗い廃ビルの片隅に人影が座り込んでいた。肩甲骨を覆うほど伸びた黒髪が初秋の乾いた風にそよぐ。上がった息を整えようと深呼吸を繰り返し、霧矢は痛む頭を押さえた。虚ろな真紅の瞳が煤けた天井を見上げる。端々が擦り切れたワイシャツには赤茶色に乾いた血がこびりついていた。身じろぎをすると、腰でジャックナイフが耳障りな音を立てる。

 あれから何日が経ったのかもわからない。どれほどの人を殺したか数える余裕すらなかった。ただ愚直に殺傷を繰り返して、その果てに何があるのかもわからない。……否、たとえ何も待ち受けていなかったとしても、馬鹿になった自制心は止めてはくれないだろう。

(いつになったら、答えが出るってんだよ……)

 浮かび上がった問いを拾い上げ、霧矢は唇を引き結ぶ。……人を助け続ければそれが当たり前だと見なされ利用される。かといって人を傷つけ続けても、無限に続く暗闇しか見えてこない。だからって――と、彼は顔を伏せた。嚙みしめられた奥歯が軋んだ音を立てる。

(……だからって、どうすりゃいいんだよ。どうすりゃ、俺は……!)


 と、二重の靴音が耳を打った。霧矢はおもむろに視線を上げ――弾かれたように立ち上がり、ナイフを抜き放つ。真紅の瞳が険しく光り、その首筋を嫌な汗が伝った。靴音の主……少なくともその一人は霧矢の前に進み出ると、片手でゴシックロリィタの裾をつまみ、貴族のように優雅に一礼する。

「初めまして、夜久霧矢。犯罪対策会社マチュア・デストロイド・カンパニー社長、高天原たかまがはらゆいがお迎えに参りました」

「……は、ぁ?」

 いぶかしむように目を細め、霧矢は人影を改めて見つめる。会社の名前そのものには聞き覚えがあった。東京に点在する犯罪対策会社の中でもそれなりの戦果をあげているが、悪い噂も頻繁に耳にする組織。だが、社長を名乗る彼女はどう見ても霧矢と同い年か年下にしか見えない。輝くような金髪をツインテールにまとめ、喪服のようなゴシックロリィタに身を包んでいる。見たところ武装はしていないようだが――何故か、霧矢の全身はとめどない悪寒に苛まれた。

「お前、だ?」

「……何って?」

「とぼけんな。普通の天賦ギフト持ちじゃ、ここまでのプレッシャーは無ェよ」

 実際、今までに戦ってきた天賦ギフト持ちからはここまでの重圧は感じなかった。全てを知ったあの日、相手にした天賦ギフト持ちもそうだ。だが――目の前の少女からは、それらにはなかった異様さを感じる。まるで人間ですらない、異次元の存在の一部であるかのような。警戒を隠さない霧矢に、唯と名乗った少女は受け流すように肩をすくめた。

