佐和田ヨネ(本編20話後)
このお話は、ExtraⅡのネタバレが含まれています。
*
佐和田ヨネにとって、古河智也ほど、
理解の困難な人間はいなかった。
たしかに、釘を刺したのは自分だ。
しかし、それは自らの暴虐な父親に対する
時間を稼ぐための方便に過ぎなかった。
計算外だったのは、古河智也に影響された怜那が
ヨネの想像を超えて聡明で多才な、
なによりも眉目秀麗な少女に成長してしまったことだ。
たしかに、美容や化粧の手ほどきをしたのは自分だ。
しかし、さして関心を持っていなかった怜那が、
ここまで異常な熱心さで美を追求するとは思いもしなかった。
そのことに戸惑いながらも、
呼び込んだ厄介ごとを処理する羽目になりはしながらも、
ヨネの計算では、いずれ起こるべきことを早めるはずだった。
古河智也に、父と戦うための自覚を促すには、最善の手段だと確信していた。
異様なほど、何も起こらなかった。
*
「怜那、ちゃんと避妊はしてるの?」
「え?
なに、それ?」
ヨネは、一瞬、それでもいいか、
と考えてしまうくらいには余裕があった。
そして、想定していなかった線をいま一度考え直し、愕然とした。
一切。
手を、出して、いない。
いまの怜那と、一緒の部屋に置いているのに。
すべての条件を整えているのに。
……信じられ、ない。
我が妹ながら、怜那は、凄まじい。
美しく、聡明で、可憐で、なにより、愛らしい。
こんな妹が傍にいて、しかも狭い部屋で過ごしていて、
ベットが一つしかないのに、半年近く、何も起こっていない。
「?
どうしたの、お母さん。」
ヨネは、頭を抱えたくなった。
あの子、本当に、男なの?
機能、おかしいんじゃないの?
父の魔の手は、既に二度、怜那に及んでいる。
自分の嫡流に迎えるには、怜那は、これ以上ない上玉だ。
少なくとも、父は、そう確信してしまっている。
それに。
怜那に取り入ろうとする男共が目の前に蠢いている。
大学にも、事務所にも。そして、外の世界にも。
……なんで、気づかないの?
まさか。
彼らの企みを知った上で、怜那を、譲ろうとしてる?
……ありえなくは、ない。
彼なら、古河智也なら、そう考えてしまうかもしれない。
しかし。
ヨネはもう、知ってしまっている。
怜那にとって、古河智也は、生きるすべてであることを。
古河智也から引き離せば、怜那の命は、あっけなく消え失せることを。
「……なんでもないわ。」
「そう?
へんなお母さん。」
……変なのは、貴方たちのほうよ。
*
菊池ヨネ。
それが、彼女に与えられた出生名だ。
父は菊池家から母方の佐和田家へと分家したが、
戦時、戦後に相次いだ本家の不幸を後目に急成長、
本家の商圏を二束三文で傘下に収め、今や惣領家として君臨している。
ヨネにとって、父親は、生まれてから、
その名を与えられてからずっと、
できる限り敬して遠ざけておくだけの存在だった。
結婚、離婚の紆余曲折を経て、
父の経営する会社での、煉獄のような暮らしが続いていた。
そんな時。
ヨネは、今村誠治に出会った。
ただの同僚として。
今村誠治は、ヨネの境遇を知っても、何も言わなかった。
熱心に、真摯に働いてはいたが、
人を押しのけて出世を目指すタイプではなかった。
ヨネは、今村に、人としての、ごく薄い好感を抱いていた。
それは、どう考えても、恋愛に発達する類のものではなかった。
勤め人の父に、二児を育てた母。
典型的な高度成長期の核家族で育った堅気気質の今村の、
身分違いの告白に、ヨネは大いに戸惑った。
「……私、石女ですのよ。」
せめて、誠実に断りたい。
ヨネは、同族間で憐憫と蔑視を受け続ける真実を、今村に告げた。
信じられないことに、今村は、穏やかな顔を崩さず、こう言った。
「それが、何か?」
激しい怒りが全身に渦巻いた。
ヨネ自身が戸惑うほど、得体のしれない憤怒と、哀しみの濁流が。
しかし、今村は、静謐なまでに穏やかな表情のままだった。
「僕は、貴方を幸せにしたいのです。
それを、僕の生涯の生きがいにしたい。
それでは、いけませんか?」
怒りよりも、戸惑いが強くなった。
……この人は、何を、言っているの?
自分の子孫を残したくない男なんて、いるはずないのに。
佐和田ヨネの心に、今村誠治が棲んだ瞬間だった。
*
ほどなく、今村誠治は、
父の不義密通の子である赤子を押し付けられた。
自分の言うことを聞かなかったヨネへの当てつけ、
で済ませられる話ではなかった。
しかし、今村は、泣き叫び続ける赤子を見て、
ニコニコとほほ笑んでいた。
「なんとも可愛いものですね。」
……頭がおかしいんじゃないの?
こんなにやかましいもの。
自分の子どもじゃ、ないのに。
義理の父親の、不貞、不義の子なのに。
本家の末裔を手籠めにした証なのに。
不貞腐れている私が、馬鹿みたいじゃない。
ベットで横になりながら、髪を撫でで貰えるのを、
じっと待っている私に、きづいてよ。
*
怜那がデビューとやらをして以降、
怜那の廻りは、騒がしさを増してる。
怜那に取り入ろうとする有象無象の男共が、
大学の「友人」として大量に潜り込んでる。
にも関わらず。
「というわけでして、
大変申し訳ございませんが、
奥様から早川副社長に是非ともお声がけを賜ればと。」
この子は、怜那の、音楽の話しかしてこない。
徹頭、徹尾。
音楽の話なんて、どうでもいいの。
同爨。同じ部屋。私の可愛い妹。
そうさせている理由が、その怜悧な頭で、どうして分からないの?
ヨネは、いま一度、妹の彼氏に眼をやり、
ぶるっと身震いした。
……似て、いる。
古河智也と、今村誠治。
骨格はまったく似ていない。
残念だが、今村誠治よりは、古河智也のほうが、容姿は悪くない。
それでも、美の女神に祝福を受けまくり、
光輝かんばかりの怜那を、隣に置けるような器ではまったくない。
ただ。
この頼りなさそうな、冷静を装っている青年が、
怜那のことを眼を輝かせながら熱弁する時、
怜那のことを、ただ、それだけを考えてくれているのは分かる。
怜那のすべてを、心から好いて、受け止めてくれていることも。
……あの人も、そうだった。
私のこと、怜那のことだけを、考えてくれていた。
でも。
この子の口から出てくるのは、ぜんぶ、音楽の話。
いつも、いつもいつも。
ちがう。そうじゃない。
その妙なことばかり廻る頭で、さっさと分かってくれないかしら。
……それとも、本当に、言わないとわからないの?
怜那は、菊池家の血を引いてしまっている。
不義密通の子であるにも関わらず、
父は、本家との蟠りを解消する切り札として使おうとしている。
父の頭の中以外にはなに一つ幸福を生み出さない狂気の濁流に、
怜那を放り込もうとしている。
中学、高校と躱し続けてきたが、
大学生になった今、大義名分は、もはや存在しない。
あの暴虐な父を待たせることは、もう、できない。
いま、古河智也が、手を出さなければ、
怜那は、ヨネの手から、奪い去られてしまう。
*
低俗な婦人雑誌を青い顔で持ち込んで来た古河智也を見て、
ヨネは、心の底から呆れかえった。
信じられなかった。
あの男は、怜那と、交際していないつもりでいたのだ。
ならばどういうつもりであの狭い部屋に一緒にいたのか。
怜那も怜那だ。どうしてさっさと落としてしまわないのか。
どうして自分を口説こうとする連中を傍に置いたままなのか。
……それとも、
本当に、分かってないの?
そこまで考えて、ヨネは、愕然とした。
怜那が父の子だと、ヨネの妹だと知っているのは、
父の他には、地上にはヨネしかいないという、当たり前の事実を。
前提を共有していないならば、
焦燥感が違うのは当然だ、という、単純明快な真理を。
……ひょっとして、私が、間違ってたの?
……ううん。
若い男女が二人、同じ部屋にいて、
常識的には、何も起こらないはず、ない。
我が妹ながら、怜那は、凄まじい。
美しさと可憐さを併せ持った奇跡の相貌に、
同性の嫉妬を集めてやまない、均整の極致のようなスタイル。
たわわに実った果実が、目の前にあるのに。
摘まれることを切望しているはずなのに。
どうして摘み取らずにいられるの?
おかしいんじゃないの?
おかしかったら。
本当に、おかしかったら。
いや。
あの子は、怜那を、はっきりと、性的な対象と意識している。
ヨネが生涯で、意に沿わぬ男から何度も向けられた眼だ。
怜那への気持ちを問うた時に、恥ずかしげに頷いた古河智也は、
まるでいとけき女子のように、頬を、瞳を赤らめていた。
だったら。
どうして、手を出さないの。
怜那も怜那よ。
誘ってしまえば、手を出させてしまえばいいじゃない。
……ひょっとして。
欠陥があるのは、怜那のほう?
考えもしなかったけれど、まさか。
まさか、ほんとに、そうなの?
……ううん。そんなはず、ない。
怜那が作詞したという歌。あれは、雌の魂の叫びが綴られているだけ。
欲しい、欲しい、欲しい、どうしても欲しい、
重なりたい。交わりたい。自分の全てを惜しげもなく捧げたい。
それしか、歌ってない。
互いを好いて、狂おしいまでに互いを欲しがる一組の健康な男女が、
同じ部屋で、しとねを共にして。
何も、起こらない。
……ほんとに、どうなってるの???
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