「……初対面で感づかれたのはアンタで四人目ね。称賛してあげるわ」

「話逸らすんじゃねェ。何だって聞いてンだ。天賦ギフト云々の前に、人間かどうかも怪しいだろうが」

「……そうね。私は……私たちは人でなしと呼んでも差し支えないかも。それ以上は社外秘ってことにして、本題に入るわ」

 霧矢の問いを曖昧にかわし、唯は霧矢に歩み寄った。マリンブルーの瞳が霧矢を凛と見据え、微笑みの形をした唇がゆっくりと開く。


「――夜久霧矢。うちの会社に来なさい」

「……あ?」

 ナイフを握る手がかすかに震える。目の前の少女の姿がぐにゃりと歪んで見えた。静かに微笑み続ける唯を鋭く睨みつけ、霧矢は叩きつけるように口を開く。

「断る。俺様は誰にも協力なんざしねェ」

「……何故?」

「テメェに話す義理はねェよ。……つか、何で俺様を選びやがった? 使える天賦ギフト持ちなら他にもうじゃうじゃいンだろ。他をあたれ」

「……天賦ギフトだけが目的じゃないわ」

「はぁ……?」

 怪訝そうな霧矢の声を受け、唯は少し考えるように目を伏せた。しかしすぐに霧矢に向き直り、片手を胸に当てて堂々と語りかける。

「ここだけの話――弊社は犯罪対策会社ではありますが、裏では穢れ仕事も請け負っております。窃盗、拷問、殺人、なんでもね」

「……ハッ。要するに俺様を利用しようってか?」

「きゃはっ! そうかもしれないねぇ!」

 ――と、甲高い声が割り込んできた。息を呑み、二人は弾かれたように視線を上げる。その先に映る廃ビルの入り口で、三つの人影が逆光に浮かび上がった。各々の左目の下を閉じた瞼の刺青が禍々しく彩る。右側に立つ紫髪の少女が、ネイルを塗った指先を口元に当てて甲高く笑った。左側の軍服姿の男が、眼鏡の奥の瞳を冷淡に光らせている。そして――中央に佇む青年が視界に映り、霧矢の喉がひゅっと音を立てた。観察するように、それでいて愉快そうに歪んだ新緑の瞳。その視線に貫かれ、霧矢の背筋を怖気が駆け抜けた。唯から発せられる異様さと酷似したそれが心臓を毒々しく冒してゆく。思わず壁に背を押しつける霧矢をよそに、紫髪の少女は耳障りな笑い声を上げ続けた。濁りきったペパーミントの瞳が見下すように細められる。

「愚かな虫けらがキミに近づく理由なんてそれしかないよ。あんなモノにキミの存在意義なんてわかんないもん。ね、!」

「……なんですって?」

 微笑みを消し、唯は少女を鋭い視線で見据えた。けらけらと笑い続ける少女をたしなめるように、軍服姿の男が口を開いた。眼鏡の奥で琥珀色の瞳が咎めるように光る。

「……そのくらいにしたまえ。無駄に喧嘩を売るんじゃない」

「は? たかが神官様の右腕風情が指図すんじゃねえよ」

「二人とも、続きは帰ってからにしよう? ……賓客の前だ。無礼を働くな」

 鈴を転がすような声がしたと思えば、急に底冷えのするような響きを帯びる。二人に挟まれた茶髪の少年が一歩前に出ると、嘲るように新緑の瞳を細める。無造作に肩にかけたイタリアンスーツの襟元を正し、二人に一歩歩み寄る。革靴が地を踏む音がひどく重苦しく響いた。

「奇遇だね、唯ちゃん。まさか同じ時にその子を狙いに行くなんてな。縁がありすぎて吐きそうだ。でも――果たして君にソレを制御できるのかなぁ?」

「……制御する必要はないわ。それは私のやり方じゃないもの」

「勝手に決めたやり方に囚われちゃ元も子もないと思うけど? きひひっ。オレたちならもっと上手くやる。オレとデストリエル様のために、お前なんかよりも上手くソレを使ってみせる。だから今のうちに手を引け。手遅れになる前に……ね?」

 言葉を紡ぐ間にも、少年の口調は安定する気配がない。口内に広がる苦味を飲み下し、霧矢は感触を確かめるようにナイフを握りしめる。

(……どいつも、こいつも)

 結局、利用することしか考えていないじゃないか。毒々しく疼く心臓が血を黒く染め上げるようで、霧矢は奥歯を軋むほど噛みしめる。嘲笑じみた言葉が耳鳴りのように繰り返されて、霧矢はそれを振り切らんと踏み込もうとして――気付いた時には、紫髪の少女がすぐ目の前まで迫っていた。濁りきった瞳が眼前で瞬き、霧矢は思わず片足を引いて構える。

「そんなに怒らないでよぉ。むしろ喜ぶべきことなんだよ?」

「ざけんな。それ以上近づくなら――」

「デストリエル様のための最上級の生贄になれるんだよ? キミにはその素質があるの。それを断るなんて罪深いことするほど、キミは愚かじゃないよねぇ?」

「――ッ!」

 ジャックナイフが鋭く風を切った。少女の細い首に刃が迫る。喉笛を貫かれる寸前、彼女はバックステップで射程から逃れた。その動きと交差するように、銃弾が霧矢の眉間をめがけて飛来する。身を沈ませてその射線上から消えると、霧矢は銃口を向けてくる男を睨みつけた。軍服姿の男が短機関銃を構え、油断なく彼を見つめている。まるで実験生物を観察するような視線に霧矢はナイフを握る手を震わせた。

「ふざけんな……どいつもこいつも、馬鹿にしやがって……!」

 絞り出した声が震える。飲み下したはずの苦味が消えない。金髪の少女に静かに見つめられる気配を感じながら、霧矢は立ち上がり、どこか歪んだ新緑の瞳を睨む。不気味な笑顔を浮かべたまま観劇するようにこちらを眺める彼に、霧矢は血を吐くように叫んだ。

「生贄だかなんだか知らねェけど、俺はそんなもんになるつもりは無ェ! テメェらの勝手な都合ばっか押しつけてきやがって。いい加減……放っておけよ。関わんじゃねえよ……ッ!」

 語尾が掠れる。喉がひりひりと痛む。処刑場の風景が脳裏を満たし、無機質な白い文字列が神経を冒す。ありふれた友情が、誤った選択が、真実から背けた目が、彼を惨劇へと導いた。なら……誰とも関わらなければいい。それでも関わってくる奴は殺してしまえばいい。なのに――。

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